善知鳥吉左の八女夜話

善知鳥吉左の八女夜話

福岡県八女にまつわる歴史、人物伝などを書いていきます。

夜話2385  秋山真之の道楽  

先日「坂本繁二郎先生の秘話」と題して講演会を催した。雑誌「黄櫨」の主催である。

四十人ばかりの人が集まつてくれた。その時 夏目漱石の「道楽論に触れた」。

漱石が朝日新聞の記者としての第六回文展を見ての論文を参考にした。
漱石は坂本の「うすれ日」を激賞するについて坂本の「道楽」のみごとさに触れていた。
「道を究める喜びを道楽」として漱石はこの坂本の絵を激賞したのである。
 

老生いま病床にある

 

漱石と秋山は旧友。

漱石の名は出てこないが秋山の海軍論の中に司馬は「秋山」の思想を「道楽」と書いている。

 

秋山は赫赫たる日露海戦いの勝利のさなかでも将来は宗教家になりたいとの希望を持っていたと司馬は書いている。

「道楽者」として秋山と坂本は共通していて嬉しかった。

そういえば司馬は作家になる前宗教に関係ある小新聞社の記者だったな。

「道楽」という言葉の真意を漱石・坂本、秋山以上に知っていたのだろう。

「道楽」という言葉は仏教語。

あと数カ月で百歳になる拙者

「道楽」を極めるにはおそすぎるかな。坂本先生は笑ってておられるだろうなぁ。

夜話2384  白寿講演会 

今朝がた「黄櫨」発行社の東兄弟印刷社から印刷物が届いた。

拙者の横顔と並列して「白寿講演会」とある。

 

今月16日午後の講演会の予告もの。拙者の誕生日1月13 日こはとっくに過ぎた。数えで99才。「百」から「一」引いて「白寿」か。

 

このチラシ文は近日の「コミュニティ八女」に搭載とのこと。

 

いささか晴れがましいがこの世の最終の「おしゃべり」と思ってお引き受けした。

演題は『坂本繁二郎秘話』。

 

さきごろ黒木の文連総会で話した内容と同じ坂本の作品「うすれ日」にかかわる話。第六回文展出品作への夏目漱石批評モノ。

 

漱石はこの作品に坂本の個人主義を発見してホメた。坂本三十歳の時の作品。坂本の画名は一躍天下のモノとなる。

漱石に個人主義の芸術論がある。それに合致した坂本の芸術作品。

坂本先生は漱石と会ったことは無い。

「ただ新聞切り抜き」はお持ちになっていたとか。坂本の道楽芸術が漱石の「道楽芸術論」と一致したというわけ。道楽とは仏教語。道を究めんとする楽しみのこと。坂本は画道を苦行と称して生涯それを求めた。それを見抜いた文豪夏目漱石もさすが。「うすれ日」に作家の「奥行」を見抜いたわけ。それらの事を語った。

 

小生の演題を「坂本繁二郎の道楽」としたかったが 「またあいつ大向こうを狙って」とか言われそうで取りやめオトナシク「秘話」にした。黄櫨の會会員以外にかっての画塾生やその家族の方らの二十名近くの参加もあり盛会だった。田中豊君や「八女本町筋を愛する会」の今里・許斐茶屋社長さんらからお花をいただいた。まあ百歳近くになった拙者を心強く激励していただいたと勝手に喜んだ。

会場での会見 喜多屋会長 今福の横枕君の母堂 自宅に城後君元市役所勤務茶を持参激励に 田中某君(忘却)  花束贈呈 「八女本町筋を愛する会」今里充会長と許斐茶屋会長田中有君夫妻

電話激励加藤田先生  訪問激励西尾さん(葡萄頂戴) 自宅来訪元市役所職員城後君

 夜話2383  奉天第二中学校校長堀越喜博先生 

 

満洲奉天市の日本人街の南の果ての俗称『砂山』にこの中学校はあった。

九州福岡の旧制八女中学校よりの転校生の拙者にとっては夢のような学校だった。

八女中は暴力学校。

上級生はもちろんの事 教師の暴力も日常的な学校だった。

 

父母・妹の二度目の渡満に心惹かれ また初期の胸の病を抱えたままの旧制八女中の三年生の小生にとってはこの奉天二中は夢のような学校だった。

転校後知ったことだったが 堀越喜博校長は全満に知られた名校長

校内での暴力は上級下級の生徒 教師、配属将校と雖も絶対禁止。

 

生徒間の暴力は放校措置。

つまり全満の中学校への転校などはできない措置だった。

 

教師たちもこの規則措置には全幅の信頼を置いていた。

 

しかし制服などについては厳しい措置はなかった。八女中学生徒の「しもふり制服」は許可。ズボンにはなるべく折り目を要求された。

 

転校手続き文書で「美術部希望」に気づいた校長は その後 自著の『満州看板往来』の着彩を小生は頼まれた。

 

温厚なお顔は この年になっても忘れることはない。