yaso-haruyaのブログ

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国や民族等の違いによる優劣をつける、言わば国家レベルの差別があったし、今も続いている。東アジアの悲劇は、近隣諸国同士の差別史観により、史実が歪められている事にある。史実を探り、失われた日本人の誇りを取り戻すことが世界の安定に寄与すると訴えたい。

本年、NHK大河ドラマは「光る君へ」。

源氏物語を著した紫式部の半生を描く話。

 

ネット上で、腑に落ちた記述があった。

 

藤原氏の一員である紫式部が、藤原氏一族ではなく源氏一族の物語を描いたのは、何故か?

その理由が「鎮魂」であったというのだ。

 

645年の大化の改新の功により、中臣鎌足が藤原の氏を賜ったことが藤原氏の始まり。

 

対して814年、嵯峨天皇の子女達が臣籍降下し、源の氏を賜った事から始まったのが源氏。

 

紫式部の活躍は、平安時代。西暦1000年前後というところ。

この頃は、藤原氏が権勢を誇り、源氏(公家源氏。朝廷を藤原氏と共に支えていた)は政治的にはやや後塵を拝していた。

武家の頭領となった源頼朝の活躍は、少し時代を待たなければならない。

 

そんな時代背景の中で、この世の春を謳歌していた藤原氏側の者がわざわざ源氏の物語を書く必要があったのか? という着眼点は面白い。

 

で、その答えが、「鎮魂」。

ん…!!

 

何か聞いたことあるような筋立て!

 

伊勢神宮の主祭神は皇祖神・天照大神で、その荒御魂が瀬織津姫。

これは、持統天皇の頃にその形が成立したもの。

瀬織津姫は記紀(「古事記」「日本書紀」)には登場しない。

 

なのに、何故か大祓祝詞に、人々の罪を祓う祓戸四神の一柱として登場する。

この大祓祝詞も持統天皇の頃に出来たもの。

 

瀬織津姫は、大和朝廷とは異なる勢力の人(神)であったのではないだろうか。

出雲族や、蝦夷と呼ばれていた日高見国(今で言う東北・関東にも出雲族はいた)の出身か!?。

この瀬織津姫。水の神、龍神として全国各地で広く深く信仰されていた形跡がある。

大和朝廷にとって、否、天武天皇の皇后であって天武崩御後に即位した持統天皇にとって、己の正当性を高める為に、瀬織津姫への信仰が目の上のたんこぶだったとすれば、天照大神の荒御魂として本宮のすぐ後でお祀りすることも有り得るのかと…。

 

そして、日本の国史である記紀には一切載せず、大祓詞に封じ込めて「鎮魂」した。

 

持統天皇にとって、瀬織津姫は「畏れ」の対象であったのではないかと…

 

「畏れ」  「鎮魂」

 

忠臣蔵で有名な元禄赤穂事件にも、畏れや鎮魂にまつわる物語がある。

 

最も直截的に言えば、浅野内匠頭長矩が此の世に遺した無念を家臣達が「鎮魂」したのだと考えられる。

 

ただ、一方で吉良上野介義央の跡を継いでいた吉良義周公は、お家改易の上、御身は諏訪の地で幽閉され、そのまま此の世を去った。

 

この鎮魂は、ちゃんと為されただろうかと…。

 

日本列島の人々は、古来より自然の脅威を畏れつつも、優れて自然の恵みを享受してきた。

豊かなこの環境を神として捉えてきたからこそ、我が国独自の文化を醸成させることができた。

人々の行動基準の中には、当たり前のように何処かに神様がいる民族だ。

八十玄八