中学校入学の思い出
1986年4月に僕は地元の中学校へ入学した。
それより数日前、僕は入学予定の中学校へ一人向かっていた。
それは、「入学式新入生代表」の挨拶を練習するためだった。
小学校卒業直前に担任の先生から、中学校の入学式挨拶を依頼され、春休み中に作文。
本格的に和紙に筆ペンで書きこむ手の入れようだった。
その中学校は不良が多いという噂があったため、一人で中学校へ向かうことに不安を感じた。
生徒玄関がどこかわからず、結局、職員玄関から入った記憶がある。
その後、担当の先生と体育館で動きの確認と練習を行い、家路についた。
入学式当日、中学校の生徒玄関入り口付近でクラス発表があった。
自分は1年4組だった。
同じ塾に通う別の小学校の女の子が同じクラスだったのを覚えている。
当時、その子に対して少しばかり好意を抱いていたのでうれしかった。
入学式で僕は新入生代表のあいさつをした。
不思議と緊張はしなかった。
今でも冒頭の分を覚えているくらいだから、かなりのインパクトがあった出来事だったようだ。
「桜の花もようやく綻びようとしている今日の日に、僕たち286名の新入生は・・・」
あれから26年。
初々しかった新入生は、メタボリック系中年オヤジになっている。
それより数日前、僕は入学予定の中学校へ一人向かっていた。
それは、「入学式新入生代表」の挨拶を練習するためだった。
小学校卒業直前に担任の先生から、中学校の入学式挨拶を依頼され、春休み中に作文。
本格的に和紙に筆ペンで書きこむ手の入れようだった。
その中学校は不良が多いという噂があったため、一人で中学校へ向かうことに不安を感じた。
生徒玄関がどこかわからず、結局、職員玄関から入った記憶がある。
その後、担当の先生と体育館で動きの確認と練習を行い、家路についた。
入学式当日、中学校の生徒玄関入り口付近でクラス発表があった。
自分は1年4組だった。
同じ塾に通う別の小学校の女の子が同じクラスだったのを覚えている。
当時、その子に対して少しばかり好意を抱いていたのでうれしかった。
入学式で僕は新入生代表のあいさつをした。
不思議と緊張はしなかった。
今でも冒頭の分を覚えているくらいだから、かなりのインパクトがあった出来事だったようだ。
「桜の花もようやく綻びようとしている今日の日に、僕たち286名の新入生は・・・」
あれから26年。
初々しかった新入生は、メタボリック系中年オヤジになっている。
秘密基地の思い出
小学生のころ、友達と一緒に秘密基地を作ったことがある。
近所の林の中にいくつもの基地を作って、そこにたむろしていた記憶がある。
ベース基地となった1号基地には、拾ってきたベッドや冷蔵庫があった。
今考えれば汚い感じがするが、当時はうれしかったような気がする。
2号基地の記憶はないが、3号基地は強烈に覚えている。
ここは、みんなで拾ってきたエロ本の隠し場所だったww
それをみんなで見ながら大人の世界を垣間見ていったのだった。
4号基地は野良犬が住み着いていた。
白いメス犬で妊娠していた。
彼女の名はウメ
間もなく3匹の子犬が産まれた。
ウメと子犬を世話するために、学校給食の牛乳を持ち帰り、それを飲ませたりしていた。
それが学校にばれて、保健所に通報されてしまい、ウメは行方知れずになった。
しかし3匹の子犬は基地で遊んでいた友人3人がそれぞれ引き取ることになった。
5号基地は別の学校の上級生に奪われた記憶がある。
取り返すためにエアガンやパチンコなどの武器を持って襲撃したが、反撃されたのだった。
6号基地は要塞だった。
他校生の襲撃に備え、基地の周りにいくつもの落とし穴を作っていた。
また脱出用にターザンロープをセッティングし、一瞬で20mくらい先にエスケープできる仕様だった。
7号基地は覚えていない。
8号基地まで作った記憶はあるが、具体的には覚えていない。
基地を守備する小学生数名は団結していた。
多少のメンバー入れ替えはあったが、みんな協力して基地を守っていた。
たかが遊びであったが、きちんと組織が作られ、指揮系統も存在していた。
そして守備隊の歌まで作詞作曲した本格派だったww
作詞者は僕である。作曲はマコトくんだ。
♪行け行け今日も僕らのコックさ~ん
♪クソじじいの鼻くそ~もぎ取って~
♪食っちゃお~う
30年たった今でも口ずさめるほど強烈な歌だった。
でも基地を作った林は、もうない。
あのころに戻りたい・・・
近所の林の中にいくつもの基地を作って、そこにたむろしていた記憶がある。
ベース基地となった1号基地には、拾ってきたベッドや冷蔵庫があった。
今考えれば汚い感じがするが、当時はうれしかったような気がする。
2号基地の記憶はないが、3号基地は強烈に覚えている。
ここは、みんなで拾ってきたエロ本の隠し場所だったww
