谷中の案山子〜Ameba支局

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道化の華が、お空に爪立てる精一杯の希望です。

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喩の声 その1   2012/6/16

僕は子供の頃から絶望的なほどのド音痴だったので、上手く歌えるプロの歌い手たちの歌声には羨ましさ含めて昔からとても関心を持ってきた。
いろいろな喉の震わせ方があるもんだなぁ、しかも彼らプロたちは喉の震わせ方や締め方ひとつで声の音色も自在に変えられる、さすがプロだねぇ、何故僕には それが出来ないんだろう、おそらく誰もが無意識に行っている発声にかかわる基本的な所作が僕にはちゃんと出来てないのだな、だいたい悲しいかな僕は喉を震 わすということ自体がイメージできない、イメージできないくらい発声行為に関して欠陥がある。ド音痴になのも当然の報いと言える。

まぁ、僕のことなどはどうでもよろしいっすね。

 

 

今回は忌野清志郎の声のことを書きたかったのれす。
清志郎の声に言葉を通過させるとその言葉じたいに異変が起きる。そんなことを書いてみたいのれす。
いつもながら勝手気ままなので訳わからんところが多々あろうかと思います。
なにとぞ、ご寛容のほどを。

 
たとえば、我々が日常の中で使っている何げない言葉だけで構成された歌詞を普通の歌手が歌ったら、そのまま日常的で平凡な歌詞として我々の耳に届いてくるだけだ。
ところがその日常のトーンに満ちた同じ歌詞を忌野清志郎が歌ったとき、歌詞の言葉たちに異変が起きる。
どんなに他愛のない日常語だけで構成されている歌詞でも、いったん忌野清志郎の喉を通ると、途端に立体的な像と温度を獲ち得る。比喩のレベルで言えば、直 喩を通り越してほとんど暗喩の水位のほうにまで乗り上げていってしまう。これは激変とも言っていい。聴いてて、おぉーと声が出ちゃうくらい見事な変わり方 をする。3D映画なんかで仔山羊が突然自らの皮をメリメリ剥ぎ取り巨大な怪獣に豹変して襲いかかってくるようなもんだ。そのくらい言葉の風貌がまるっきり 違ってきてくる。

これはかなり不可思議で興味深いことのように以前から思えていた。

たとえば、「雨上がりの夜空」

   この雨にやられて
   エンジンいかれちまった
   俺らのポンコツ とうとうつぶれちまった
   どうしたんだ Hey Hey Baby
   バッテリーはビンビンだぜ
   いつものようにキメて ブッ飛ばそうぜ


ポンコツ車は恋人であり、車の運転動作は性行為の喩になっている。
ただ、 この歌詞における喩じたいは我々でも日常的によく使いそうな俗な直喩に過ぎない。なのでそんなに高度な喩とは言えない。
しかしそれでも、この歌詞を仮に忌野清志郎以外の他の歌い手が唄ったら、もっと平坦な、のっぺりした歌になってしまいそうな気がする。たぶん、大切な愛車 が豪雨のためにぶっ壊れてしまって怒鳴っている、という怒り狂った男の歌か、恋人がやらせてくれなくてヤケクソになってる欲求不満の男の歌か、どちらかの ニュアンスでしか聴こえてこないだろうと思う。つまり他の歌手が歌ったら、愛車を恋人の身体にたとえるという、せいぜい直喩のレベルに言葉を届かせるのが 精一杯といった水準の歌にしか聴こえてこないだろう。

ところが忌野清志郎が唄うこの歌は明らかに丸ごとラブソング。

丸ごとラブソングの火玉となって我々の耳へ届いてくる。これはどういうことか。しかもその届 き方が清志郎の場合、かなり特殊。どう言ったらよいのでしょう。たとえば、恋したもののが一挙に吸引されてゆく心ん中の溶鉱炉のようなものがあるでしょ。 心の中で燃える恋の溶鉱炉。熱いだけじゃない、哀しくもあるし、せつなくもある。哀しき恋の溶鉱炉。誰もが身覚えのある 「あの感じ」、胸がキュンキュンしちゃう「この感じ」。近所の八百屋の親爺だって身に覚えがあるぜと自慢してやがる。どんな朽ち果てた白髪頭の爺さん(婆 さん)でも遠く昔を振り返れば必ず湧き上がって来る「あの感じ」「この感じ」。つまり、そのような、例外なく誰もが身に覚えのある恋にかかわる独自な心の 動態に、忌野清志郎の声はストレートに直結してくるんですよ。しかも、ジンワリと迂回してくるんじゃなく、まともに直結してくる。それも最奥の中枢のとこ ろまで届き切ってくるから凄い(笑)。

だから僕なんかは彼の歌声には何か途轍もない威力が含有されてんじゃねぇーかと思うほかないのだす。どうもねぇ、彼の声の周波数が相当に特殊なんだと思う のですよ。一瞬のうちに余計な膜をつぎつぎに喰い破って人の心のど真ん中へ届いていってしまう特殊な声の周波数を持ってるんじゃないかと、僕は以前から勘 ぐってるです(笑)

もうちょこっと周辺から攻め立てて、なんとか忌野清志郎に迫っていけたらと思います。


                         ~ つづき ~

 阿部定「予審調書」・感想スケッチ  
             ~とかくエロスは痛いもの~ 
 
                      2008年7月13日  記

 

ここはアダルトサイトじゃありません(^^;)

しかし、この記事は成人指定と致します。
お子ちゃまたち、立ち去れぇ~~(どうしても読みたいなら・・・親に見つかるでない♪)


「銀幕の女神たち」シリーズで宮下順子を書いたところ、宮下順子主演『実録・阿部定』の阿部定さんが俎上に載っかり、定さんの「予審調書」を読む機会に恵まれました。ちと長くなりますが、僕なりの感想スケッチをば。お暇の折にでも読んで頂けたら幸いです。

 

 

 

「予審調書」の予審というのは、辞書によれば「起訴された事件について、公判前に裁判官があらかじめ行う審理のことで、旧刑事訴訟法下では採用されていたが、現行法では認められていない。」

この予審の調書に記されている訊問に対する阿部定さんの応答内容は、裁判所側の書記が筆記したものでしょうから、はたして阿部定さんの応答がどれほど正確 に記されたのかどうかは、本来なら疑ってかかるべきところなのでしょう。何故なら、文面の中に当時の裁判所側の主観や偏見や先験的な意図性が介在している 可能性があるからです。けれどこの予審調書を読んだかぎりでは(僕の素人眼に過ぎないが)、確かに役人的な取りまとめ方をしている部分も見られるが、総じ て阿部定さんの応えのニュアンスをなるべく壊さずに作成されたのではという印象を持った。でも、これはあくまで僕の印象に過ぎないので、本当のところは分 からない。

 

 

まず驚いたのは訊問に応える定さんの記憶の確かさと語り口の緻密さだ。たとえば、芸妓屋で働くとき前借金というものをするらしいの だが、定さんが十八歳の時に初めて芸者になったとき以来、芸妓屋を住み替える度に支払った前借金の額を,あの時はいくらだったとか、こん時はいくらだった とか、正確に逐一覚えている。あと、自分が何歳の時のこの日に誰それから小遣いをいくら貰ったとかいうことも一回一回ちゃんと覚えている。それから、少女 時代に自分を取り巻く親族たちの人生模様とそのひとつひとつの関係の雰囲気を実に克明に覚えていて、それを無理なく坦々と語っていく。僕なんかだと、たと えば、自分の親族たちが各々どういう繋がりを持ってるのかとか、いわば血縁絵図のようなものを親や親戚からさんざん聞かされていたはずなんだけど、関心が 無いもんだからちっとも覚えない。以前親戚の伯母さんに叱られたことがある。「あんたに、いくら話しても、ぜんぶ忘れてしまうから、話し甲斐がないわ」
で、これはわりと一般的に言えるのじゃないかと思うけど、男より女の人のほうが、たとえば血縁関係や昔の出来事を細部まで詳細に覚えている気がする。普段 から女性に対してそんな印象を持ってたが、今回の定さんの調書を読んで改めて、やっぱり女性って凄いよなぁー、隅々まで頭ん中に入れてんだよなぁーと思っ たのでした。


