七人の侍 1954年(昭和29年) 東宝
監督:黒澤 明
脚本:黒澤 明
橋本 忍
小国英雄
撮影:中井朝一
美術:松山 崇
録音:矢野口文雄
照明:森 弘充
音楽:早坂文雄
製作:本木荘二郎
七人の侍たち
勘兵衛・・・志村 喬
菊千代・・・三船敏郎
七郎次・・・加東大介
勝四郎・・・木村 功
平八・・・千秋 実
久蔵・・・宮口精二
五郎兵衛・・・稲葉義男
あたかも悪魔に取り憑かれたように造形の細部を丹念に編んでいく、そんな黒澤リアリズムがその本性を露(あらわ)にしたのは、本格的にはこの作品からだといえる。
また、少し違う言い方もできるかもしれない。もしかして、この大型時代劇を作っていく過程そのものが、黒澤の心にリアリズムの不可欠性を芯から植え付け た、とも。スケールの大きな時代劇であればあるほど、登場人物たちを含め物語全体が地響き立てて荒々しく動きだすには、リアリティが物語を象っているあら ゆる造形の細部にわって貫かれていなければならない。すなわち当時の農民や侍たちの姿形、心の在り方、暮らしぶり、家屋の構えなどに、あたかも、その時・ その場で動めいているようなリアリティを与えることができるかどうか。この作業を完璧にこなせば、ディテールがすべて磁力によって引き合うように連結しは じめ、「七人の侍」という虚構の山は初めて生きものとして動きだす、黒澤にはそう思えたに違いない。
もともと黒澤には自分の信念を貫き通せば確実に面白い映画が生まれるであろうことや、会社側(東宝)が提出した予算の3倍以上の製作費用をかけよう が、予定の完成期日を大幅に遅らせようが、会社側は妥協せざるえないことも知っていた。それほど、この時期、黒澤は自分のつくるものに絶対的な確信を持っ ていたといえる。その確信が周りのスタッフや役者たちをも巻き込み、異様なまでの熱情が巨大な塊となって製作現場を動かせていったのだろうと思う。このこ とは、この作品を観れば、容易に想像できる。
農民が盗賊から自分たちの村を守るために侍を雇うという話がまずもって面白い。しかし百姓が侍を雇ったという事実は実際歴史上にも存在していたらし く、黒澤たちが劇の題材を探していた際に古い記録文書から見つけたものだった。「百姓が侍を雇う」。この基本イメージを骨組みにして、黒澤明、 橋本忍、 小国英雄の三人は長期にわたって熱海の旅館に閉じ籠り、大きな机の上で向き合い、面白さがてんこ盛りの時代劇ストーリーを共同作業で書き上げていく。
映画の冒頭。馬に乗った野武士の群れが山間の小さな村を見下ろしている。
「やるか、この村も」「待て待て、去年の秋、米をかっさらったばかりだ。今、行っても何もあるめえ」
「よし、あの麦が実ったら、又、来るベえ」
この野武士たちの会話を村人のひとりが茂みの中で聞きつけ、慌てて村に戻って報告する。それを聞いた村人たちは、戸惑い、怯え、泣き叫ぶ。いったいどう対処していいのか分からぬまま、そのうち言い争い、激しく罵倒し合う。
意見はふたつに分かれる。野武士と戦うべきだと主張するもの。馬鹿言え、村中皆殺しにされる、腹の中の赤子まで突き殺されるぞと罵るもの。埒があか ないので村人たちは村の知恵袋である長老に意見をもとめに行く。長老の住む村の外れにある水車小屋まで皆して黙々と歩いていくのだが、その村人たちの姿が なんとも寒々しく虚無感さえ漂う。野武士の恐ろしさが鉄のように重く覆いかぶさっている。
長老を演じたのは、高堂国典。凄い役者なのだ。黒澤が好んでよく使った脇役の名品だ。この役者がただ黙って座っているだけで人間の魂が見えてくる。匂うほどの重厚な存在感。ここでも多くの地獄を垣間見てきた老人の息づかいが底のほうから画面全体を揺さぶっていた。
