二極を統合する日。「依存」による設定に気づき続けてパターンを超える。
今日は秋分の日ですね。岐阜は蒸し暑く、風がビュンビュン吹いています。秋分の日といえば「昼と夜の長さが等しくなる日」であり陽から陰に転じる日ですね。陽がよくて、陰が悪いようなイメージがありますが本来はいいも悪いもないですね。ただの状態です。また、二極統合の日とも言われます。この世は男と女いいと悪い表と裏光と闇という二極で物事を見ています。ジャッジメントですね。二極を超えて、存在を受け入れていくことが流れであるように感じます。それは、「私」の中にあるジャッジメントに違和感が出てきたり「本当だろうか」という問いが出てきたりするかもしれませんね。概念は置いておいても自分と向き合う中で生まれてくるものを注意深く見ていくと自然と流れに乗っていくのだと思っています。さて、今、藤本さきこさんの設定変更手帳のお題をひたすら千本ノックのようにやっているのですが、繰り返し出てくるワードがあるんですね。それについて「考察」したことについて気づきがあったのでシェアしたいと思います。それは、「緊張する」ということ。お題の「仕事」や「稼ぐ」、「評価」などを掘り下げた時「緊張」を感じたんです。この「緊張」ってなんだろう。この奥には「期待に応えなきゃ」って思いが隠れていることに気がつきました。この「期待に応える」ということの裏には愛されるためというのがくっついているんです。結局自分のためなんですね。それは、子どもの頃にきづきあげた「依存パターン」のまま大人になっているからだと思うんです。自分の求めていること(愛される)のためには相手にとっての価値(期待に応える)を提供する必要があると思っているんですね。それも私の思い込みであり相手にとっての価値でありそうなものなんですが。それが「緊張」という形で表れているんだなぁと気がついたんですよね。しかし、当たり前に感じているように私は一人の大人であり、自分の行動に責任を持って生きていいんです。わかっていても思い込みによる制限でできていないってことがあるんですよね。気がついたら、その思い込みは消滅すると思っています。そう、手放すだけ。どんなふうに生きたいかな?ってさらに聞いてみたら、食べたいものを食べて、着たいものを着て関わって欲しいように関わり、過ごしたいように空間を作り聞きたい話を聞き、または書いて生きていきたいなってでてきた。もう、本当にそれだけなんだなぁ。「依存」を手放そう。「依存」をベースに作り上げている「今」に気づいていこう。ただ、そうあったことに気づき続けながら設定見直していこう。存在していることそのものがもう価値なのだから。価値を価値たらしめることにもう力を注がなくてもいいのだから。