1936年(昭和11年)2月26日~29日に二・二六事件という青年将校らのクーデターが起こってるが、阿部定事件は同じ年の昭和11年の5月18日に勃発してます。阿部定さん、この時、31歳。
事件の概要は次の通り。

「同月十八日午前二時頃前記待合「まさき」方さくらの間に於いて熟睡中なる吉蔵の頸部に自己の腰紐を二重に巻き付け、その両端を両手を以て強くひきしめて 即時同人を窒息死に至らしめ尚ほ吉蔵の死体に痴戯しゐるうち同人を完全に独占し他の女性は妻と云へども一指だに触れさせまじと慾求する余り、同室に持ち込 みゐたる被告人所有の牛刀を以て吉蔵の陰莖及び陰嚢を切り取り且つ同人の右上膊部外側に被告人の「定」の名を刻み込み以て吉蔵の死体を損壊したる後其の傷 口の血を手指につけ吉蔵の左大腿部に「定吉二人」なる文字をその寝床敷布に「定吉二人キリ」なる文字を書き残し、右切り取りたる陰莖及び陰嚢を懐中して同 日午前八時頃同家を逃走したるものなり」
(『予審決定書』より)


(第一回訊問より引用)
「問 どうして吉蔵を殺す気になったか。
答 私はあの人が好きでたまらず自分で独占したいと思い詰めた末、あの人は私と夫婦でないからあの人が生きていれば外の女に触れることになるでせう。殺してしまえば外の女が指一本触れなくなりますから殺してしまったのです。
問 吉蔵も被告を好いて居たのか。
答 矢張り好いて居りましたが、天秤にかければ四分六で私の方が余計に好いて居りました。石田は始終「家庭は家庭、お前はお前だ家庭には子供が二人もある のだし俺は年も年だから今更お前と駈落する訳にも行かないお前にはどんな貧乏たらしい家でも持たせて待合いでも開かせ末永く楽しもう」と言って居りまし た。然し私はそんな生温いことでは我慢出来なかったのです」


かつて世間の一部の輩が、「猟奇殺人」とか「異常愛殺人」とか「先天性色情狂」とか、まるで阿部定を精神異常のように扱ったが、「阿部定調書」を読んだ限り、彼女のなかに「異常」はどこにも見当たらない、が僕の感想でした。
幸運にもと言うべきか、あーゆーことを僕らが手を染めてないとしたら、たまたま、ある情況下にいなかったとか、たまたま、緊迫したギリギリの契機を持つこ とが無かったとかに過ぎないので、別に僕らが「正常者」だからとか「道徳家」だからとか「制御できる自制心を持ってる」とかいうわけじゃ全然無いと思って いたほうが真実のイメージに近寄れる気がします。


定さんの女性としての来歴は、特異といえば特異だし、普通といえば普通なのです。
十八の時、生活が窮乏していたわけじゃないのに父親に「そんな男好きなら娼妓に売ってしまう」と云われ芸者になったとか、その後、遊郭の女として転々とし たとか、人の妾にもなったとか、特異といえば特異だし、普通といえば普通。ようするに、「よくある話」の範囲を出ていないていどの来歴だ。


ただ、気質という問題は確かに有るのかもしれない。
非日常的な、垣根の向こう側へ越えていきやすい気質みたいなものは考えられるかもしれない。
意志が弱いのとはまた違う。阿部定さんという人は、規範という垣根の高さがあまり高くないと言ったらいいのか、いつでも既成概念の向こう側まで飛び越えて しまうというか、融和して行きやすい気質を持っていた、といった印象は確かに強く持ちました。しかし、この側面もそんなに特殊なものでも異常なものでもな いです。


そして、石田吉蔵さんとの愛欲の日々に突入していく過程や殺害のプロセスに対しても、さして変わらない感想を持った。特異といえば特異だし、普通といえば普通。(注:もちろん殺害を肯定する意味ではないです)
明らかに特異だと言えそうなのは、定さんが石田さんを殺害した後石田さんのナニをチョン切っちゃったことだろうが、その問題はのちほど。。


(第四回訊問より引用)
「 「田川」で二十八日も芸者を呼び二十九日の朝迄寝床を敷いた儘、夜も殆ど寝ずに猥褻の限りを尽して遊び暮しました。」
「寝床を敷放しにし昼となく夜となく情交し、芸者を寝床に迄呼んで酒を飲み乱痴気騒ぎをして居りました」
「私が疲れて寝るとからかったので冗談に石田の手首を腰紐でしばると石田は子供の様に喜んで縛られた手で私をくすぐったりして矢張り碌々寝ずに巫山戯て明 方から五月一日の夜まで食事もせず酒を飲んでは関係して居りました。その間、別に真面目な相談もせず冗談に「お前と一緒になればきっと俺は骸骨になる」と 云って居りました」
「五日の夕方迄寝床を敷放しにして入浴もせず、矢張り情事の限りを尽して居りました。その間私が自分の鋏で石田の爪を切ってやると石田はお前の指を噛み 切ってやりたい等と云ひ私が石田の陰毛を十本位鋏で切ったりオチンコを掴んで切る真似をしたりすると石田は馬鹿な事をするなと云ひ喜んで笑ひました。石田 は私がその様に巫山戯ると何時もとても喜ぶのです」


僕は性の達人には程遠い貧しい性体験しか持っていない凡庸な男に過ぎないす。でも、エロティシズムというものがその男女なりに独自に固有に展開していく特質を持っていることぐらいは、かろうじて理解しているつもりです。
エロスというのは、のめり込んでいけばいくほど、二人の固有な世界に無限に収縮していくし、閉じていこうとすれば、いくらでも閉じていけるし、互いの欲望 は相手の心や体に同化したいという極限のところまで容易に運ばれていくものだ。これはエロティシズムが有する自然過程というべきもので、倫理の問題じゃな い。ようするに、倫理的に「はしたない」とか「性悪だ」とか言って裁断しうるものではない。あとはそれぞれの嗜好の問題で、それこそ「おのおのの御計らい で」勝手におやりなさいという世界だ。


ところで、子ちゃまが読んでるかもしれないので断っておかなきゃならない^^;
人間っていうのはね、もちろんエロスだけで出来てる生きものじゃないのです。同時に社会的な存在でもあるのです。だから自制(コントロール)すべきときは自制しなくっちゃダメなのよん♪

 

第五回訊問より引用)
「十六日の晩、石田に抱かれて居るととても可愛くなりどう仕様か判らなくなり、石田を噛んだり息が止る程抱き締めて関係する事を思ひ付き石田に「今度は紐 で締めるわよ」と云って枕元にあった私の腰紐を取り石田の頸に巻き付けて両手で紐の端を持ち、私が上になって情交しながら頸を締めたり緩めたりして居まし た。
 初め石田は面白がってオデコを叩いたり舌を出す様な巫山戯方をして、途中止めて紐を首に巻き付けた儘酒を飲み又頸を締めながら関係すると云ふ具合にして 居り、少し頸を締めると腹が出てオチンコがビクビクして気持ちが良いものですから石田に話すとお前が良ければ少し苦しくとも我慢するよと云ひ、石田はヘト ヘトに疲れてしまって眼をショボショボして居りましたから「厭なんでしょう厭ならもっと締めるわよ」と云ふと石田は「厭じゃない厭じゃない俺の身体をどう にでもして呉れ」と云って居りました」

