レイアウトの舞台設定の話 ~物語風に~(3)最終回 | 16番ゲージレイアウトのこと..など

16番ゲージレイアウトのこと..など

16番ゲージの鉄道模型レイアウト・白縫鉄道川正線の制作記です。

 レイアウトの舞台設定の話 ~物語風に~(1)、 レイアウトの舞台設定の話 ~物語風に~(2) に続く最終回です。

 この物語みたいなものは、主人公が、国鉄末期の頃に、昭和40年代初頭の旅を回想しているものです。

 

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 夕食の膳を運んできたのは宿の女将だった。

 かいがいしく膳を据えながら女将が切り出す。

 

 「お口にあうとよかとですが、猪の鍋ばお持ちしました。この辺でよぉ獲れるとですよ。まぁだ山んごとありますから、たくさん召し上がってくださいね。それから、さっきは娘がいらんおしゃべりばしたごたるですね。えらい恥ずかしがって、お客さんの前に行ききらんち言うもんですから、私がお邪

魔したとこでした。」

 

 女中と思っていたが、宿の娘だったのか。自分の将来がわかっているからあんなことを言ったんだな。

 

 「いやいや、なかなか面白い話でしたよ。」

 

 少し不躾だとは思ったが、阿房列車を知る娘を悪く思うはずがない。

 

 「ありがとうございます。・・あの、ちょっとお尋ねしてもいいですか。」

 「私でわかることなら。」

 「信州の川上村って聞いたことあります?」

 

 小海線の信濃川上のことだろう。時刻表を眺めるうち、同じ小海線の佐久海ノ口という駅名が妙に気になって、出かけたことがある。

 

川上村の風景

川上村の風景 photo by photo library

 

 「中央本線の小淵沢から出ている小海線というのがあって、信濃川上という駅がある。」

 

 瞬間、女将の身体が張り詰めた。

 

 「どんなところなんですか。」

 「降りたわけじゃないから知らないのと一緒だけど、高原にある駅でね。ツ型の貨車が並んでたのを覚えているよ。」

 

 女将は怪訝な顔をする。

 

 「ツ型の貨車というのはね、野菜を運ぶ貨車なんだ。あの辺は高原野菜がたくさん採れるんだよ。後で聞いた話だが、朝鮮特需でレタスが当たり、今では私たちの食べ物も洋風化してるから、今でも盛んに栽培してるらしい。」

 

C56の高原野菜貨物列車

天賞堂のツ2500、エンドウのワフ29500、KATOのC56で小海線のつもり。

 

 女将の姿勢が緩み、吐息のような声が漏れた。

 

 「よかった。」

 

 私の言葉で何かの心配事が除かれたのだろうか。

 

 「すみませんねえ、変なこと聞いちゃって。お客さんなら、いろんな所に行かれてあるかしら、と思いまして。私の幼馴染が川上村にいるらしいんですよ。」

 

 そう言って、女将は語り始めた。

 女将の幼馴染というのは尋常小学校で同級だった男の子だ。

 この町は線路を境にして南側が川正藩の城下町で、北側は村である。村は楠原村と言い、潜伏キリシタンが多く住む村だった。

 女将は城下の宿屋の娘で、男の子は村の子だった。

 

 「幸作さんは賢い方でした。あの頃は、村の子が級長に選ばれることは珍しかったんですが、幸作さんはみんなから級長に選ばれたんです。私は副級長でした。二人で片付けものなんかをすることがあって。手が触れたりするじゃないですか。幸作さんはすぐに手を引っ込めようとするんだけど、私はその手を握ったりして。私の初恋ですよ。」

 

 ところが、昭和12年、9歳の幸作は一家で満州に渡ってしまう。

 

 「私には何にも言ってくれませんでした。ただ、満州に発つ日の朝、一人でここを訪ねてきたんですよ。私は父に連れられて、前日から家野の親類の祝い事に行ってて、父が飲みすぎて帰れなかったんです。会えませんでした。会えてたら、何か言ってくれたのかなあ。」

 

 何代も前の話だが、幸作の家は”転び者”だった。

 

 幕末も近い天保年間に川正藩に転封してきた有村高徳はキリシタンに寛容だったと言われているが、無嗣子でお家断絶となった前藩主の中田家はそうではなかった。

 

 弾圧を逃れるため、楠原村は村ぐるみで偽装棄教し、村の神社を拠点に信仰を守ってきた。幸作の先つ祖にあたる為造は、村の信仰の中心だったらしい。

 

 禁教の時代、宣教師の巡回など望むべくもなく、為造は近隣の村の信徒から教えを請われることもあった。そんな行動が藩に知れた。為造が自らキリスト教を触れ回っていると疑われたのだ。

 

 為造は拷問に耐えながら、殉教を心に決めていたが、「お前が死んだら、お前がそそのかした者たちも、いずれ取り調べんといかんな」との言葉を聞き、ついに棄教を選んだ。

 

 為造は村に帰ってきた。棄教はしたが、心中では信仰を捨てることはできない。

 転び者は、6代に渡って藩から監視される。心の安らぐことのない毎日だ。村人の中には、棄教した為造を責める者もいた。為造一家にとって、村は針の筵となった。

 

 時代が下り、大政奉還も間近の頃、楠原村を不幸が襲う。

 

 藩主有村高徳は、米を作る百姓こそ、藩財政の礎であるとして、百姓の平穏に心を砕いた。このためキリシタンにも寛容だったが、旧中田家の家臣の中には、そんな藩主を快く思わず、楠原村の偽装棄教を疑う者も少なくはなかった。

 