だからこそ、このシーンで、村人たちから事情を聞いて、しばらく黙りこくり、そして言い放った「やるべし!」という一言が、余計に圧倒的な迫力で迫ってきたといえる。
「やるべし!」。野武士と戦うべきだと言うのだった。
「そら、無茶だ!」と村人の一人が反発すると、「侍、雇うだ」と長老。
「百姓のために戦う侍があるべか」と村人。
長老は言う。「腹の減った侍を探すだよ。腹が減りゃ、熊だって山を下りるだ」
脚本の見事さもあるが「腹が減りゃ、熊だって山を下りるだ」という台詞は、高堂国典のような生活感を端々まで持っている役者でなければ説得力を持たない。
「やるべし!」という台詞と共に、凄まじくカッコよかったです。
村人を代表して次の者たちが宿場町に降りて行き侍を捜し始める。
土屋嘉男 利吉(りきち) 村の急進派的存在
藤原釜足 万造(まんぞう)
与平(よへい)左卜全 大好きな役者^^
町には多くの素浪人が行き来しているが、これだという侍がいない。それに、侍への報酬は、その期間のみ腹一杯にメシが食えるってだけ。金にも出世にもなら ない。条件が厳しすぎる。村人が諦めかけたところに、ひょんなことから鮮烈な印象を与えた武士が現れた。志村喬演じる島田勘兵衛だった。
志村喬
島田勘兵衛(しまだ かんべえ)
七人の侍のなかでの首謀的存在。人格者であり、優れた戦略家。こうゆう男になりたいものだと男に思わせる男らしさを持っている。
七人の侍のキャスティングをする際に最も早く決まったのが、この勘兵衛役の志村喬であったという。
黒澤がいかに役者としての志村喬に惚れていたかは、黒澤作品のほとんどに志村を起用していたことからも推察できる。地味で自然な演技の中からでさえ熱い竜巻を放つことのできる役者だった。1982年に死去、76歳だった。
村人は勘兵衛(志村喬)を木賃宿に呼び寄せ事情を話す。白米をごちそうしながら・・・。勘兵衛の傍らには「弟子にしてください」と後を付いて来た若侍・勝四郎(木村功)がいる。村人たちから事情を聞いた勘兵衛は村人たちの依頼を初めは断る。
(勘兵衛)「出来ぬ相談だな。わしを含めても7人は必要・・・。しかし、メシを食わせるだけじゃなぁ、よほどの物好きじゃなきゃ勤まらん。それに、わしは戦には飽きた。歳だでな・・・」
傍らで話を聞いていた人足が村人たちに向かって罵声をあびる。「ああー、百姓に生まれねぇでよかったぜぃ、犬のほうがマシだぁ・・・死んじめえ、死んじめえ、その方が楽だぜ」
すると勝四郎が怒る。「下郎!口をつつしめ!貴様らにはこの百姓の苦衷が解らんのか!」
人足はすぐに食い付く。「笑わしちゃいけねえ、解ってねえのはお前さんたちよ、解ってたら助けてやったらいいじゃねえか」
ここのシーンは、当時、いかに白い米が貴重なものだったのかを象徴するものとなった。
人足が、村人が勘兵衛に用意していたメシの盛られた椀を手に取り、それを勘兵衛に突き出し、訴える。
(人足)「おい、お侍、これ見てくれ。これはお前さんたちの食いぶんだ。ところが、このヌク作どもは何を喰ってると思う?ヒエ、喰ってんだ。自分たちはヒエ喰って、お前さんたちには白いメシを喰わしてるんだ。百姓にしては精一杯なんだ。なに言ってやんでぇ!・・・」
乱暴者の人足の目には大粒の涙が流れている。
勘兵衛は、頭を垂れ、しばらくしてから「わかった。そう、わめくな」と言って、人足から椀を受け取り、村人の三人に向かって言う。
「このメシ、おろそかには喰わぬぞ」
村を守ることを引き受けたのだった。
しかし、このセリフ、僕もどこかで言ってみたくなるほどカッコいい~