ここにはエロスに憑かれた男女の戯れの情景があるだけだ。別になんてことはないですよ、という風景だ。
と言っても、大人の皆が、こーゆーふうに首を締めて遊んでるわけじゃないよ。
むしろ、してない御方がほとんどです、おそらく。
(お子ちゃまたち・・・へ^^;)


そして問題の阿部定さんのチン切り行為である。


(第五回訊問より引用)
「石田の寝顔を見て居る内石田が家へ帰れば自分が介抱した様にお内儀さんが介抱するに極って居るし、今度別れればどうせ一月も二月も会へないのだ。此間で さえ辛かったのだからとても我慢出来るものではないと思ひどうしても石田を帰し度くありませんでした。石田は私から心中して呉れとか何処かへ逃げて呉れと 云った所で今迄待合を出させて末永く楽しもうと云って居たし、石田としては現在出世したのですから今の立場で死ぬとか駈落するとかは考へられませぬから私 の云ふのを断ることは判り切って居るので、私は心中や駈落は、てんで問題にして居なかったから結局、石田を殺して永遠に自分のものにする外ないと決心した のです。」
「それは一番可愛い大事なものだからその儘にして置けば湯棺の時、お内儀さんが触るに違いないから誰にも触らせたくないのと、どうせ死骸は其処に置いて逃 げなければなりませぬから石田のオチンチンがあれば石田と一緒の様な気がして淋しくないと思ったからです。何故、石田の腿や敷布に定、吉、二人と書いたか と云ひますと、石田を殺してしまうと之ですっかり石田は完全に自分のものだと云ふ意味で人に知らせたい様な気がして私の名前と石田の名前とを一字づつ取っ て定、吉、二人キリと書いたのです。」

 

 

男のアソコを女がちょん切っちゃって持ち歩くという行為は、確かに怪奇的だし、特にわれわれ男にとっては、恐怖で身の縮む思いだが、よくよく考えてみれ ば、それも愛情の一表現で、そこに強度な独占欲や嫉妬が加われば、なおさら起こりえる事態だといえます。たぶん相手の体が自分の体の一部のように思えるま で情愛が融け込んだのでしょうね。
このへんの定さんの心情は、少なからず誰しもが持っている心情じゃないかと思えます。

えっと、ほら、よく言うでしょうが。愛しさ余って「あなたを食べちゃいたいわ」って。僕は不幸にも言われたことないが(^^;)、女性の皆さんの中にも 「食べちゃいたい」とか言ったり、口に出さなくても心のなかで思ったりしたことあるでしょうが。それの延長ですよ、定さんのチョン切り行為は。皆さんの心 情の矛先をそのままズ~っと伸ばしていくと、あーゆー事態に繋がっていくわけです。だから、異常でもなんでもないのです。実行に移してしまったという事実 が刑罰の対象になるのであって、行為自体は、いってみれば、少し極端な表現には違いないが、男女の性愛がもたらすエロスの線上で起こりうる愛情表現だと考 えたほうが、ニュアンスとしてはスッキリするわけです。確かに、チョン切られたほうは、いくら死んだ後だって、たまったものじゃないですよ。でも、これを 精神異常の範疇だけで捉えたら、人間存在に対する理解の仕方を誤るのです。待ってましたとばかりに「異常だ、異常だ」と叫び出す輩は、僕なんかはウンザリ しちゃう。人間には可塑性というものがあるのです。人間はいつだって「あちらの世界」に移行しちゃう要素も可能性もあるんだということを本当は自分を含め てもっと肝に銘じるべきと思います。「異常だ」と処理した時点で人間のイメージがとても平坦な概念に閉ざされちゃいます。もっと人間の概念ってものを拡張 して考えないと見誤ると思います。


繰り返し申しますが、僕は定さんのした事を肯定しているわけじゃないのです。ただ、人間の可塑性として誰でもが持ちうるものを異常なものとして囲っちゃえば事足りるとする感性は短絡すぎるということです。冗談じゃねぇーよと思いますです。
 

事件のあった旅館「満佐喜」は、現在では姿形が全くないですが、場所的には現在の我が家から自転車で10分もあれば行けるところなんです。あと、阿部定さ んの最後の写真(当時64歳)が、舞踏家の土方巽とのツーショット写真だったようで、僕はこの土方さんとは若い時少しだけ御縁がありました。そして、定さ んの父親の名前が実に私関連の名前でして(^^;)、なんと言うか、かんと言うか、親近感と言っちゃおかしいけれど、定さんのバックグラウンドを知るにつ け、なんだか我が血族の一員だったような気さえしてきたです(^^

写真:舞踏家土方巽と阿部定

 

最後に、大人は、おそらく皆、できれば、艶やかで美しい愛の行為を欲しておりますよ。
お子ちゃまたちよ、もっと希望を^^
 

七人の侍  1954年(昭和29年) 東宝

監督:黒澤 明
脚本:黒澤 明
   橋本 忍
   小国英雄
撮影:中井朝一
美術:松山 崇
録音:矢野口文雄
照明:森 弘充
音楽:早坂文雄
製作:本木荘二郎

 

七人の侍たち

勘兵衛・・・志村 喬
菊千代・・・三船敏郎
七郎次・・・加東大介
勝四郎・・・木村 功
平八・・・千秋 実
久蔵・・・宮口精二
五郎兵衛・・・稲葉義男

 

 

あたかも悪魔に取り憑かれたように造形の細部を丹念に編んでいく、そんな黒澤リアリズムがその本性を露(あらわ)にしたのは、本格的にはこの作品からだといえる。
また、少し違う言い方もできるかもしれない。もしかして、この大型時代劇を作っていく過程そのものが、黒澤の心にリアリズムの不可欠性を芯から植え付け た、とも。スケールの大きな時代劇であればあるほど、登場人物たちを含め物語全体が地響き立てて荒々しく動きだすには、リアリティが物語を象っているあら ゆる造形の細部にわって貫かれていなければならない。すなわち当時の農民や侍たちの姿形、心の在り方、暮らしぶり、家屋の構えなどに、あたかも、その時・ その場で動めいているようなリアリティを与えることができるかどうか。この作業を完璧にこなせば、ディテールがすべて磁力によって引き合うように連結しは じめ、「七人の侍」という虚構の山は初めて生きものとして動きだす、黒澤にはそう思えたに違いない。

 

もともと黒澤には自分の信念を貫き通せば確実に面白い映画が生まれるであろうことや、会社側(東宝)が提出した予算の3倍以上の製作費用をかけよう が、予定の完成期日を大幅に遅らせようが、会社側は妥協せざるえないことも知っていた。それほど、この時期、黒澤は自分のつくるものに絶対的な確信を持っ ていたといえる。その確信が周りのスタッフや役者たちをも巻き込み、異様なまでの熱情が巨大な塊となって製作現場を動かせていったのだろうと思う。このこ とは、この作品を観れば、容易に想像できる。

 

農民が盗賊から自分たちの村を守るために侍を雇うという話がまずもって面白い。しかし百姓が侍を雇ったという事実は実際歴史上にも存在していたらし く、黒澤たちが劇の題材を探していた際に古い記録文書から見つけたものだった。「百姓が侍を雇う」。この基本イメージを骨組みにして、黒澤明、 橋本忍、 小国英雄の三人は長期にわたって熱海の旅館に閉じ籠り、大きな机の上で向き合い、面白さがてんこ盛りの時代劇ストーリーを共同作業で書き上げていく。

 

映画の冒頭。馬に乗った野武士の群れが山間の小さな村を見下ろしている。
「やるか、この村も」「待て待て、去年の秋、米をかっさらったばかりだ。今、行っても何もあるめえ」
「よし、あの麦が実ったら、又、来るベえ」

 

この野武士たちの会話を村人のひとりが茂みの中で聞きつけ、慌てて村に戻って報告する。それを聞いた村人たちは、戸惑い、怯え、泣き叫ぶ。いったいどう対処していいのか分からぬまま、そのうち言い争い、激しく罵倒し合う。

