yasashisatuushinのブログ

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心に栄養補給を!!
週に一度は良いお話で、心をリセットしましょう。(笑)
毎週土曜日の午前10時に配信しています。

2024年10月12日(土)

 

おはようございます。

 

爽やかな秋晴れの大変良いお天気になりましたね。

 

今日から三連休という方が多いと思いますが、お出掛けの際はくれぐれもお気を付けて。

 

さて、今朝は先週の続きです。

なぜ、インドネシアで日本の歌『愛国の花』が準国歌として、しかも日本語で今でも歌われているのか?

 

そこには、敗戦後インドネシア独立のために一緒に戦った、我々日本人とインドネシア人の深い絆がありました。

 

② 『インドネシアの準国歌 愛国の花』

 

インドネシア独立に命を捧げた日本人たち

 

オランダを追い出した日本軍は、インドネシアを統治する際に宣伝班を編成し、1942年3月にジャワ島へ派遣しました。

 

この時にジャワ島に上陸したのが町田中佐や副班長として参加した金子智一です。

 

宣伝班の主な役割は、現地の日本軍の活躍を内地に伝えること、そして現地の民衆に戦争の意義を知らしめることにありました。

 

旧宗主国オランダに変わり、日本軍の統治が始まると、その基本方針を示します。

 

民衆の福祉増進、現地住民との共存共栄、治安の確立など、そこに書かれた内容から金子智一は日本軍の目的がインドネシア独立の支援であると理解し、仕事に邁進しました。

 

「俺は命をかけてインドネシアの独立を手助けするのだ」。

 

それこそが自分の使命だと金子が意気揚々と仕事をする最中、大本宮から衝撃的な命令が下されます。

 

それはインドネシア国旗メラプティと国歌インドネシア・ラヤを禁止するというもの。

 

独立支援とは真逆の大本営の方針転換に憤慨した金子は、インドネシアの独立が達成されるまでは

日本に帰らないと改めて決意を固くします。

 

1945年3月戦況が傾き、インドネシアでも反日感情の高まりが見え始めていた当時、日本軍はインドネシア国内の集会や政治活動を一切禁止するようになっていました。

 

金子は、今こそ命をかけてインドネシアの独立を手助けしようと、自分が全責任を負う覚悟を決めます。

 

しかし、1945年8月15日日本は敗戦し、インドネシアにも連合軍から現状維持の命令が下されます。

 

立場上、堂々と独立支援ができない金子は、西部ジャワ旅団長 馬淵少将と手を組み、軍票や宝石を独立の資金として独立推進団体の幹部たちに渡しました。

※軍票=戦時、占領地で軍隊が現地から物資調達のために発行される政府紙幣

 

現状維持の責務を負う日本軍と再植民地化を狙う

オランダとの戦いに備えて、武器や援助を必要としている独立推進団体たちの間で葛藤する金子は

3つの体が欲しいと思い悩みます。

 

1つは祖国日本と運命を共に死んでいくため。

もう1つは廃墟となった日本の復興と再建に尽くすため。

そしてもう1つは、インドネシアの独立闘争に身を投じるため。

 

金子は独立推進団体の幹部たちに相談します。

 

彼らの出した答えはいかなる恥をしのんでも日本に帰ってほしいというものでした。

 

幹部の一人は金子に言います。

インドネシア独立は、なんとしても自分たちの力でやらなければなりません。

それを教えてくれたのは金子さんです。

 

彼らに背中を押され帰国を決心した矢先の1946年1月5日夜、インドネシアの独立運動に加担した容疑でイギリス軍から出頭命令を受けた金子は、翌日ジャカルタ市内のグルドック刑務所に収監されます。

 

その日はくしくも金子32歳の誕生日でした。

 

グルドック刑務所には日本人600人、インドネシア人1400人が収監されていました。

 

収監者たちは重い刑罰は免れられない。独立は果たせないのかと絶望にくれていました。

 

金子自身この刑務所から生きて出ることはできないだろうと覚悟を決めます。

 

それならば思いを貫こうではないか。

 

取り調べの尋問で金子は、「インドネシアは元々誰のものか?」、「インドネシアは元々誰のものか?」と、

繰り返し取り調べ官に質問し、「インドネシア独立運動に協力して何が悪い!」と主張を続けます。

 

ある日空を見上げた金子がふと口ずさんだインドネシア・ラヤ。

※インドネシア・ラヤ=インドネシア国歌「偉大なるインドネシア」

 

その声に一人また一人と唱和する声が加わり、いつしか1000人を超える大合唱となっていました。

 

今度はインドネシアの囚人たちが日本語で「愛国の花」を歌い始めました。

 

この「愛国の花」は日本兵が望郷の思いに堪え切れずに、よく歌っていたものを自然に覚えたものです。

 

大合唱は毎晩のように刑務所内に響き渡り、それをリードする金子の大きな歌声は、他の日本人収容者たちにも生きる希望を与えました。

 

そして、それから約1年後の1947年2月2日、金子はようやく日本の地を踏むことができました。

 

インドネシアの独立に力を貸した金子は、1988年にインドネシアから『ナラリア勲章』を授与されています。

※ナラリア勲章=独立名誉勲章

 

「愛国の花」はインドネシアで準国歌となり、今でも歌われていますが、日本がもし侵略国家であれば、絶対にこのようなことが起こることはありえません。

 

彼らは、300年もの間インドネシアを統治したオランダの歌を、歌うことは絶対にないからです。

 

準国歌としては日本語で歌われているものの、スカルノ大統領が自らインドネシア語に翻訳し、「ブンガ・サクラ」というタイトルをつけました。

※ブンガ・サクラ=桜の花

 

愛国の花は独立の歌として

今でも愛され歌い継がれています。

 

大東亜戦争敗戦後、約2000名の日本兵はインドネシアに留まり独立戦争に参加しました。

 

そして、インドネシア人に戦争指導を行い、一緒に戦い、約1000名が戦死するなど命がけでインドネシアの独立を支援してきたという事実があります。

 

昨今では、高速鉄道をめぐってインドネシアとは微妙な関係にありますが、

東亜の解放、英米の支配からの解放をスローガンに大東亜共栄圏の実現を成しえた先人たちの努力を、お互いに忘れてはいけないと思います。

 

日本は自らの国のためだけでなく、アジア解放のために自らを犠牲にしてまでも最後まで戦い抜きました。

 

その高潔な精神が世界から高く称賛されているのです。

 

人の心を揺さぶるのは知識量や技術力以上に愛情です。

 

大義を重んじ、愛情深く、誠実で思いやりのある日本人の美しい精神が、世界の人々が日本を慕う理由にあります。

 

昨今ではそのような心が失われつつありますが、その高潔な精神は灯のようであっても、今でも一人一人の根底に失われずにあると信じています。

 

今こそ、先人に恥じない国を取り戻さなくてはなりません。

 

【noteホームページより】