教育の現場は、千差万別だし、入ってくる生徒の
性質も毎年違う。
現場では、子供が入ってくる前に、
今年はこうしようと目標を立て、
いろいろ準備し、教育活動にあたる。
その時、学年団とか、教科のまとまりとか、
部顧問の集団とか、
学校にはいろいろな小集団があり、
一人の先生が、何役もこなしている。
例えば、
1年生の正担任、テニス部顧問、教務課、数学の教員
等、である。
学年団ではその中で、添削指導の係とか
毎日の清掃指導とか、またいろんな仕事の担当をしているし
一人で何役もこなして、
それで、何とか学校は回っている。
だから、現場の目線合わせも必要だが、
いろんな意見のすり合わせをして、妥当な線で
教育活動は動いていく。
毎朝朝会もあるが、忙しい昨今は
単純に連絡事項が伝えられるだけで、
それをなぜやるのかとか、どういう方向性でやるのかとか
そういうことを話し合う余地がない。
勢い、個別の判断で進む場面も多く、
そこらへんに、上手く行かない素地がある。
なぜこんなことになったかと言えば、
理由はいろいろあるが、
現場で感じていることは
職員会議の性質が変わったということが大きいと思う。
例えば、国会の審議も、審議しないで、
政府案をそのまま通せばどうなるだろう。
一応政府が練り上げた案だから、いい案なんだろうが、
それを現場に適応させたときに、どうなるかという疑念を
一つ一つ明らかにして、どういう趣旨で、何のを目標にして
だからこうやるべきだという、現場サイドのチェックがないと、どんなに理想的な案でも、
現場でやり切れず、事業が失敗するだけでなく、
その副作用がしばらく現場に残る。
だから、その案の意味合いを明確にするためにも
国会での質疑は非常に大事だ。
より良い施策にするためには、異質な意見を聞き入れて再興する部分が必要だ。
これを学校現場で考えてみれば、どうなるか。
まず原案は文科省の通達である。
教育課程の趣旨や、その意味合いを行政サイドの人が来て、案の作成者の視点から説明されるが、
現場は、新しいことを一方的に告げられるので、
それを実際に現場でやった場合の疑問点をたくさん持つのが普通だ。
なぜ、そのように変わったのか、今までの方針はどういう成果だったのか、どこに問題があったのかという点には一切触れず、ということはつまり、政府案には一切の検証を許さず、もしかしたら誤りも含んでいたかもしれない部分をそのままにして、また同じ部局の人が真偽不明の検証不能の教育施策を作るのである。
次に教育委員会は、その施策を文字で理解して、一切の反論を許さず、教育委員会の指導で現場を縛る。
国会なら、導入前にいろいろと質疑があるが、教育現場日はそれがない。
そして現場の学校に降りてくるのである。
これは主に、職員会議等で示されるが、
今の職員会議には、議論議決の権限はない。
昔から法律上そういう規定だったかもしれないが、
職員会議では、上からの指示を聞いて、現場の感覚に合わないものについては意見を言って、納得する過程があった。
場合によっては、おかしい、そんな指導はできない、という強硬な反対意見も出る。
でも、管理職はそういう異論を聞いたうえで、納得するような論理展開をして、一応の納得を得たのである。
不満はあるものの、管理職の努力や説得の本気度を見て
それでは協力してやりましょうとなったのである。
ここには対話があり、上意下達ではなく、
お互いに意味を認めて、そこから先は自主的に取り組むのである。
こうすればいいというマニュアルが渡されて、
指示事項だけで、質問はなしにして、てきぱきとこなしていく。ここには納得も疑問も、自主性もない。
言われたことはその通りやり、実績になりそうな、
言われたこと以外の部分に全力をかける人は偉くなり、
言われたことに疑問を感じつつ、時々顕現する人は
面倒くさい人という評価が下され、
教員は分断されるのである。
要するに、話し合いをして納得して前に進むという
教育の本質を、職員会議を単なる指示事項の伝達の場にしてしまったから、教育はおかしくなっている。
管理職は、表立っての異論が出ないようにふるまうから
教員の本音がどこにあるか知らず、あるいは、職場の問題点に、本当に何かが起きるまで対処しないか、気づかないふりをする。
何かあったら直接、という方式では、問題の共有もできず、もしかしたら、偏った意見だけを情報にして、
管理職が動くこともありうる。
秘密のやり取りで、職場に何か指示が出される気持ち悪さを教育現場は許容しない。
官僚組織では上意下達で、自分の担当でミスが出なければよく、集団でわけのわからない子供たちに向き合うなんてことはないから、教員がやっていることを、見下す傾向がある。
文官では、農業はできまい。
現場に立って自然を相手にしなければ、どうにもならない。
いくら米をたくさん作れって言ったって、そううまく行くもんか。
教育だって同じだ
今日からコメはやめて、麦を作れって
紙の上の(画面上の)データでは可能に見えるんだろうが
そんなことをしたら、どうなるか、現場の人は知っている。
教育現場には、何年かに一度、劇的に新しい作物を作れという要求が出される。工場だって、新しいものを作るためにはいろいろと準備が必要だ。
機械や図面や技術者や新しいことに対応するには巨大な投資が必要になる、
教育現場はそういうことがない。
黙って新しいものを作れ。
作れないのはお前たちが無能だからだという感じを
遠回しの表現で言う。
こうやって納得機関の職員会議をつぶし、
政治の介入を止める権限を教育委員会から取り上げ、
上意下達にした。
意思決定は早いだろうが、教育はそう簡単に結果は出ない。
結果を求められる子供も辛かろう。
教員から自主性を奪った。
これは、意思決定権を奪われた、人間と同じだ。
こういう人間がどうなるか、分からない人はいまい