 

 

 

意見はふたつに分かれる。野武士と戦うべきだと主張するもの。馬鹿言え、村中皆殺しにされる、腹の中の赤子まで突き殺されるぞと罵るもの。埒があか ないので村人たちは村の知恵袋である長老に意見をもとめに行く。長老の住む村の外れにある水車小屋まで皆して黙々と歩いていくのだが、その村人たちの姿が なんとも寒々しく虚無感さえ漂う。野武士の恐ろしさが鉄のように重く覆いかぶさっている。

 

 

長老を演じたのは、高堂国典凄い役者なのだ。黒澤が好んでよく使った脇役の名品だ。この役者がただ黙って座っているだけで人間の魂が見えてくる。匂うほどの重厚な存在感。ここでも多くの地獄を垣間見てきた老人の息づかいが底のほうから画面全体を揺さぶっていた。

だからこそ、このシーンで、村人たちから事情を聞いて、しばらく黙りこくり、そして言い放った「やるべし!」という一言が、余計に圧倒的な迫力で迫ってきたといえる。

「やるべし!」。野武士と戦うべきだと言うのだった。
「そら、無茶だ!」と村人の一人が反発すると、「侍、雇うだ」と長老。
「百姓のために戦う侍があるべか」と村人。

長老は言う。「腹の減った侍を探すだよ。腹が減りゃ、熊だって山を下りるだ」

脚本の見事さもあるが「腹が減りゃ、熊だって山を下りるだ」という台詞は、高堂国典のような生活感を端々まで持っている役者でなければ説得力を持たない。
「やるべし!」という台詞と共に、凄まじくカッコよかったです。

 

 

村人を代表して次の者たちが宿場町に降りて行き侍を捜し始める。

 

土屋嘉男 利吉(りきち) 村の急進派的存在   

 

 

藤原釜足 万造(まんぞう)

 

与平(よへい)左卜全 大好きな役者^^


町には多くの素浪人が行き来しているが、これだという侍がいない。それに、侍への報酬は、その期間のみ腹一杯にメシが食えるってだけ。金にも出世にもなら ない。条件が厳しすぎる。村人が諦めかけたところに、ひょんなことから鮮烈な印象を与えた武士が現れた。志村喬演じる島田勘兵衛だった。

 

志村喬
島田勘兵衛(しまだ かんべえ)

七人の侍のなかでの首謀的存在。人格者であり、優れた戦略家。こうゆう男になりたいものだと男に思わせる男らしさを持っている。
七人の侍のキャスティングをする際に最も早く決まったのが、この勘兵衛役の志村喬であったという。
黒澤がいかに役者としての志村喬に惚れていたかは、黒澤作品のほとんどに志村を起用していたことからも推察できる。地味で自然な演技の中からでさえ熱い竜巻を放つことのできる役者だった。1982年に死去、76歳だった。

 

村人は勘兵衛(志村喬)を木賃宿に呼び寄せ事情を話す。白米をごちそうしながら・・・。勘兵衛の傍らには「弟子にしてください」と後を付いて来た若侍・勝四郎(木村功)がいる。村人たちから事情を聞いた勘兵衛は村人たちの依頼を初めは断る。
(勘兵衛)「出来ぬ相談だな。わしを含めても7人は必要・・・。しかし、メシを食わせるだけじゃなぁ、よほどの物好きじゃなきゃ勤まらん。それに、わしは戦には飽きた。歳だでな・・・」

傍らで話を聞いていた人足が村人たちに向かって罵声をあびる。「ああー、百姓に生まれねぇでよかったぜぃ、犬のほうがマシだぁ・・・死んじめえ、死んじめえ、その方が楽だぜ」
すると勝四郎が怒る。「下郎!口をつつしめ!貴様らにはこの百姓の苦衷が解らんのか!」
人足はすぐに食い付く。「笑わしちゃいけねえ、解ってねえのはお前さんたちよ、解ってたら助けてやったらいいじゃねえか」

ここのシーンは、当時、いかに白い米が貴重なものだったのかを象徴するものとなった。
人足が、村人が勘兵衛に用意していたメシの盛られた椀を手に取り、それを勘兵衛に突き出し、訴える。
(人足)「おい、お侍、これ見てくれ。これはお前さんたちの食いぶんだ。ところが、このヌク作どもは何を喰ってると思う?ヒエ、喰ってんだ。自分たちはヒエ喰って、お前さんたちには白いメシを喰わしてるんだ。百姓にしては精一杯なんだ。なに言ってやんでぇ!・・・」
乱暴者の人足の目には大粒の涙が流れている。

 

勘兵衛は、頭を垂れ、しばらくしてから「わかった。そう、わめくな」と言って、人足から椀を受け取り、村人の三人に向かって言う。
「このメシ、おろそかには喰わぬぞ」
村を守ることを引き受けたのだった。

しかし、このセリフ、僕もどこかで言ってみたくなるほどカッコいい~
「このメシ、おろそかには喰わぬぞ」・・・・
でも、メシをおろそかに喰ってばかりいる僕のような男には似合わないにゃ、このセリフ。とほほ(涙)

 

 

勘兵衛を含め七人の侍たちが決まって行くプロセスは、侍たちや演じてる俳優たちの個性が滲み出ていてとても面白かった。

 

木村功
岡本勝四郎(おかもと かつしろう)

今で言うなら裕福な家庭から飛び出した我が儘な家出少年のようなもの。宿場町で勘兵衛が町の子供の命を救ったのを見て感銘し、勘兵衛に弟子入りを志 願する。「弟子など持つ身分じゃない」と断られるが、構わず後をついていく。勘兵衛の目からすればまだ子供。しかし、のちに、村の娘と花のようなロマンス を展開する。この勝四郎を演じたのが、木村功。彼の爽やかさと弱々しさがこの映画では生きた。この作品の6年前に製作された黒澤映画『野良犬』(1949 年)のなかで、「犯人」役を演じていた。1981年、58歳で永眠。

 

稲葉義男
片山五郎兵衛(かたやま ごろべえ)

 

千秋実
林田平八(はやしだ へいはち)

明るく人懐っこく庶民的な雰囲気を持った侍。チームのムードメーカー。


千秋も黒澤の作品に初期の頃から相当に使われている。
やはり自然体で演技できる数少ない役者なので早くから黒澤に重宝がられていた。侍七人の中では一番最初に討ち死にしてしまうが、実人生においては七人の中で一番長く生きた。1999年11月、急性心肺不全のため死去。82歳であった。

勘兵衛の人柄に惚れて仲間に加わる。
兵法に優れ勘兵衛の参謀役を勤める。
温和で大高な人望が縁の下のほうでチームを支えた。

僕らの世代では、テレビの人気ドラマ「ザ・ガードマン」(昭和30年代後半)のレギラー隊員として記憶している。

1998年心筋梗塞のため死去。77歳だった。

 

加東大介
七郎次(しちろうじ)

先の戦いで勘兵衛の部下であった侍で、偶然に宿場町で遭遇し、勘兵衛から村のことを聞き「ついてくるか?」と言われるとニコリと笑い黙って引き受け る。勘兵衛を心の底から信頼している。演じた加東大介は森繁の社長さんシリーズなどでコミカルな個性を発揮していた印象がある(僕らの世代ではそうな る)。
兄は沢村国太郎、姉は沢村貞子。甥には長門裕之、津川雅彦。
1975年死去。64歳だった。

 

宮口精二
久蔵(きゅうぞう)

