新アルバム「世界が違って見える日」の歌詞クレジットには、珍しく解説が載っています
8番目に収録されている曲「心月」について、作者註があります
本来は「心月(しんげつ)」ですが、この作品では「心月(つき)」と発音しています。「心月(しんげつ)」は辞書などでは『澄んだ心』と解されることが多いようです。
私は寧ろ『仏性』と解したほうが近いのではないかと思っています。
(「仏性」 一切衆生が本来もっている仏としての本性。涅槃経「一切衆生悉有仏性」より)
今回の、心月 を 仏性 、とわざわざ説明するみゆきさんのイタズラが、なんとも気にかかりませんか
小乗仏教の日本では大乗仏教の涅槃経の教えは馴染みがうすいように思いますが、みゆきさんの曲には「一切衆生悉有仏性」を彷彿させる歌詞があります
例えば、
虫も獣も人も魚も
透明なゴール目指す ♪
(2004年「命のリレー」より)
石よ樹よ水よ 僕よりも
誰も傷つけぬ者たちよ ♪
(1996年「命の別名」より)
そして、2023年3月1日リリースの本アルバム、ラストに収録されている「夢の京(みやこ)」では
心を持つのは人だけ いいえそれは思い上がり
鳥は歌う 虫は歌う なのに人は なのに人は
樹木は歌う 水は歌う なのに人は なのに人は ♪
と綴っています
また、みゆきさんの曲には「月」をとりあげたものがいくつかあり、これらの曲に出てくる月がみゆきさんの信仰に絡んだものだと考えているのは私だけではないでしょう
ところで、涅槃経「一切衆生悉有仏性」についてですが、天理教の教えが意外なところで重なっていることをご存知ですか
いささかマニアックなことになりますが興味のある方は、以下お読みください
2016年の比較的新しい天理大学論文(2014年公開講座をベース)に、紐解くものがありそうです
天理大の論文「明治 20 年代の社会における天理教の教えの特殊性と普遍性」
(88ページ中段)
なぜすべてに仏性があり、心一つなのか。多くの人びとがなにがしか共有していた理解に新しい意味を吹き込むことで、人びとに信仰の力を与えた。
明治20年代の天理教の広がりはこのような側面をとらえずに理解することはできないだろう。最後の教えという言葉の持つ、究極すなわち特殊性(最後(だめ)の一点)は、それを成り立たたせる普遍性(十のうち九つまで)の中で初めて成り立っているのである。
ここでも、かしもの・かりものの教えは重要な位置にある。
(83ページより)
かしもの・かりものに対してはっきりと言及した批判書は、わずかに兼子道仙『真理之裁判』に限られるようである。
(中略)
やや深読みかもしれないが、間接的な反証と思われるところがある。この本では、神道・仏教・儒教の立場から証人を喚問して天理教を批判させる。
その際、僧侶が批判の根拠とした一つが「一切衆生悉有仏性」(混槃経)で、この世のありとあらゆるものに仏になる可能性がある(仏性を持っている)というものである。このほか、「心如工画師、画種々五陰、一切世界中、無法而不造、如心佛亦爾、如佛衆生然、心佛及衆生、是三無差別」、「三界唯一心、心外無別法」というような教えが仏教にあるゆえに、一神教や邪交多神教は逃げ出していく。キリスト数は広がらないし、天理教は野蛮未開の教えゆえに仏教哲理の権衡にかかるところがないと説<《『真理之裁判』pp.47-48)。
おそらく、この世は神の身体であることや、「心一つが我がの理」であり、心からどんな理も出てくるという天理教の教えは、すでに仏教で説かれているのだということを主張しているのだと推測される。
つまり、天理教の教えを否定しているのではなく、仏教の教えの普遍性を重んじるがゆえに、批判の矛先が鈍ったのであろう。仏教で漠然と認識されていた身体の問題を、神からのかしもの、人間からみればかりものだと言い切ったところに、この言葉の革新性があったのだろう。
(以上)
さて、
新アルバムは「がなる」曲がなく全曲聴き易いと、かみさんは言う
私は、そうかな?と首を傾げます
聞き込んでいると疲れるアルバムです