朝の太陽は時雨の白い肌を焼くようでいて撫ぜるようでもある。
清々しい一日の始まりに目を細めながら、彼女はいつも通りの役割を務める。
「おはようございます、先生」
「おはよう」
擦れ違う生徒と挨拶を交わす。
軽やかに、朗らかに、眠たげに、頭蓋を振動させる声々が、彼女をただ安らかにした。
重たげな黒い衣装も気にはならない。
ヒールのない靴は気を付けずとも、静かに廊下を滑っていく。
変わりない日常を過ごすことが、悪夢への特効薬だと彼女は知っていた。
心を穏やかに、波風を立てぬように。
口角を上げるのはこの場所では自然に出来るようになった。
始めは慣れないことと躊躇を隠せなかったが、子ども達の喜びに満ち溢れたこの学び舎で時雨の頑なは優しく解かれていった。
雁字搦めの体は解放され、今まで聞くことのなかった音や、見ることのなかった景色を知る。
自由ではない。
しかし、変わらぬ役と使命を背負いながらも、今はそれを苦しいと思うことが減っていた。
度重なる悪夢に押し潰される日も、緩やかな朝に浸かれば逃れられる。
己の罪をまざまざと描き刻み付ける夢の中の彼の言葉も、まるで福音のように思えた。
「おはようございます、先生」
生徒からの挨拶にまた、おはよう、と応えようと咽喉を開く。
あ、と気付いて一瞬戸惑えど、持ち直して声を出す。
「おはよう、玲」
にこ、と笑えば、彼も微かに頬を綻ばせた。
「少し顔色が悪いわ、大丈夫?」
「昨日、少し夜更かししてしまったから…でも、大丈夫ですよ」
目の下にうっすらと隈を見つけてそう言えば、何でもないようにそう答える。
いつもそうだ。
この可愛い甥は、何にでもそう言う。
大丈夫な時も、そうでない時も。
時雨はそれがひどく危なっかしく感じて、また、怖ろしくもあった。
「そうなの?休むことも大切だから…無理をしないで」
「分かりました。今日はゆっくり眠ります」
「ええ、そうしてね」
きっちりとネクタイを締めた彼は、先日高校生になったばかりだというのに少し大人びていて、人の気配に聡いところがあった。
不安がる時雨のそれに気付いたのか、玲はしっかりと彼女の瞳を見据えて、そう言った。
「今日は夜間もあるけれど…早く帰った方がいいわ。残っている仕事もあるだろうけれど、早めに切り上げて一緒に帰りましょう」
共に過ごした時間が長い訳ではない。
保護者というには心もとない。
それでも、時雨にとっては彼らは大切な子どもで、宝であった。
母を知らず、母になったこともない彼女には母らしい何か、というのが分からなかったが、それでも精一杯今出来る全てを惜しみなく与えようと思っていた。
言葉も、手も、足も、力も全て。
「…はい」
誰かは、それを過保護だと言った。
「おはようございます、樋野先生」
子どもらしくはにかんだ玲の返事に次ぐように、男子生徒の声が通り抜けた。
振り返れば和光一樹の金色の髪が、朝日を浴びてきらきらと瞳に映った。
「おはよう、和光君」
冷静に返事する。
つもりで、同じように笑顔を見せるのを忘れてしまったかもしれない、と心の内で時雨は動揺を覚えていた。
彼は決して笑ってはいない。
いつも通りの仏頂面で、不機嫌そうな声で挨拶をする。
玲と同じように隙なく締められたネクタイや着崩さない制服と金色に染め上げられた髪や耳を飾るピアスが、いつも通りアンバランスだ。
じっと見つめられて、時雨は居た堪れなくなりつつもそれを逸らすことが出来なかった。
「和光君、もうすぐ始業だよ。教室に行こう」
玲がクラスメイトらしく、そう言って彼を促した。
にこ、と作られた笑顔は先ほどまで時雨に向けていたものとはまた種類が違うようにも見えた。
「…ああ。じゃあ、先生、また」
不承不承、といった態度を隠さず、和光は玲と共にクラスに向かって歩き始めた。
助け舟。
そう思うのも何だか嫌で、時雨は彼らを見送りながら長い睫毛を震わせた。
これは、罪だ。
同じ罪。
私は、二度と同じ過ちを犯さない。
時雨の中に、今朝見たばかりの夢が高速で再生されていく。
『先生』
夢の中で、彼女は彼をそう呼んだ。
裁かれない罪が、こうやってまた自分に返って来ているのだ。
無垢な子どもを巻き込んで。
後悔と絶望と、消しようのない愛しさの狭間で、浮かんだ一つの言葉を時雨はまた脳裏に打ち上げた。
私の罪。
私と、先生の罪。
それは、インモラル。
