人をみてあれこれを言うべからず、人をみて自分を正す、、が基本です。
ただ、自分の考えや思いではなく、日々学んでいる理と合っていないことに対しては、先輩だとか後輩だとかも関係なく、お互いに諭さなくてはならないということも一方であります。

私は人に言うことがあるのですが、もちろん反発されてしまうこともありますし、私の中にある同じ因が反応して、言っていることとではないかと、とられることはよくあります。
それについては、そんなことはないです。と言いきれないと最近は思っており、余計な心も入っているかもしれない、、と謝りながら、伝えるというようにしています。。

よくよく注意をはらわなくてはならないと思うことは、自分に気が合う人とそれほどでもない人が同じ言葉や行動をした時に、一方の人のことは理に合っていると思い、一方の人のことは理に合っていないとしてしまうことです。
これについては、焦げるぐらいにどうしたらよいのか考えたし、しつこいぐらいに発信をしてきました。

それと、役にたたせてもらえたことがあると、自分がやったというような気持ちになり、自分の体験を共有するはずのところが気がつけば、自慢話に転化してしまっている、もしくは、はじめから自分は凄いでしょう、というような話になってしまっていることです。

私自身も、人に認められたいというような思いがありましたし、今もきっとまだ残っています。

だけど、本当に天のあり方がわかり、繋がりができてきたならば、人に認められたいという思いが、人ではないところにシフトすることができ、そういった意味で、少しずつ安心感が生まれくるように思います。


人と人も、理と、理にのっとった情で繋がらなくては、不確かなものです。永久なものにはなりません。(実際は繋がりは断たれることはありませんが。。)

人との関係で一悶着あっても、結局、お互いに自分のことだ・・と戻すことができれば、研磨や、度量をひろげることにつながり、お互いに成長することになります。

一方で、結局は事が起こった原因は、自分にもあるという考えに至らず、すべて問題を自分の外側にしてしまう場合は、どうすることもできず、いつまでも解決できません。

私はある方に、お叱りを受けました。
確かに、私の連絡不足が起こしたことで、ご迷惑をかけたので謝ったのですが、それでも相手の方の気持ちは収まらず、あれこれと他のことも言われたのですが、全体的に客観性に欠け、了承できる内容ではなかったのですが、何をいっても通じる状態ではないので、頷いて聞くことにしました。

あなたは間違っていて、自分はなにも間違っていないということを主張したところで、なにかお互いに得ることがあるはずはないのですが、気が済む、ということだけは得ることができるのでしょうか。

面倒くさい人とは、関わらないことだわ、、という感じで、今までは近づかないようにしてきてしまいましたが、、そういったものでもないのかな、、とも。。具体的にどうしたらいいのかは今はわかりませんが、まずは、自分にも人を威圧してしまうところがまだまだあるということを認めることはしたいと思います。

好き嫌いをなくしていくということが、いただいている課題になっているように感じているのですが、それも、なかなかのことで、、、。

笑顔できてくれる人には笑顔になれるけれど、厳しい顔をむけてくる人には笑顔になれません。

相手の感情や現れを超えて、本質だけをとらえ続けてみると、、また、違った行動ができるようになってくるのでしょうか。。