「このメシ、おろそかには喰わぬぞ」・・・・
でも、メシをおろそかに喰ってばかりいる僕のような男には似合わないにゃ、このセリフ。とほほ(涙)
勘兵衛を含め七人の侍たちが決まって行くプロセスは、侍たちや演じてる俳優たちの個性が滲み出ていてとても面白かった。
木村功
岡本勝四郎(おかもと かつしろう)
今で言うなら裕福な家庭から飛び出した我が儘な家出少年のようなもの。宿場町で勘兵衛が町の子供の命を救ったのを見て感銘し、勘兵衛に弟子入りを志 願する。「弟子など持つ身分じゃない」と断られるが、構わず後をついていく。勘兵衛の目からすればまだ子供。しかし、のちに、村の娘と花のようなロマンス を展開する。この勝四郎を演じたのが、木村功。彼の爽やかさと弱々しさがこの映画では生きた。この作品の6年前に製作された黒澤映画『野良犬』(1949 年)のなかで、「犯人」役を演じていた。1981年、58歳で永眠。
稲葉義男
片山五郎兵衛(かたやま ごろべえ)
千秋実
林田平八(はやしだ へいはち)
明るく人懐っこく庶民的な雰囲気を持った侍。チームのムードメーカー。
千秋も黒澤の作品に初期の頃から相当に使われている。
やはり自然体で演技できる数少ない役者なので早くから黒澤に重宝がられていた。侍七人の中では一番最初に討ち死にしてしまうが、実人生においては七人の中で一番長く生きた。1999年11月、急性心肺不全のため死去。82歳であった。
勘兵衛の人柄に惚れて仲間に加わる。
兵法に優れ勘兵衛の参謀役を勤める。
温和で大高な人望が縁の下のほうでチームを支えた。
僕らの世代では、テレビの人気ドラマ「ザ・ガードマン」(昭和30年代後半)のレギラー隊員として記憶している。
1998年心筋梗塞のため死去。77歳だった。
加東大介
七郎次(しちろうじ)
先の戦いで勘兵衛の部下であった侍で、偶然に宿場町で遭遇し、勘兵衛から村のことを聞き「ついてくるか?」と言われるとニコリと笑い黙って引き受け る。勘兵衛を心の底から信頼している。演じた加東大介は森繁の社長さんシリーズなどでコミカルな個性を発揮していた印象がある(僕らの世代ではそうな る)。
兄は沢村国太郎、姉は沢村貞子。甥には長門裕之、津川雅彦。
1975年死去。64歳だった。
宮口精二
久蔵(きゅうぞう)
まさに寡黙な刺客といった感じ。剣は凄腕。冷徹なニヒリズムに覆われている。危険が伴う事、皆が嫌がる事を率先してやりにいく。命を捨てたがってい るとも見える。勝四郎(木村功)から「あなたは素晴らしい人だ」と言われ「いま疲れてる。少し眠る」と言ってその場をかわす。とてもシャイな男でもある。
演じたのが宮口精二。剣を構えたときの立ち姿がしっかりと腰を落とした、見るからに剣豪の立ち姿。黒澤も感動したという。まさにハマリ役。侍七人の中で一番好きなキャラクターだと言う人も多い。1985年4月死去。71歳だった。
三船敏郎
菊千代(きくちよ)
実は農民出の身の上なのに侍になりたくてしかたがない。菊千代という名は、どっからか盗んで来てた侍の家系図のなかに書かれていた子孫の名で、得意そうに名乗っている。
三船という役者は、とにかくアクションの転換スピードがもの凄く早い。
この映画では、ひょうきん且つ乱暴者の男を演じているが、ひとつひとつの動作の素早さには感心する。同じ空気の中でいつまでも停滞していない。思わぬアク ションを飛ぶようにして展開していく。肝つぶしのダイナニズムが随所に挿入されている黒澤時代劇には必要不可欠な存在だった。
1997年12月全機能不全のため死去。77歳だった。
