師匠シリーズの手紙将棋に感動しました。
いい話です。
心がいたくなって、久しぶりに気持ちを言葉にのせて表してみたくなって、ブログを書くの画面を開いたけれど、いざ書こうとすると、何ヵ月かに一度たった一人でも、誰かがわたしのこの文章を読んで、なにかを感じると思ったら、よりわたしの心を表すのに適切な言葉を選ばなくちゃ、言葉を選ばず浮かんだままを書いて嘘を書いてることもあるしと、頭に言葉が浮かんできたけれど、この言葉はわたしが今本当に伝えたいことじゃない。多分。
私はどうして、書きたいと思ったのだろう?

心がいたくて、誰かに心がいたいよ、つらいよっていいたいのかな?自分の心がなぜいたいのか知りたいのかな?自分の心がなぜいたいのか誰かに伝えたいのかな?

自分の感情を知るのに、心に潜って一人静かに自分と向き合う時間とエネルギーが必要な私には、一人の時間は大事。

でも日々やることはいろいろあるから、限られた時間のなかで、きちんと心を整理するには、自己れんびんはいらない。だって私は不幸でもかわいそうでもない。私は私以外の何者でもない。私は私の心をもって、私を生きていくのだから。
ただ、心がなぜそう思っているのか、冷静にたんたんとふわふわと、ありのままを感じていけばいい。自分の気持ちを感じよう。

何がわたしの心を痛めているのか、自分の心と向き合うのは宝探しみたいで、いいじゃない。心の痛みはプレゼント。かくれんぼ得意なひみこちゃん🎵じゃなくて、かくれんぼ得意な私の心を見つけるチャンスだから。

でも、私が心を痛めていることで、周りの人が辛くなるなら、私は心に蓋をして笑った方がいいのかな?でもきっと、そんな蓋しても、私は嘘をつくのが下手だから、伝わってしまうのかもしれない。私の心と外に出す態度がちぐはぐで、なんだか違和感を与えるのかも知れないけれど、でも、もう少し公の場で相手を楽しませられるようになりたいな。

私は勝手に傷ついている。相手が私を傷つけようとしていなくても、おびえて勝手に悪い方に考えて傷ついている。

みやぞんもいっていた。自分の機嫌くらい自分でとれって。

でも難しいな。勝手に傷つく思考回路を、それは間違った思考回路だって実感できればいいんだけど。頭で説得するんじゃなくて、心で理解できたらいいのにな。

私の作った不必要な思考回路。ぐちゃぐちゃに絡まった糸をゆるゆる少しずつほどいていったら何が見えるのかな。楽しみだな。

多分、みんな傷つけたいとは思っていない。傷つけられたから、その痛みを受け止めてほしいだけ。その思いが、相手を傷つけてしまうのかな。傷つけあってしまう関係なのかな。私が執着しているのかな。相手に。わからないものは強引にわかろうとしないで、自分が心地よいと感じる場所へいけばいいのかな?一緒にいてなんだか心地悪い人に興味を持つのは悪い癖なのかな?

人をきちんと愛したいな。
執着でなく、きちんと、愛を与えたい。

マイナスな気持ちを無視して、前向きなことばかり考えていたら、、疲れました(^_^;)

前向きに考えるというのは、とても大事。

なんだけど、意識上にあるもの無意識下にあるもの両方含めて、感じるとモヤモヤどよんとする、いわゆるマイナスの感情。
これをなかったことにして、無視して前向きに考えようとすると、だめみたいだ。

マイナスの感情を感じたら、なぜそう感じるのか、なにが嫌なのか、なにが怖いのか、自分にじっくり、ゆっくり聞いてみる。すぐにはマイナスの感情の理由がわからないかもしれない。
無意識の自分の心の声を聞きとるのはなかなか大変だ。
自分で認識できていない、無意識下にある自分の感情は、未発掘の宝物かもしれない。
多くの人が多分持っている、愛されたい、愛したい欲求の元のようなものがその無意識の自分の奥の方に隠れているような気がする。
自分の恐れ・不安を知り、それから、そのような恐れや不安を持っていてもいいのだと思うことで、何かがいい方向に変えられるような希望が、自分の中にわいている。
これから、愛するということの本質が、少しずつ分かっていけるかもしれないという希望が。