そして目星③
色々試して、まさかと思い直線を引いてみたらこうなった
8111m先にあるその場所は
広隆寺、奥ノ宮と呼ばれる八角円堂
桂宮院本堂!
(ケイキュウイン、ケイグウイン、ケイクウイン)
桂宮院本堂(国宝)
『本尊は聖徳太子半跏像(現在は霊宝殿に移されている)
正確な建造年は不明であるが、建長3年(1251年・鎌倉時代)中観上人澄禅による当堂建立のための勧進帳があることから、おおむねその頃の建立と推定される
『聖徳太子伝暦(しょうとくたいしでんりゃく)上巻、33歳・8月』には太子の楓野別宮(かえでのべつぐう)を寺にしたとする別伝を載せる。
(中略)
この説話は寺内の桂宮院の由来と関連して取り上げられる。
『聖徳太子伝暦』2巻。
・聖徳太子の事績を編年体に記した伝記
・太子信仰の基盤となった書物
・藤原兼輔が917年(延喜17)に撰したとみるのが通説(近時これを疑う説もある)
・《平氏伝》とも呼ばれる
・先行の太子伝を集大成したもので神秘的な説話が主調をなす
広隆寺 - Wikipediaなどより』
八角形円堂を創建した中観上人澄禅さんは意図してこの場所を選んだのでしょうか
桂宮院本堂のある場所は御陵かと思うほど厳重だなぁと感じます
現在、八角円堂は一般公開されていないそうです。入り口となる「ここ」とマークした所から奥に入る事が出来ません。駐車場からチラっと見えるけど竹林と高い塀に囲まれています。
次に気になったのは
大酒神社
『現在は広隆寺の東隣に小祠として鎮座するが、明治の神仏分離以前には広隆寺の桂宮院内に鎮座する伽藍神(寺院を守護する神)であった現在の主祭神
・秦始皇帝
・弓月王(ゆんずのきみ)
・秦酒公(はたのさけのきみ)
現在の相殿神
・兄媛命(えひめのみこと) - 呉服女
・弟媛命(おとひめのみこと) - 漢織女
大酒神社 - Wikipediaより』
広隆寺境内は明治の神仏分離令後に縮小されています。それ以前の敷地は現在『広隆寺旧境内遺跡』と呼ばれていて、現在の境内の約4倍程あったようです
広~いです
(↓PDFなのでリンク貼れませんがこちらを参照致しました)
『南常盤の多くは桂宮院の所領であった可能性が高い』とあります
その南常磐とは
『嵯峨街道を直線で描いた図5(『広隆寺境内図』京都府府立総合資料館蔵)と実測図である図4(『山城国葛野郡太秦村広隆寺境内外区実測図』京都府府立総合資料館蔵)を比較して「半分堺南側南常盤ト唱ヘテ」と書かれたように広隆寺境内の北半が「南常盤」と呼称されていたことが判明する。また、図5で描かれた別院・坊等のほとんどが、図4に描かれた藪・墓地・畑等になっていた区画と一致し、現在の小字名である「東蜂岡町」「蜂岡町」「西蜂岡町」と重複していることから、「南常盤」が「蜂岡町」へと変更された事も判明する。本来「蜂岡」という字・小字名は明治時代以前に存在しなかった。したがって「蜂岡町」は廃仏毀釈によって上地された土地が行政区分上から、明治時代に新たに付けられた名称なのである』
これまた範囲が広ーい
上記説明の図4図5を見たかったけど残念ながら拝見出来ません
ちなみに現在の大酒神社の場所も広隆寺旧境内遺跡範囲内で『太秦東蜂岡町』になります
ここまでかと思った矢先…
一筋のピカリーーっ
安永九年(あんえい・1780年・江戸時代)に刊行された「都名所図会」に『大酒大明神』が描かれています
ありがとーございます
『国際日本文化研究センター→データベース→平安京都名所図会→データベース検索画面→50音検索→こ→広隆寺→図絵へ』
「都名所図会」とか「~名所図会」とあるものは、名所ガイドブックのようなものなのだそうです
この図絵によりますと八角円堂の東南にある感じでしょうか
こうして見ると城南宮と桂宮院を結んだピッタリ直線上に、大酒神社と八角円堂があるような、ないような。。
まぁまぁあると思いたい
という訳で今回の実験結果、城南宮の向いている先は
・桂宮院本堂
・大酒神社
と勝手に決定 ノ´▽`)ノ
794年時代(平安京遷都前後)の人達がここまで正確に方角を認識していたかと言われれば疑問です
でも偶然にしては…
秦河勝さんにとって桂宮院が大切な場所ならば、城南宮はドンピシャでそこに向いている
と言うのが結論です
これは素人の勝手な実験です
歴史的根拠はまったくありません
(*^.^*)