映画『七人の侍』をより重厚的なものにしているのは、ひとつには、(ちと大げさな言い方だが)侍と農民との生命観の違いというものを包み隠さずに描き出しているところにある。
象徴的なシーンをひとつご紹介する。
菊千代を演じた三船敏郎の演技力がこのシーンをなおいっそう際立たせたといえる。
侍たちが村人に戦闘の訓練をしているうちに、菊千代が村人の隠し持っていた刀、槍、兜(かぶと)、鎧(よろい)などを見つけ出し「大漁!大漁!」と 叫んで村人に運ばせて来る。かつての戦で死んだ武士たちの体から村人が剥ぎ取り、盗み取って来た品々だということは容易に推測できる。他の侍はそれを見て 顔を曇らせる。許し難いという顔をする。武士の道義観である。久蔵(宮口精二)などは「おれは百姓たちを斬りたくなった」とまで言った。
そこで菊千代(三船敏郎)が他の侍たちに向かって怒りをぶちまける。
菊千代)「おめえら、百姓をなんだと思ってたんだ!仏様だとでも思ってたか。笑わしちゃいけねぇ、百姓ぐらい悪びれした生き物はないんだ ぜ。・・・・ぺこぺこ頭下げて嘘をつく。なんでも誤摩化す。よく聞きな。百姓ってのはな、けちんぼで、ずるくて、泣き虫で、意地悪で、間抜けで、人殺し だぁ・・・可笑しくて涙が出る。ところがな、そんなふうにしたのは一体誰なんだ!おめえたちだろ!侍だってんだよ! 戦の度に村を焼く、田畑は踏みつぶ す、食い物は取り上げる、女はあさる、手向かえば殺す・・いったい百姓はどうすにゃーいいんだ!百姓はどうすにゃいいんだ、畜生!」
畜生、畜生と言いながら菊千代は泣き崩れる。
しばらくして、勘兵衛(志村喬)が涙を浮かべながら菊千代に言う。
「きさま、百姓の生まれだな」
菊千代は、うろたえた顔をして、その場を立ち去る。
武士と百姓との生命観の違い、あるいは貧農が生きていくということからは簡単に跳ね返される武士の道義観、そのへんが鮮やかに浮き彫りにされたようなシーンだった。
黒澤はこの武骨な男どもの物語に花のようなロマンスを添えた。ここは彼のちょっとしたサービス精神か。スタッフたちは若侍・勝四郎(木村功)と村の 娘・しの(津島恵子)とのロマンスの場所を精一杯華やかにするため、連日連夜、その場所に大量の白い花を植え付けていったという。木村も津島も白い花がよ く似合う役者であった。
いよいよ野武士たちとの合戦に突入する。
とくに戦闘開始3日目の土砂降りの中での合戦シーンはその圧倒的な迫力において、なかでも世界の映画関係者たちを震撼させた。異なる角度からの複数 カメラを同時にフル稼働させ、アップとロングなど様々な視覚像を組み合わせ編集することで、腰が抜けるほどの迫力満点の合戦映像が出来上がった。これをあ んな昔(昭和29年)にやってのけたのだから凄い!
物語上の季節設定は初夏なのに実際の撮影時期は大雪が降った酷寒の2月。雪をすべて水で溶かし、さらに消防ポンプで狂ったような激しい大雨を降らせ た。土砂降りの雨と膝上までぬかるむ泥地。スタッフにとっても役者たちにとっても、それこそ地獄のような撮影だったらしい。というより命がけであったこと が役者たちの緊迫した表情からも見て取れる。命がけだったのは人間だけじゃない。ここで使われた馬たちも同様。目ん玉をひんむいた馬の形相をご覧になると 一目瞭然。刀は振り回されるわ竹槍で突っつかれるわで、本気で俳優たちに襲いかかってきたらしい。実際に怪我人も続出したとのこと。ほぼ一発勝負の命がけ の撮影。だからこそのド迫力といえる。
これまでのストーリーはすべてこの土砂降りの中の戦闘シーンのためにあったと言っても過言じゃない。
七人の中で生き残ったのは、勘兵衛(志村喬)、勝四郎(木村功)、七郎次(加東大介)の3人。