【GLAMOROUS】 -2ページ目

【GLAMOROUS】

さよなら おやすみ 君の中

 

 

 

 

 

或る「時間」と「空気」と「関係」を今井寿は完璧な形のまま真空パックした。終わりも、始まりさえもない永遠の時の王国。その美しいフォルムに、僕は嫉妬する。


櫻井敦司が好きだ。こう書くと違和感があるし、同性としては珍しいと言われることもあるが、男性でも櫻井のことが好きだという人間は意外と多く僕の周りにも存在する。たとえば櫻井の歌が好きだとか、櫻井の顔が好きだとか、彼の描く世界観が好きだとか、人間性とか、性格とか、いろいろあるが、元を正せば、櫻井敦司を好きな女(ひと)のことが好きだった、のだ。その人に櫻井の話題をされる度に、嫉妬と憧れの入り混じった感情と共にBTの楽曲を聴いていて、その内に、BTというバンドそのものに引き込まれていったのだ。この動機が不純かどうかは、僕にはわからない。でも、同じような男性も存在するんじゃないか、と考えたことはある。バンドの顔役であるフロントマンがヴォーカリストである、とは限らないが、櫻井は間違いなくBTの顔である。その顔をイメージさせる今井寿の創り出す或る種独特で或る種スタンダードなメロディに浸り、星野英彦のその空間を埋め尽くすディストローションカッティングに包まれ、樋口豊の彩なすグルーヴに身を委ね、ヤガミトールの躍動する展開に鼓動を荒くする。それを想起させる切っ掛けになっているのが櫻井の顔なのだ、と想う。要するに深く感情を揺さぶられてしまう訳だ。人は好きな人が好きな人に嫉妬する。もしくは好きな人が好きな人を好きになってしまう。その理由を確認しようとしてしまう。そんな自分を確認してしまう。しかしその顔の輪郭は本末転倒的に曖昧なのだ。

櫻井敦司が好きだったその女(ひと)と出逢ったのは、まだ高校の頃で、ある先輩の彼女の友人であった。年上の女(ひと)で、高校でも目立った存在の人であり、少年時代はそういった年上の女性に憧れを持つというのがひとつのスタンダードでもあった。もしくは自分が少しでも早く大人になりたい、いや、正確には「大人の男」に周りから見られたい、という願望が手伝っていた可能性はある。男というものは常にその女のはじめての男であろうとし、女は逆にに最後の女であろうとする、というが、本当だろうか? その女(ひと)のことは溜まり場に顔を出す内に好きになってしまったのであるが、今想うと櫻井敦司を真似るようなメイクや髪形をしていたような気がする。ちょうど、櫻井敦司が金髪を下し始めた頃だ。いわゆる不良少女のような出で立ちだったような気がする、大人びていたのだ、知り合って半年後には高校を中退してしまい、溜まり場だったカラオケ・スナック『びいどろ』で働き始めた。すぐに彼女は水商売の女の顔になった。当時、高校に残った僕にとって、まだ、18歳の若さのハズの彼女の顔は、ずいぶん「大人の女」に見えたものだ。僕をはじめ不良少年たちは皆そんな彼女の雰囲気に魅了され彼女を追いかけたが、彼女は櫻井敦司が好きだ、と公言して、そんな少年たちの欲望を遠ざけていたのかも知れない。そんな存在が櫻井敦司であった。