まさに寡黙な刺客といった感じ。剣は凄腕。冷徹なニヒリズムに覆われている。危険が伴う事、皆が嫌がる事を率先してやりにいく。命を捨てたがってい るとも見える。勝四郎(木村功)から「あなたは素晴らしい人だ」と言われ「いま疲れてる。少し眠る」と言ってその場をかわす。とてもシャイな男でもある。
演じたのが宮口精二。剣を構えたときの立ち姿がしっかりと腰を落とした、見るからに剣豪の立ち姿。黒澤も感動したという。まさにハマリ役。侍七人の中で一番好きなキャラクターだと言う人も多い。1985年4月死去。71歳だった。

 

 

三船敏郎
菊千代(きくちよ)

実は農民出の身の上なのに侍になりたくてしかたがない。菊千代という名は、どっからか盗んで来てた侍の家系図のなかに書かれていた子孫の名で、得意そうに名乗っている。

三船という役者は、とにかくアクションの転換スピードがもの凄く早い。
この映画では、ひょうきん且つ乱暴者の男を演じているが、ひとつひとつの動作の素早さには感心する。同じ空気の中でいつまでも停滞していない。思わぬアク ションを飛ぶようにして展開していく。肝つぶしのダイナニズムが随所に挿入されている黒澤時代劇には必要不可欠な存在だった。
1997年12月全機能不全のため死去。77歳だった。

 

映画『七人の侍』をより重厚的なものにしているのは、ひとつには、(ちと大げさな言い方だが)侍と農民との生命観の違いというものを包み隠さずに描き出しているところにある。

象徴的なシーンをひとつご紹介する。

菊千代を演じた三船敏郎の演技力がこのシーンをなおいっそう際立たせたといえる。

侍たちが村人に戦闘の訓練をしているうちに、菊千代が村人の隠し持っていた刀、槍、兜(かぶと)、鎧(よろい)などを見つけ出し「大漁!大漁!」と 叫んで村人に運ばせて来る。かつての戦で死んだ武士たちの体から村人が剥ぎ取り、盗み取って来た品々だということは容易に推測できる。他の侍はそれを見て 顔を曇らせる。許し難いという顔をする。武士の道義観である。久蔵(宮口精二)などは「おれは百姓たちを斬りたくなった」とまで言った。

そこで菊千代(三船敏郎)が他の侍たちに向かって怒りをぶちまける。

 

菊千代)「おめえら、百姓をなんだと思ってたんだ!仏様だとでも思ってたか。笑わしちゃいけねぇ、百姓ぐらい悪びれした生き物はないんだ ぜ。・・・・ぺこぺこ頭下げて嘘をつく。なんでも誤摩化す。よく聞きな。百姓ってのはな、けちんぼで、ずるくて、泣き虫で、意地悪で、間抜けで、人殺し だぁ・・・可笑しくて涙が出る。ところがな、そんなふうにしたのは一体誰なんだ!おめえたちだろ!侍だってんだよ! 戦の度に村を焼く、田畑は踏みつぶ す、食い物は取り上げる、女はあさる、手向かえば殺す・・いったい百姓はどうすにゃーいいんだ!百姓はどうすにゃいいんだ、畜生!」

畜生、畜生と言いながら菊千代は泣き崩れる。

しばらくして、勘兵衛(志村喬)が涙を浮かべながら菊千代に言う。
「きさま、百姓の生まれだな」
菊千代は、うろたえた顔をして、その場を立ち去る。  

武士と百姓との生命観の違い、あるいは貧農が生きていくということからは簡単に跳ね返される武士の道義観、そのへんが鮮やかに浮き彫りにされたようなシーンだった。

 

黒澤はこの武骨な男どもの物語に花のようなロマンスを添えた。ここは彼のちょっとしたサービス精神か。スタッフたちは若侍・勝四郎(木村功)と村の 娘・しの(津島恵子)とのロマンスの場所を精一杯華やかにするため、連日連夜、その場所に大量の白い花を植え付けていったという。木村も津島も白い花がよ く似合う役者であった。

 

 

 

いよいよ野武士たちとの合戦に突入する。

 

 

とくに戦闘開始3日目の土砂降りの中での合戦シーンはその圧倒的な迫力において、なかでも世界の映画関係者たちを震撼させた。異なる角度からの複数 カメラを同時にフル稼働させ、アップとロングなど様々な視覚像を組み合わせ編集することで、腰が抜けるほどの迫力満点の合戦映像が出来上がった。これをあ んな昔(昭和29年)にやってのけたのだから凄い!

物語上の季節設定は初夏なのに実際の撮影時期は大雪が降った酷寒の2月。雪をすべて水で溶かし、さらに消防ポンプで狂ったような激しい大雨を降らせ た。土砂降りの雨と膝上までぬかるむ泥地。スタッフにとっても役者たちにとっても、それこそ地獄のような撮影だったらしい。というより命がけであったこと が役者たちの緊迫した表情からも見て取れる。命がけだったのは人間だけじゃない。ここで使われた馬たちも同様。目ん玉をひんむいた馬の形相をご覧になると 一目瞭然。刀は振り回されるわ竹槍で突っつかれるわで、本気で俳優たちに襲いかかってきたらしい。実際に怪我人も続出したとのこと。ほぼ一発勝負の命がけ の撮影。だからこそのド迫力といえる。

これまでのストーリーはすべてこの土砂降りの中の戦闘シーンのためにあったと言っても過言じゃない。

 

 

 

 

 

七人の中で生き残ったのは、勘兵衛(志村喬)、勝四郎(木村功)、七郎次(加東大介)の3人。

 

ホームページが見れなくなっているので、ここで再度表示していきませ。

 

野良犬 1949年

 

監督:黒澤明
脚本:菊島隆三
音楽:早坂文雄
撮影:中井朝一

出演
三船敏郎
志村 喬
淡路恵子
山本礼三郎
千石規子

 

 

この映画の公開時が1949年(昭和24年)。第二次大戦の終結が1945年(昭和20年)だから、戦争の爪痕が街の中にも国民の心の中にもまだ残ってる 頃ですね。実はこの公開の年に、あちきが生まれている(^^;)。だからというわけじゃないけれど、この作品が我が黒澤映画ベストワンであります。すでに ベスト17の順位づけは終えてるが、これから年末までNHK・BSの特集で放映される黒澤の全作品を観ていくうちに、僕の中での作品評価(順位)が微妙に 変わっていくかもしれない。けれど、たぶんこの『野良犬』のベストワンだけは最後まで変わらないだろうという気がする。
 

映画監督でも小説家でもその人の初期の頃に必ずと言っていいほど、一本、その人のピークと思わせる作品をつくっている。もちろん晩年に なってからさらなる傑作を生み出してる人もいるのだが、結局は初期のときのその一本が彼(彼女)にとっての最高傑作だったよということが意外と多い。黒澤 の『野良犬』もそんな作品のような気がする。

『野良犬』での黒澤はまだ混沌の渦の中にいた。まだ定まらぬ「自分の世界」を手探りしている実験段階の中にいたと思う。1950年代60 年代につくられている彼の洗練された作品群に比べれば、かなり作りが荒削りだ。しかし洗練されていないぶんだけ、おのれの感性に対しては素直かつ大胆にな れたのかもしれない。ここだというときの映像への食らいつきが半端じゃない。その荒々しい情熱と実験意識と執念が、黒澤の映画の中でも空前にして絶後の映 像を生み出した。そう思えてならない。

 

「その日は恐ろしく暑かった」というナレーションでこの映画は始まる。
主人公である新人刑事・村山(三船敏郎)が満員バスの中で拳銃(コルト)を盗まれる。拳銃を盗まれることじたい刑事にとって致命傷。村山は先輩刑事の助言に従って前科者のリストを調べ、そこにバスの中にいた女スリ師( 岸輝子)の写真をみつける。女の居場所をつきとめ、執拗にその女を追い回す。このときの追っかけっこがコミカルで面白い。

 

たぶん女は拳銃の盗難とは関係がない。けれども刑事にこうも追い回されてたら本職のスリ業もおちおち出来やしない。だからなんとか村山の目から逃れたい。「人権蹂躙(じゅうりん)で訴えるよ!」と時折叫びながら汗だくでまた逃げていく。

