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yasuosanのブログ

常に適当なこと書いているので書いてあるものは常に虚偽のものでありえます。

 ハラスメントの他に重要な倫理的問題が今のところあるのかと思ってしまう

 Twitterやめてストレッチパワーが高まってきた

 

 わざわざ書くことでもない、というか書けるほどの時間をかけることもないという事態が増えすぎて、ブログってこうやって消えていくんだろうなぁと思う。

 「私の基本的な主張は、人間の行為と性向についての道徳的判断は、評価のあり方のまさにひとつの領域であり、このあり方は、その対象が生き物であるという事実によってじっさいに特徴づけられるということである」(フット『人間にとって善とは何か』序論、p.15)。

 

  「核となる考え方は、人間にとっての善さを行為とのかかわりで考えることである。・・・カントが、道徳的な善さは意志の善さであると言ったのは全く正しい。・・・しかしながらカントは、理性的な存在それ自体に適用可能な抽象的な実践的理性という抽象的な考え方によって、われわれ自身の道徳的コード[準則?]といったことに完全に到達できると考えた点で誤ってしまった。というのも人間の行為についての評価は、まさに[一つの特殊な理性的存在としての]人間に特有の生のあり方が本質的にもつ特徴にも依存するからである」(前掲書、p.34.[]は引用者の補足)。

 

 「道徳的議論を根拠づけるものは、究極的には、人間の生のあり方についての事実にある。・・・私の見方では、それゆえ、道徳的評価は、事実についての言明と対立したり、それらと独立してなされるものではない。むしろ、動物における視覚や聴覚、そして、その行動のさまざまな側面の評価がそうであるように、特定の主題についての事実とのかかわりでなされる。・・・人間の意志についての評価は人間の自然本性とわれわれ自らの種の生のあり方とにかかわる事実によって規定されるべき考え方・・・に対する抵抗が、善い行為の善さは選択と特別な関係にある考えと何かしら関係していることは確かである。しかし、これまで示そうとしてきたように、この特別の関係は・・・道徳的行為が合理的行為であるという事実によるのであり、そしてまた、人間は行為の理由を認識することができ、その認識に基づいて行為する能力を備えた生き物であるという事実による」(前掲書、pp.51-52)。

 

 ここらへんが道徳の中で「理由」を重視するようになったことへの影響をもつ部分なのかな。

 ついでにフットといえば某問題と二重結果説で有名だが、それと同じような考え方を見出せる部分が上と同じ本にある。

 ある医師が、緊急の状況下において患者を死なせてしまう場合があるが、それは例えば治療の際に投与した薬に対して患者がアレルギーを持つことをしらなかった、という「無知ゆえの」(through ignorance)ことだったかもしれない。この時、

 

 「この医師の行為は、「治療する」という記述のもとでは意図的であったが、「死なす」という記述のもとではもちろん意図的ではなかった・・・。とはいえ、この例は注意深く選んだものである。というのも、無知の状態で(in ignorance)行為するあらゆるケースがこういった仕方で免責するわけではないからである。この医師は差し迫った状況で行為していたので、アレルギーのあることを知ることは不可能だった。そして誠実な医療従事者であればだれもがそうしたであろうような標準的な治療をその医師は行ったのだということが含意されていたのである」(前掲書、p135)。

 

 こうした語りからしてト〇リー問題のことがまぁ頭に浮かぶだろうが、似たような二重結果説のよくある例としては、やはり人工妊娠中絶だろう。中絶という行為に関しては、二つの見方がある。それは上の引用の語法に倣えば、対象者を「治療する」という結果と、胎児を「死なす」という二つの見方だ。で、そういう二通りの結果の記述が可能だとして、フットが実際のところどういう道徳的評価の基準を打ち出しているのかはよくわからない。

 

 「この最後の所見で示唆されているのは、自分が何を為しているのかにかかわる知識の欠如によって、「自発的であることから何かが取り去」られはするが、つねに免責されるとは限らないということである。というのも、無知そのものが自発的なのかもしれないからである」(同上)。

 

 ひょっとしたら、自分がどういう結果になることをあえて知らない、つまりいずれかの結果ついてどちらか一方のことに「目を瞑る」(つまり自発的に無知に固執する)ことは免責の根拠にならないということなのだから、翻って考えて免責の根拠があるとすれば、当事者がどちらの結果(事実)についても知った上で、その結果を選んだことに対して与えられる「理由」ということになるのだろうか。例えば、身体的な理由、精神的な理由、経済的な理由とか。そう考えてみると確かに常識というか日常生活とはそれほどズレたことを言っているわけではないし、生命倫理における具体的な問題とも折り合いがよいかもしれない。だけどそれでいいのかという気もする。

 「フットの論点は、ある意味では平凡なことである。つまり、あることをすることの「善さ」、そして人間の「善さ」を支えているのは、われわれがそうすること、そうあることを「善い」と思うかどうかではなく、それに「理由」があるかどうか、しかも、「事実」として提出される「理由」があるかどうかということにある。私[解説者=高橋さん]もそう思う。しかし残念なことにフットが示したのは、「否応のない論理」ではなく、「「なるほどね」という理由」、いや、もっと弱く、「「なるほどね」という説得の言葉」だとも思う。提示された事実をわれわれが「理由」であると思うかどうかという問題が依然として残っている。しかし、この点は別にしても、問題を「理由」という観点から見ることは、優れた展開である。つまり、論争点は、われわれがさまざまに考えるさまざまな「善さ」ではなく、その問題をめぐる「事実」に移るからである。大胆な言い方になるが、多くの倫理問題はなかば事実問題である。そこでは、何を「事実」と考えるかが問題となる」(フィリッパ・フット『人間にとって善とは何か』高橋久一郎監訳、解説より)。

 フットの本、難しすぎ。でも解説に則ればわからないでもない。賛同は今はしないけど。

 気が向いたらまた日記かきます