 郡奉行の坂田文次郎もその一人である。ある夜、文次郎は楠原村の神社に踏み込んで、村人たちを捉えた。捕縛者が出なかったのは、為造の子孫である耕太の一家を含めた数軒だけだった。

 

 村人たちには苛烈な拷問が与えられたが、一人の棄教者も出さずに耐え抜いた。むごたらしい拷問の様が城内で噂になった頃、それを知った藩主が村人たちを解き放った。

 有村高徳は、少し前に長崎で発生した「浦上三番崩れ」の顛末を知っており、それを利用して、「村人の信仰はキリスト教ではなく、異宗である」と断言したのだ。

 

 江戸時代、非キリシタンはキリシタンと一体になって村落共同体を運営していた。

 五人組などの厳しい統制下では、村内から罪人を出さないことが自分たちの生活基盤を守ることだったからだ。

 楠原村も同様だった。それでも、耕太の一家は、キリシタンにも非キリシタンにも心からは馴染めなかった。そればかりか、拷問に耐えた村人たちを見るにつけ、転び者の血が流れる自分たちを苛んでしまう。

 こうして耕太の一家は、自ら孤立を深めていったのではなかろうか。

 

 明治6年に禁教令が解かれると、それまで一体だった村落に綻びが見られるようになる。

 公然と信仰を明らかにしたキリタンが、村の神事や仏事をないがしろにし、非キリシタンとの間に軋轢が生じたのである。

 楠原村でも、雨乞いに参加しないキリシタンや、自葬祭(注1)を行うキリシタンがいた。

 村落の秩序の崩壊を目の当たりにした非キリシタンは、耕太の一家を執拗に責めた。

 耕太の先つ祖である為造は、村の信仰の中心としてミサを執り行ない、布教にも勤しんだ。

 それが村にキリシタンがはびこった原因だと糾弾されたのだ。耕太の小作地も、あらかたが取り上げられてしまった。

 その後、村人たちは和解したが、非キリシタンの庄屋が耕太の小作地を戻すことはなく、子や孫の代まで貧しい暮らしが続く。

 

 幸作の父親は、故郷を捨てる機会を待っていたのかもしれない。

 そして幸作は海を渡った。

 

 「こんないきさつは、全部、後で聞いたんです。駅の向こうにある川正教会の教会守りのおじいさんが話してくれました。」

 

 一家は満州に希望を見ていただろう。

 そんな希望を戦争が打ち砕く。苦労して引き上げて来たものの、幸作の父親に故郷に帰るつもりはない。

 

 この国には、外地からの引揚者たちが入植した土地がいくつもある。川上村の辺りもそんな土地のひとつだったのだろう。

 

C56の高原野菜貨物列車走る

 

 「ここで開いた宴席に小学校の先生が来らっしゃったとです。思い出話ばするうちに、幸作は信州におるぞって教えてくれたとです。」

 

 「幸作が心配でならんでな、転校する時に、居場所がわからんと心配もできんから、どこにおっても、居場所だけは俺に教えてくれ、そう言ったんだ。律儀な奴で、本当に居場所だけ教えてくれる。他に便りは来んけどな。便りのないのは良い便りじゃろう。」

 

 「それまでも、幸作さんのことは時々思い出してましたけど、居場所がわかったら急に身近に感じてしまって、今度は心配でたまらんごとなったとですよ。でも川上村がそげな所なら、幸作さんはきっと大丈夫だと思います。お客さん、ありがとう。」

 

 私が川正を訪ねてから20年が経つ。

 

 廃城令で城が売却される時に、村人たちが町の有力者を動かして、旧藩主有村家と共に城を買い戻した話や、逆に、川正教会が、有村家の協力の下に建てられた日本最初期の教会であることは後で知った。

川正城本丸隅櫓

川正教会

 

 その後、国鉄の「DISCOVER JAPAN」キャンペーンで脚光を浴びた「日本一小さな城下町」は、今も観光客で賑わっている。

 あの櫓がTVで紹介されることも一再ではない。その度に懐かしさが募る。

 宿の娘も忙しく立ち働いていることだろう。私を見送るときの羨まし気な顔を今でも覚えている。

 女将は元気でいるだろうか。

 

 昨今は、赤字ローカル線の廃止が続く。

 山に囲まれた川正は今も小さな町だが、途中駅の筑紫家野の辺りは、藩が開いた港が発展した県都のベッドタウンに様変わりしたらしい。おかげで、川正線は当分生き残りそうだ。

 

 あの頃とは装いを一新したブルートレイン「はやぶさ」は、朝日に照らされた瀬戸内海沿いを走っている。

 

 私は今、川正を目指す旅の途上にある。(完)

 

注1:「自葬祭」とは僧侶や神職によらず、自分で行う葬儀のこと。明治5年に自葬禁止が布告された。この布告により、葬儀は、神職・僧侶に依頼しなければならなくなった。

 

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 以上、全くの絵空事です。

 

参考文献

明治政府の宗教政策とキリシタン集落 内藤 幹生 大正大学大学院研究論集 (36), 109-118, 2012-03

高冷開拓地・八ヶ岳山麓野辺山における集落の変貌  小笠原 節夫 人文地理 14(1), 44-58, 1962

レタスを作って平均年商2500万円 長野県川上村 : 「日本一健康長寿で裕福な村」の秘密  週刊現代 56(22), 64-67, 2014-06-28

 

 この他、帚木蓬生「守教」、遠藤周作「切支丹の里」、藤沢周平「蝉しぐれ」などを下敷きにしました。

 深く考えずに書き出してしまったので、時代考証など、辻褄の合わないところもあります。「鉄道模型のレイアウトを舞台に、こんなことを考える奴もいるんだな」と笑ってくだされば幸です。

 退屈な物語にお付き合いいただき、ありがとうございました。