夜も更けて、すっかりくたびれ果てて、女は小さな呑み屋で酒を飲んでいる。店の外には村山が辛抱強く見張りをしてる。女はとうとう根負け して、「負けたよ」と言って外にいる村山にビールと焼き鳥を運んでやる。そしてピストル屋という拳銃ブローカーが存在していること、場末の盛り場を汚い格 好でうろついているとピストル屋の客引きが声をかけてくることを村山に教える。
ここがなんとも、ほのぼのとしたシーンなのだ。近くでランニングシャツ姿の男がハーモニカを吹いている。曲名は分からないが聞き慣れた曲だ。(あとで調べたら「天然の美」という曲名だった)

この女スリ師、派手な洋服をまとっているが、年の頃50ぐらいか。そんなに綺麗なほうでもない。さんざん男に騙されてさぞかし苦労してきたんだなと思わせ るようなタイプだ。女スリ師のこのなんともいえないバタ臭さと年輪の深さが、このシーンを逆にほのぼのとしたものにしている(こーゆー場合、若くて綺麗な 女優さんを使ったらダメなのです^^)。
女スリは「今日はほんとに疲れたよ」と言ってごろりと仰向けに寝る。空には満天の星。

女は言う。「おお~、きれいだねぇ~。あたしゃお星様なんてものがあるの、ここ20年ばかりすっかり忘れてたよ」。 それを聞いて村山も「そういえばオレもそうだった」と言わんばかりに星空をしみじみと見渡す。近くから流れてくるハーモニカの音色がさらに哀愁を誘う。こ ういうところも黒澤は絶妙に上手い。荒れ果てたリアルリズムの画像の中に、ふぉわっとしたロマンを差し入れる。僕が現在の映画を観ていて、荒涼とした風景 の中にぱっと花を咲かせるようなシーンがあると、それだけで感動してしまうのは、けっきょくは黒澤映画の影響かなとも思う(^^)

 

 

村山(三船敏郎)は女スリ師に教えられたとおり拳銃ブローカーの大本をつきとめることにする。街でピストル屋と接触しやすいように、薄汚 れた復員兵の格好に変装して、真夏の東京をひたすら歩き回る。このときの映像がまた凄い。撮影当時(昭和24年)は戦争が終わって4年目、まだアメリカ (GHQ)の占領下にあり物資も意のままにならず、東京の上野(現在のアメ横)や新宿などでは闇市が異様な熱気を帯びていた(先日、職場のじーさまをつか まえて当時の闇市の様子を訊いてみたが、昭和24年の頃が闇市のいちばん盛
んなときだったと言ってた)。そんな東京のリアルタイムでの風景が次々と映し出 されていく。

 

 

終戦がもたらした光と闇が交錯する街。まずは生きていくこと。闇市でウドンをすする人。餅のようなものを頬張る人。夜の街に立つ女たち。人々のエネルギー と虚無感が入り交じった復興期独自の空気が、匂うように映像から放たれる。そのなかを飢えた野良犬の眼をした村山(三船敏郎)が彷徨い歩く。BGMは「東 京ブギ」など当時の流行歌のかずかず。ただし、だらだらと単に垂れ流しているようなBGMじゃない。あくまで街の雰囲気をさらに色濃く浮き出すために投入 された的確な音楽。僕たちはあたかも実際にその当時のその街を彷徨っている気分になる。

 

 

ベテラン刑事・佐藤が助っ人で登場(志村喬)

志村喬


噛めば噛むほど味が出てくる深みのある役者さんで、黒澤もぞっこん惚れたようで、三船敏郎と並び黒澤映画にはなくてはならない存在だ。

『野良犬』は日本に刑事モノ映画を流行らせた先駆的な作品らしい。だとしたらこのとき志村喬が演じた老刑事のキャラが、その後の刑事モノ 映画における「刑事」というイメージづけに莫大な影響を与えたのだろうと思う。それほどまでに刑事の特性をすべて血とし肉とした志村の演技だった。つまり は刑事のイメージの源水になりえた味わい深い演技だった。

ちなみに、この映画の3年前に公開の黒澤映画『わが青春に悔なし』(1946)で、志村喬は左翼系の男の妻(原節子)を取り調べる冷血獣のような特高刑事の役でちょこっと出ている。このときは眉を剃ったかなり怖い刑事役だった。

 

村山(三船)が街で捕まえてきたピストル屋の女(千石規子)が
ベテラン刑事佐藤の老獪な取り調べに思わずぽろっと拳銃ブローカーの名前を白状してしまう。

 

捜査が進む中で犯人の名前が浮かび上がってきた。遊佐(ゆさ)という男だった。
やがて銃を使った強盗殺人事件が起こる。遊佐の犯行だった。
銃弾を調べてみると盗まれた村山刑事(三船)のピストルの弾だった。村山はますます罪悪感と焦りを強めていく。

村山と佐藤(志村)は遊佐の行方を知るため遊佐の恋人に会いに踊りのレビュー小屋(たぶん今はなき浅草の国際劇場)を訪ねる。その恋人はレビューの踊り子をしていた。

 

遊佐の恋人・並木ハルミを演じたのが当時16歳の淡路恵子

ネットで調べてみると当時の淡路恵子は松竹歌劇団(SKD)の養成機関である松竹音楽舞踊学校の学生だったが、踊り子のハルミ役を探していた黒澤の眼に止 まりこの映画に嫌々出ることになる。ほんとうに映画が大嫌いで出演するのが嫌でしかたがなかったという。助監督が淡路恵子のなだめ役になって大変苦労した とか。しかしその嫌々感がハルミのキャラにとても合っていて、かえって都合が良かったという逸話もある。

 

ここは両刑事が並木ハルミに話を聞くため踊りのレビュー小屋を訪ねるシーンではあるが、黒澤はその劇場の楽屋裏で疲弊しきって横たわる踊 り子たちの姿を延々と映しとっていく。このへんの映像の差し出し方が実に上手い。そのときの時代性というものが踊り子たちの汗と共に噴き出ているようにも 思えるし、並木ハルミの日常がこの映像で一発で感じとれるとも言える。クドすぎるセリフでの説明など必要ない。映画は映像のワンカットで千のセリフよりも 饒舌に説明できる。ここにも業師黒澤の才能が光っていた。

 

捜査が進むに従って殺人犯・遊佐の実像がさらに明らかになってくる。遊佐は戦争直後は復員兵だった。戦争が終わり戦地から帰ってくる途中 大事なリックを盗まれている。それを契機に遊佐はグレ始めた。実は刑事の村山(三船)も復員兵で、やはり復員途中にリックを盗まれている。村山は戦後に遊 佐とは逆方向の道、刑事の道へとすすむ。ようするに、ふたりは、かつて紙一重の分かれ道に立っていた。その後、ひとりは善の道へ。ひとりは悪の道へ。しか しその岐路はあくまで紙一重。たぶん村山は遊佐に対してある種の親近感を覚えはじめている。
村山がベテラン刑事佐藤と遊佐の実家を訪れたあと、佐藤はもらした。
「おれの家もあばら屋だが、遊佐のところもひどいな。あれは人間の住むところじゃないよ」。

 

そして或る大雨の夜、捜査中のベテラン刑事佐藤(志村)が安ホテルのロビーで遊佐に撃たれる。撃たれた佐藤がホテルの玄関先に倒れている とき、ロビーで流れていたのが「ラ・パロマ」の軽快な音楽。佐藤の体を激しく打ちつける雨の音。黒澤の見事な音の使い方がここでも光っている。
けっきょく佐藤の命は助かるが、やはり使われた銃弾は、遊佐が盗んだ村山刑事(三船)のピストルのものだった。

 

佐藤の搬送された病院の手術室の前で「どうか死なないでくれ」と泣き叫ぶ村山。そこへ並木ハルミ(淡路恵子)が訪ねてきて、明日遊佐と逢 う約束を交わしたと告げる。待ち合う場所は「大原駅」。たぶん架空の駅名で、実際に撮影したのはどこか東京の郊外にある駅じゃないかと思う。次の朝、村山 (三船)は単独でのりこむ。のどかな田園風景が周囲に広がる小さな駅の待合室だ。「28歳。白い麻の背広」遊佐について村山の知ってる情報はこれしかな い。ところが駅の待合室に入ると白い麻の背広を着た男が数人居て長椅子に座っている(当時は夏に白い麻の背広を着るのが流行りだったのか)。村山は「28 歳、白い麻の背広」と心ん中でつぶやきながら一人一人をチェックする。そして、あることに思い当たる。きのう佐藤刑事が撃たれた夜は物凄い雨だった。土砂 降りの雨の中を遊佐は逃げていったはず。村山はふたたび待合室にいる男たちの足元をチェック。すると、泥だらけの靴とズボンの男がひとりいた。遊佐だっ!

