庭には二羽鶏がいる・・・・・じゃなかった。
我が家を建てる時、シンボルツリーとして植えられた
ヤマボウシという木が、庭にはある。
この木が結構背丈があって、夏の強い日差しは
防いでくれる。
でも、隣の家の電線にかかりそうになっていたので
今朝6時頃、枝を切った。
日ごろジムで鍛えたこの身体。
多分枝だけで10㎏以上はありそうだが
脚立に乗って片手で、枝が隣に落ちないように支えながら
引きずる。
立木の枝を片手で押さえ、
もう一方の手で鋸をひき、
脚立に乗って、切れた瞬間の枝を離さずに
下に降りる。
この時だな。
男の価値が下がったのは、みんなサラリーマンになったからだ。そういう実感が頭に浮かんだ。
男が存在意義を持つのは、力仕事だ。
農作業や山・海仕事。
自然を相手に体を使って仕事をしていた時代、
男はなくてはならない存在だった。
もちろん女にも、たくさんなくてはならない価値があるが、
男でなければ、と普通に言えるのは、力仕事だ。
もう一つ外敵を防ぐというのもある。
世の中が、どんどん快適になるにつれ、
男の価値は、物や組織で代替されるようになり、
リーダーシップはハラスメントと同等の扱いに近づいている
現代、お友達と和気あいあいやる調整力の方がリーダーとしても適切だ。
男性性がほぼいらない。
せいぜいスポーツで、その力を発揮する程度だ。
自分も気づけば、その男性性を発揮する場として
ジムに生息しているのである。
つべこべ抜かすんなら、この木を切ってみろ!
とかと、心の中で思うだけでも、
言動にその感覚がにじみ出るので、思ってもいけない。
ああ住みづらい。
世の中は、端末による支配が進み、
組織のルールで動く。
椅子に座って、頭の中で緻密にシミュレーションした
網羅的な規則は、脚立で庭木を剪定する
男性性とは相いれないものだ。
こういう男性性を去勢された世の中は、
どうなる。
ま、言ってみれば、平安時代だな。
貴族文化が華やかで、藤原氏の一強多弱。
戦えば、取るに足らない上流貴族が
組織の上にいるだけでふんぞり返る。
こういうやつに限って
男性性を持たぬがゆえに、
男性性を野蛮だと断じ、そういう仕事は下賤と見下し
それゆえ、周縁に追いやり、
都合のいい時だけ、利用しているうちに、
男性性集団は、自分の力が発揮できる騒乱を期待し、
「俺たちの力がないとどうにもならんだろ」
といい、騒乱という時代を生き場にする。
争いは男も女も嫌いだが、
自分の持つ長所を排除する世の中に適合できない人と、
そういう不満分子を利用する人と、
自分が男性性を持たないがゆえに、
男性性の狂気の部分を本当には知らない人が、
三つ揃うと
魔界の何重にも張り巡らされた封印が解かれるように
一気に男性性の狂気が解放される。
男系男子だと?
これほど矛盾した制度はあるまいと、
以上の想像から推測した。
論理的に考えれば、そうでしょ。
だからこそ、理不尽を成立させるために民主主義という見た目をした、制御装置が必要なのである。
補足しよう。
論理的に正しく人間的にむるがなければ、政治的に議論し、国民の賛同を得るのにも苦労はしない。
しかし、功罪半ばし、簡単には成案ができない場合は、多数決という形式で、一方の主張を制度化する必要がある。
民主主義は最低の制度で、唯一の救いは、修正が効くところだそうだが、でも、制度の安定を望む人々=今の生活が変わらなければそれでいいと思う人々は、修正を阻むようにできていて、そう簡単ではなかろうと思う。
さて、男系男子だが、
これには、論理的正当性はない。なぜならば、日本と似たような王族という制度を持つ国でも男系を配した国があり、それを国民は承認している国があるからだ。国民の意見に近い方を選ぶのなら、より民主主義的と言えるが、国民の意見より先に、法案を通して、外堀を埋めて世の中を不可逆的にしておいてから、意見を聞いても誰もまともには答えまい。これは制度を逆用した専制である。
だから、根拠としてあるのはそれが伝統だと信じる人の主観である。主観であっても、それが法律という手続きを経れば
一気に客観的存在になる。そういう制度の使い方が日本の伝統だ。
まるで錬金術だが、
藤原氏の世の中でも、相当に無理があっても
力を持つ藤原氏が制度(法律)を提案し、形式上議決を経れば、それは私的な思いが公的な制度になるのである。
政治というのはこういうものだ。
男系男子というものにはそういう政治的な側面のおかしさがあるだけでなく、男性性という面でも抜きがたい矛盾が含まれているということに、男性性の狂気にどれほど理解があるかわからない貴族(政治家)は、気づいているか。甘く見てはいないか?