好きな女の好みの男。まさしくジレンマの青春時代の風景とBTというバンドと彼女がクロスオーヴァーして僕の脳内を駆け巡る。彼女は僕らよりも圧倒的に経験豊富で、自分とそんな彼女が釣り合うかどうか、そんなことばかり考えると自分のペースは乱れる。釣り合うわけないじゃん。結局、自分から身を引くという男が多かった。そんな弱い男たちへの愚痴を僕は彼女の口から聞きながら過す時間が多かった。僕はどちらかというと黙って彼女の話を聞いているだけだったから、割と彼女も饒舌になる。「あーどっかにあっちゃんみたいな男いないかな?」あんな男そんなにいるもんじゃない。そしていつしか自分もそんなジレンマに苛まれていた。傷ついたとかそういうセンチメンタルなことではない。「一緒にいると、キツいから別れてぇって思うんだけど。アイツといると、なんか自分を見失うから・・・けど、別れたくねぇのな」と元カレの先輩のアドヴァイスもほとんど無意味だ。そうだ、僕は彼女に、櫻井敦司の魅力の英才教育と受けたと言える。そこまで、ロックスターにのめり込む女性と接したのは始めてだったし、そういった日本のバンド・ムーブメントは、まだ黎明期だったのかもしれない。とても不思議なことなのだけれども、櫻井敦司と彼女は同一人物だったんじゃないか、と僕の脳は誤作動してしまった時期があったかもしれない。男とか女と、そういったジェンダーを飛び越えたところにその二人はあった。僕の手の届かないところにあったのだ。憧れと言ってもいいかもしれない。手にはいらないから、更に、想いは募る。なんだろう櫻井敦司の持つ危うさというか、いつまでも触れていてはいけないという禁忌というか、そういった刹那感が共通するような気がしていた。正直に言おう。僕は櫻井敦司が好きなのか、彼女が好きなのか、わからなくなった。だいたい、好きって、どんな感情だ? 狂ってしまったのかも知れない。きっと頭がおかしくなったのだ。櫻井が歌う 「イカレタノハオレダケ キミハスコシマトモダ」 いや、まともじゃない。僕は気がふれたのだ。これは嫉妬なのだろうか? 恋は精神疾患と等価だ。遠くから聞こえる声は雨の音・鋼鉄・ダイヤモンド。いつのまにか胸を撃ち抜く。どこから見失ったのか、お前を。どこを見てるか、もう見えない。赤い海の底で、狂った夢を見る。考えて出したつもりの「別れる」・・・口に出して分かったけど、本当はそれが一番怖くて、僕が一番嫌だった事だ。彼女から離れ一人でいたら死にそうだった。

浪漫とは憧れなんだろうか? もしかするともともと自分の心の内側に隠れていたものかもしれない。だ、とすればそういった意味で、櫻井敦司は浪漫そのものであった。そういったロックスターは色んな時代に登場するが、たまたま僕の時代にいたソレが櫻井敦司であった、ということだろうか? が、そう考えると、それまでのロックスターのカリスマというイメージとは随分かけ離れた空気感・・・が櫻井だった。圧倒的に残酷で、冷たい視線でこちらを見る。退廃というマントを纏い、まるで濃度の濃いアルコールだ。生きることの狂気と哀しさを少しニヒルに歪んだ口元で歌い始めた櫻井敦司は、すでに偶像という隠れ蓑を捨て去り、そういったことをしていた自身を少し遠くから眺めて自嘲的に軽蔑しはじめた。お前、バカなんじゃないの? まるで自分のしてきた恋愛をふりかえって、クリスマスツリーの下に相手につれていく自分とか、相手に悦ばれそうなセリフを口にし壁に手をついてキスをする自分を、どこからか離れて見ている自分がいて「オイオイ」とツッコミをいれていたということをやっていたに近いだろう。この客観性が、ある種、孤高の存在としての櫻井敦司を生み出し、それは痛快なカタチで恋愛の現状や作られたロックスターへの批判になっている。そんなものを皆は求めていたのか? ナルシシズムと様式美、幻想の世界であるアイドルロックとは対極にあるニヒリズムというか。なぜかはわからないがそれは哀しくも美しい闇で蠢くなにか。こうしてマイナス感情から再誕生した櫻井敦司は筆舌し難い。偶像として息をしていた時代は、さぞつらかったことだろう。リアルに鼓動を始めた櫻井の美しさは、生々しくも凛とはりつめたシベリアの吐息のようであった。彼は自らの血を流し始めるのだ。ここから、たちのぼる天まで続く13階段。舞い散る羽根と、流れ落ちるしずく。堕ちる。舐める。投げる。愛の痛みは何処へ逝っても消えない。どこまでも追いかけてくるぜ。あの月のように。あの銀色の月のように。あの・・・さびついた月の・・・ように。あのざんこくなくちびるのように・・・。

幸運なことに櫻井敦司の隣にはいつも今井寿がいた。BTがあった。今井の創作世界が櫻井の持つ客観性と共通の性質を持つものかどうかはわからない。もしくは彼の作る楽曲が櫻井のそういった面をひきだしたのだろうか? 美しい、胸にせまる、愛、憎悪、苦痛、快楽、生、死、すべてがそこに…、これこそ人間、これこそ…魔、彼らの才能の結晶が「ROMANCE」であろう、という結論には、今を以て変化はない。結成20周年記念シングルだとか、そういったこと言いたいのではない。彼らの才能こそが、この楽曲そのもの結晶化したのだ。その結晶は人の感情を凝縮したものであるが、リアリズムとか人間性とかそういう動的なものとはかけ離れた地点に存在している。徹底的に冷徹であるが、それは無機質ではない。その輪郭に曖昧さや妥協はない。

そんな地点にいる彼らに、僕は今でも嫉妬しているのだ、と想う。

 

 

 

TOKYO/BUCK-TICK

 

2013-12-29 00:00:00

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yas