 

 

ラストに近いこの待合室のシーンで初めて犯人・遊佐の顔が映し出される。役者は当時26歳の木村功

ちょっと余分なことをひとつ(余分なことばっかですが^^;)。
時期的に当然のことなんだけど、この頃の俳優さんはいちように戦争の傷をまだ抱え持っていて、ことに『野良犬』のような映画の役柄を演じるとき、けして他 人事ではない思いで撮影に入っていたのじゃないかと思えてくる。これもまたネットで調べてみると木村功自身戦争中は海軍にいた。故郷が広島で、家族を全員 原爆で失っている。三船敏郎のほうは航空隊にいた。

だからこの二人が演じたラストシーンは、よけいに役者自身の虚実が交じり合った緊張をもたらせたともいえる。


ふたたび待合室のシーン。
遊佐(木村功)はこちらを睨んでいる村山の存在に気づき駅から飛び出していく。追いかける村山。
二人は林の中になだれ込んでいき、そこで激しく揉み合う。泥だらけになって転げ回る二人。
そのとき少し離れた家からピアノの音色が流れてくる。曲はピアノ練習曲「ソラチネ」(ネット検索で知る)。その家の奥さんかお手伝いの女性がこちらの出来事を知らずに弾いている。
ここでも黒澤得意な「対位法」が威力を発揮する。性質の正反対なものをわざと同時に重ね合わせる。
暗いものには明るいもの。動きの激しいものには穏やかなもの。泥まみれで格闘する二人の向こう側に美しいピアノ曲を坦々と流す。そうすることで野良犬のような二人の息づかいが、さらに際立つ。

 

乱闘の果てにやっと村山は遊佐の両腕に手錠をはめる。疲れ果てて息をぜいぜいさせながら草花のなかに倒れ込む二人。
空には日の光が燦々と輝いている。周りは依然として、のどかなままだ。近くの道を子供たちが「蝶々」の歌を歌いながら通り過ぎて行く。



仰向けに倒れている遊佐の視界に小さな花が映る。光を弾きながら可愛らしく風に揺らいでいる。
子供たちの「蝶々」の歌がまだ聴こえている。
突然、遊佐が慟哭しだす。体を激しくよじり、呻くように泣き叫ぶ。傍らで呆然として見つめる村山。

 

 

 

村山は遊佐の姿に何を見たのか。自分自身のネガの姿じゃないかという気がした。

 

『野良犬』作品評価 ベスト

 

2008年5月12日  

 

 

 

 

明けましておめでとうございます

 

 

誰もが想像できなかったタチの悪い感染コロナ菌が世界中をくまなく蝕んでいる。「コロナ出現以前」に於いては、自分もすっかり歳をとってしまったし、先も見えてきて、あとは滓のような残り時間を自分の好きな事にだけ使いながら生涯を終えれば本望と思っていた。

ところが、とんでもなく巨大で巧妙な感染菌が出現し、世界を隅々まで覆い尽くし、先のないこの老いぼれも、これは大変なことになっちまった、貴重な残りの生涯はコロナ環境の下で押しつぶされて一巻の終わりなのかえ、とすっかり元気をなくしまった。

 

けれどコロナ出現から現在まで10ヶ月経っているのかしら、僕にとって「コロナ以前」と「コロナ以後」で何が変わったのかと思い巡らしてみてたが、致命的に何が変わったとはどうしても思えなかった。僕はもともと出不精で、「ひきこもり」の傾向が強く、年喰ってなおさらその傾向が色濃くなり、実際に旅行も映画館へも美術館へも近年においては行っていない。コロナ感染を避けるため外出を控えるようにと御達しがあった時期もさして不便さを感じることもなく「コロナ以前」からの生活形態がそのまま継続されていた。夜寝られなくて、寝床の上で、まるで殺虫剤をぶっかけられた害虫みたいになって朝まで転げ回っている重度の不眠症も数年前からのものでコロナとは関係がない。仕事はほとんどしてないが貧乏暮らしながら何とかやりくりしている。これも「コロナ以前」と同じ。 僕にとって唯一生きている実感が得られているのがスポーツジムでのヒップホップダンス。コロナの影響でジムの休館が強いられ一時途切れた時期はあったものの現在では通常に踊れている。踊る時にマスク着用が義務づけられているので息苦しさはあるが今ではそれも慣れっこになっている。マスクは老いぼれ顔を半分隠してくれるので見た目少しは若く見えるかしらと阿保みたいに思ったりしている。

 

ところでコロナ禍の状況下なのにダンスなんぞに浮かれてるなんて何と不謹慎な奴らだという思う人もいるかもしれない。コロナの影響で生活にひびが入り、崩壊しつつある人、崩壊してしまった人が沢山いらっしゃる。そのような人々からすればダンスにうつつを抜かしている人間たちはとんでもない奴らだということになる。当然な感情である。当然のこととは思いながら一言だけ呈しておきたいことがある。

 

いかに厳格な管理体制下でも人間というのは隙間を見つけてデカダンス(非生産的快楽。虚無性。)を愉しもうとする生きものだということ。ところがこの人間の本性を無条件に否定して個人の密かなる愉しみに過ぎない領域に土足で入り込んで押しつぶそうとする光景はいつの時代でも見受けられる。個より社会、個より国家を価値として最優位に据える感性が恐ろしい事態を呼び込んだ多くの歴史上の爪跡を私たちは知っている。現在の私たちの市民社会においてもけして例外じゃない。個人が有するデカダンスを「健全さ」のみで排除したり弾劾したりする光景はコロナ菌よりも怖いものかもしれない。私たちの深層で渦巻く厄介な感性の在り方で、とかく現在のような状況下では、感性の振り子幅が狭くなりがちです。硬く萎縮しがちです。

 

社会ルールを守りつつ、出来るだけ感性の幅は大きく振っていたい。柔軟でありたい。そう思ってます。 「コロナ以後」でも生活形態が殆ど変わっていないと云えるのは「ひきこもり」の老いぼれだからであって、一般大衆の大半は仕事や生活の面で大変な影響を被っているのをテレビなどで見て知っている。死活に関わるところで苦しみ崩れていく多くの人々がテレビの映像に映し出され、涙がでてくる。 コロナ撲滅には医学と科学の神の手を待つしかない。コロナ禍の下でどう対処していくかの具体的な方途は主義、政党を超えでた人間の叡知を駆使していくしかない。 なによりも一刻も早くコロナが終息するのを願い祈るばかりです。 何の参考にもならない雑文で申し訳ございませんでした。

 

 

 


Dylan  and  the Band  「Forevar Young」 

 

 
 

過去の日記の中で最も熱が入って書いたのが2008年天皇賞秋の競馬日記だったような気がします(笑)