男系の意味の根源には、男というものを考えれば、
本来力が有るものが主権者になるという部分がどうしても残る。力にもいろいろな部分があるが、統治者は基本的に強くなければいけない。明治という時代に皇室典範がつくられたのには、
分かりやすく言えば最強の男が、指導者としての地位についていたというものである。
周りの豪族を力でねじ伏せる力が男系の本質である。
もちろんこれは正当な論ではない。
単なる感想だ。
庭木を剪定しながら思いついたことだ。
もう少し、思い付きを忘れないように書いておこう。
男系男子の矛盾についてだ。
男系の本質が力による親政であることを思えばすぐにわかるだろう。
全ての力(男性性)を否定する制度としての象徴となった
平和憲法下に、力という思想を維持することに固執するからである。
国民統合の象徴として、現代的になっている
権力ではない「国民と苦楽を共にする」存在は
生物学的に言っても、女性優位である。
儀式やしきたりや、こまごまとした取り決めは
貴族的であり、女性的である。
官僚的であると言ってもいいだろう。
そこで求められるのは、剛腕ではない。
調整力と忍耐である。
こういう方面の能力は本質的に女性の方が上だ。
さてこのように、欧米に近代国家として認められるために必要だという理由もあり整えられた旧皇室典範というものが、
男系男子を必要としたというのは、ある意味外敵から身を守るという男性性が発現したとみることもできよう。
翻って現在、国際機関からも男系男子という思想は、現在の世の中に逆行すると指摘されることもある。
もちろんそれほ日本の文化だし、伝統だから、国際基準で文句をつけるのはおかしいという主張も正しい。
だったらなぜ、明治時代に男系男子を法律化したのか。
法文化して示さないと、日本が国際社会に認められないという現実的な側面もあったのではなかろうか。
いまは、日本は国際社会に合わせずとも、独自のあり方で、十分認められるという立ち位置で、文化と伝統としての男系男子が主張されるのである。
明治時代は、富国強兵殖産興業の果てに、
日清日露戦争をはじめとして、騒乱が続き、太平洋戦争敗戦で、憲法から改められ、皇室典範も変わった。
もちろん、そういう時代だったというのもあるだろう。
各国が近代国家として、世界に覇権を広げようという時代に日本もそれなりに対応したということだったのだろう。
この構図は、もしかすると憲法9条にも通底しているかもしれない。
戦力不保持、交戦権否定。
これは平和憲法ともいえるが、自国は自国で守るという男性性優位の常識から考えれば、軍事力を権利として保持し、有事の際には軍事力を行使すると憲法に明記していなければ、
政治家は軍事行動をとれない。
現状では、軍隊ではない、自衛隊が、有事に備えているが、極めてあいまいな存在になっていることについての気持ち悪さというものは、たぶん誰でもが持つ普通の感情だろう。
アメリカの基地をいまだに国内に持ち、自国の軍事力では大利ない部分をアメリカに依存するという、主権国家としての在り方の弱さをどうにかしたいというのも、当然の感情だろう。
その軍事力とか、皇室というものを、はっきり明確にするという点で、こうして典範の改正と憲法改正の動きは一つである。
自分は、平和主義者だから、女性でもいいし、国民の支持があれば、その人が象徴でいいと思う。自国の軍事力で対抗するというのでなく、仲間を国際社会で作っておいて、困った時には連帯して対抗するというのがいいと思う。
自国の領土をどう守るかについても
男性性的守り方と、女性的守り方では違うと思う。
誰からも敬愛される、良心的な行動と相手を思いやる筋の通った外交というものの積み重ねで、国を守るという方向性なら、別に男系男子である必然性はない。
伝統にこだわるのは立派な見識。
しかし、伝統の当事者が、嫌な思いをするのなら、それはもはや守るべき伝統ではなく、政治家という時の権力者の押し付けに過ぎない。
政治家でも、世の指導者でも、ガラスの天井が世界中にある。こういう世の中で、男系男子に限るという発想は、次世代に引き継ぐべき伝統だろうか。
庭木を切りながら、男としての意味合いと、その存在価値を考えた時に、男性性の根拠の弱さと時代の在り方を重い、自分が男性性を追求できる行き場所として、ジムを考えた時に、逃げ場所がある男性は、そこでストレスを吐き出せるが、もし、吐き出す場所のない男性が、男性であることを主張したい場合、どういう結果を招くか、考えてみた。
そう考えると、男を求められる皇室のストレスの大きさは計り知れない。不満を口に出さず、むしろ敬愛される行動で、静かにお示しになるそのお姿が、男女を越えた人間としてのすばらしさを維持していらっしゃると思われる。
女性がもっと能力を発揮して、同様に男性性も健全に発揮される部面を認め、両性が違いを伸ばしあう中で、世の中が健全に明るくなることを願うばかりである。
だから、性にこだわる理不尽さというものを、ちゃんと理性的に話し合ってもいいのではないか。
有識者というお友達グループや特権階級的ギルドで話し合われた結果だけ示されても、国民は自分事として考えない。自分事として考えないから、世の中は良くならない。
自分事と他人事を切り離すと、話は簡単になり、決めやすくなる。そうやってサクサクと世の中を切り分ける、政治家の進め方を分断というのではあるまいか。
個別化して、問題を単純にして、一対一で決めていく。一方は国家なので、話し合いも何も、シナリオ通りにしか進まない。
やはり男系男子は、失礼ではあっても、自分の家がそうだったらどう思うかという自分事としての真剣な気持ちが必要なことだと思う。
人の家のことだから知らない、という姿勢が、やがては自分の首を絞める。
どうだろうなあ。
自分だったら、嫌だなあ。
これが民主主義の基本ではなかろうか。