かな〜り長いんです。かな〜りお暇の時にでないと、時間が勿体なくてとても読んじゃいられないしなものです。

それでも我慢して読んでくださったなら、あなたは正真正銘の天使です^^

 

この拙文(悪文)を読んでくださった後に天皇賞秋のレース映像をご覧になると、馬たちが競うってわりとスリリングなんだなぁと

お感じになれるのでは。

 

 

レース前日に書いた女の闘い←クイック願います

 

最も懸命に予想した女の闘い・2008年天皇賞秋の結果(映像)はご覧の通り

 

2020 元旦

 

賀状 ←クイック願います

 

注:音楽が鳴ります。

スマホでご覧になる場合は「全面表示」にして下さい。  

再生時間が6分半と長くなりました。すんません^^;   

 

今年も宜しくお願い申し上げます

 

6/11

 

菅間馬鈴薯堂公演(2019.5/24〜28)  

 

『じぶんのことで せいいっぱい  〜ダンスはうまく踊れない〜 

 

 

 

演出家の菅間勇さんとその奥さんでもある女優の稲川美代子さんは学生の頃からの友人で、現在でも親しくさせてもらってます。 菅間氏が、今度の芝居にダンスの場面を「本格的」に取り入れたいと思っている、稽古が始まったら役者たちのダンスを見てやって欲しいと公演前から言っていた。

「ダンスをみてやって」と言われたって、僕なんぞはスポーツジムのダンス教室で恥をさらして踊っているヨイヨイ爺に過ぎない。 人様に踊りを教える気量なんて爪の垢ほども持っちゃいない。後生だから俺を買い被らないでおくんなせいとお誘いから逃げ回っていた。

 

でも、踊る曲がDA PUMP の「 U.S.A」で、けっこうスピードのあるホップダンス。この曲を役者さんたちがいかように踊るのか、興味は深々であった。同時に、ちょっとした心配事も あった。僕とほぼ同世代の美代子さん(菅間の奥さん)が、はたして現代のこのアップテンポの曲を「踊れるかどうか・・」。 結局、親心半分、冷やかし半分が入り混じった、いずれにしても口笛吹きながらの野次馬の立場で稽古を見に行くことにした。

 

 

ところが稽古場に行ったら役者さんたちが僕のことを「先生、先生」と呼ぶのだ。こりゃ、きっと、菅間氏が、僕にダンスの先生という色を塗りたくって、役者さんたちに「今日はダンスの先生が見に来るよ」とかなんとか言っちゃったのだろう・・(汗) でも「先生、先生」と呼ばれると、あーた、なにしろ僕は単細胞なアホ男なので、まんざらでもない気持ちになっちゃって、「先生」なのだから少しでも「先生」らしい振る舞いとセンスを披露せねばなるまいと、はい、はい、ここはこうやったほうが良いで すよとか、実は骨盤の使い方ってぇのがありましてねぇとか、けっきょく、あれこれしゃしゃりでてしまった。稽古が終わって呑み屋に寄っても役者さんたちは「先生、ありがとうございます」を繰り返している。あのときの 自分の得意顔を想像しただけで、今でも恥ずかしくてこの世から逃げ出したくなるっす。すべては役者さんたちの暖かく幅広な人格が作用してのお話なのです。負けました。いい年 こいて、情けなやです。。

 

 

本公演でのダンスを観て、舞台の役者さんというのは凄いなぁと改めて思いました。普段、彼らが行っている役づくりの作業の一環に過ぎないのだろうけど、与 えられたダンスでも確実に自分の血肉にしようと修練していく、いわば「踊り」という「他者」を自らの肉体(存在)に変換していく、 その変換能力たるや実に見事なものというほかなかったです。 稽古場に訪れたとき、役者さんたちは踊りの振りを身につけることに懸命で、僕には不安げに踊ってらしたように見えました。 しかし、あのとき皆さんは試行錯誤の渦中でご自分と戦っていたのだと今にして思います。さすが舞台の役者さんたちです。ご自分の道を懸命に手探りしてたのだと思います。

 

あと、ダンスを学んだ経験が豊富にある女優加古みなみさんの存在が他の役者さんたちにとっては大きかったのではと思います。 大きく力強く重心のブレない彼女の動きが、闇の中で迷える舟たちを誘導する灯台の光の役目をはたしていたのではと思います。

 

 

本公演でのダンスシーンを観てください。どうでしょうか。僕は感動しましたね。

 

 

あれやこれやと試行錯誤してきた個々人の痕跡は、はっきりと舞台の上で示されていきます。 踊りだけじゃないでしょうが、不思議なんですよねぇ。本当に不思議だなぁと思います。 その人が、どのようにして踊りと向き合っていたのかとか、踊ることって自分にとって何なのとかが、意図や意識を超えたところで、本舞台でのステージにすべて出 ちゃうんですよねぇ。これだけは神様は見逃しちゃくれない^^。漏れなく出ちゃう。例外はないです。 実際、個々の役者さんたちの踊りに対する気持ちが本舞台でのステージに個別に浮き出されちゃってます。

 

そこではダンスの技術論は無効になります。もちろん技術は踊る上での前提で必要なものです。けれど技術の摂取が目的じゃないわけです。 踊るには何が大切なのか。どうしたら自分がいちばん楽しく踊れるのか、あるいはいちばん暗く踊れるのか。役者さんたちは御自分の個性を目一杯引き寄せて見せてくれました。 僕は毎日のようにジムでダンスしてます。踊りのレベルはお話にならないほど低レベルです。そんな爺でも壁にぶつかるわけですよ。 これでいいのか、とかね(笑)。今回の 菅間馬鈴薯堂公演における役者さんたちのダンスには色んなことを学び得たと思います。 ほんとうに有難うございました。

 

 

最後に一言だけ。本来ならここが最も重要なところなのですが、今回はサラッと(笑)

 

菅間勇の演劇世界にはひとつの原風景が色濃くあります。彼の少年時代である。 菅間氏は僕と同じ団塊世代なので、昭和30年初めから中期辺りの東京・下町が原風景の舞台ということになります。

僕は、これは彼の演劇世界のひとつの要素に過ぎないと、これまで思ってきたし、現在でも思っている。

だから、その原風景から何処まで遠くまで行けるのか、行くべきである、が僕のいつもながらの関心事なのです。

「お互い年なんだから今更怖いものなどないだろうが。お前、そんな原風景などぶっ壊してしまえ」などと一年に一回ほど彼に過激な悪たれをついてます。もち ろん酒の上での悪たれだが、いつも大真面目にそう思っているのです。解体すべきものは徹底して解体すべしです。これも僕の過激好きな性質の成せる業なの か。いや、違うと思いたい(笑)

 

 

 

追悼 萩原健一

 

歌い手が、音楽の神(音楽の悪魔でもいい)というものと芯から合体し、途方もなく謎めいた音の場所に彷徨い歩き、人の心を震わす音を発信させる。そんなことは本当は滅多にあるものじゃない、一生に一度あるかどうかの珍事に属するような気がする。

 

ショーケンのライヴは4回ほど聴きに行っている。

1980年代初頭あたりになるのだろうか、Donjuan Rock'n' Roll Bandとして音楽活動していた頃がショーケンにとって、その一生に一度あるかどうかの頃で、彼自身のピークと言っていいと思う。わずか数年の間であったが、この頃のショーケンの歌は何かに憑かれたような冴えを放っていた。

こういう一時期を人生のうちで持てたことは歌い手にとってとても幸せなことである。幸せな一生だったと思います。

 

またしても同世代の男が逝ってしまった。寂しくもあるけど、いやいや他人事じゃなくなってる、いよいよこちらにも順番が回ってきて、潔く覚悟すべき時がやってきているということですわぃ。でも、もうちとこの地上で盆踊りを踊っていたいので、あと3年ばかり、お願いします神様と情けなくも祈ってるです ^^;