それをみんなで見ながら大人の世界を垣間見ていったのだった。
4号基地は野良犬が住み着いていた。
白いメス犬で妊娠していた。
彼女の名はウメ
間もなく3匹の子犬が産まれた。
ウメと子犬を世話するために、学校給食の牛乳を持ち帰り、それを飲ませたりしていた。
それが学校にばれて、保健所に通報されてしまい、ウメは行方知れずになった。
しかし3匹の子犬は基地で遊んでいた友人3人がそれぞれ引き取ることになった。
5号基地は別の学校の上級生に奪われた記憶がある。
取り返すためにエアガンやパチンコなどの武器を持って襲撃したが、反撃されたのだった。
6号基地は要塞だった。
他校生の襲撃に備え、基地の周りにいくつもの落とし穴を作っていた。
また脱出用にターザンロープをセッティングし、一瞬で20mくらい先にエスケープできる仕様だった。
7号基地は覚えていない。
8号基地まで作った記憶はあるが、具体的には覚えていない。
基地を守備する小学生数名は団結していた。
多少のメンバー入れ替えはあったが、みんな協力して基地を守っていた。
たかが遊びであったが、きちんと組織が作られ、指揮系統も存在していた。
そして守備隊の歌まで作詞作曲した本格派だったww
作詞者は僕である。作曲はマコトくんだ。
♪行け行け今日も僕らのコックさ~ん
♪クソじじいの鼻くそ~もぎ取って~
♪食っちゃお~う
30年たった今でも口ずさめるほど強烈な歌だった。
でも基地を作った林は、もうない。
あのころに戻りたい・・・
学生時代の栄養源
宇都宮大学在学中、週に2回くらい通ったのが「かわばた」だ。
国道123号沿いにあった小さな食事処
ここで一番食べたのはおそらく焼肉セットだろう。
タレで焼いたバラ肉がメインで、ごはんと味噌汁、そしてイワシフライ
これで700円だった。
タレで焼いた肉に別のタレをつけて食べるのが粋だった。
次に食べたのはチキンカツ定食
チキンはムネ肉で、ころもがすごくおいしかった。
夏限定で食べたのがカツオタタキ定食
カツオがうまかった
焼魚定食はイワシとホッケとサンマから選べた。
ちょっとリッチな時は、焼魚定食にイカ納豆をつけたり、湯豆腐つけたりしていたなぁ
懐かしくなって、グーグルマップで調べてみたら
アパートになっており、かわばたは跡形もなくなくなっていた。
ご主人のやさしい笑顔が忘れられない。
僕の学生時代の栄養源となっていた大切な場所。
もう一度焼肉セットが食べたかった・・・
国道123号沿いにあった小さな食事処
ここで一番食べたのはおそらく焼肉セットだろう。
タレで焼いたバラ肉がメインで、ごはんと味噌汁、そしてイワシフライ
これで700円だった。
タレで焼いた肉に別のタレをつけて食べるのが粋だった。
次に食べたのはチキンカツ定食
チキンはムネ肉で、ころもがすごくおいしかった。
夏限定で食べたのがカツオタタキ定食
カツオがうまかった
焼魚定食はイワシとホッケとサンマから選べた。
ちょっとリッチな時は、焼魚定食にイカ納豆をつけたり、湯豆腐つけたりしていたなぁ
懐かしくなって、グーグルマップで調べてみたら
アパートになっており、かわばたは跡形もなくなくなっていた。
ご主人のやさしい笑顔が忘れられない。
僕の学生時代の栄養源となっていた大切な場所。
もう一度焼肉セットが食べたかった・・・
読書感想文
大宮市の読書感想文コンクールで小学校6年間で5回入賞。
4年生の時は、「おおみやの子」という文集みたいなものに出品して、
読書感想文コンクールには出品してもらえなかった…
5年生まではコンクールの推薦図書を読んで感想文を書いていた。
6年生の時は、亡くなった祖父の書斎で見つけた祖父が書き上げた本を題材にしたのだった。
1年生 「おへんろさん」 ~ 優秀賞
2年生 「むささびの親子」 ~ 優良賞
3年生 「オコジョのすむ谷」 ~ 入選
4年生 「みつばちの家族は50000びき」 ~出品せず~
5年生 「荒野のコヨーテ」 ~ 優秀賞
6年生 「機神様」 ~ 特選
我ながらよくがんばったと思う。
夏休みの宿題となっていた読書感想文は、とても苦痛であった。
が、4年生くらいから苦痛ではなくなった。
コツをつかんだのだろう。
おそらくこの時に身につけたコツが今の自分の仕事に役立っている。
4年生の時は、「おおみやの子」という文集みたいなものに出品して、
読書感想文コンクールには出品してもらえなかった…
5年生まではコンクールの推薦図書を読んで感想文を書いていた。
6年生の時は、亡くなった祖父の書斎で見つけた祖父が書き上げた本を題材にしたのだった。
1年生 「おへんろさん」 ~ 優秀賞
2年生 「むささびの親子」 ~ 優良賞
3年生 「オコジョのすむ谷」 ~ 入選
4年生 「みつばちの家族は50000びき」 ~出品せず~
5年生 「荒野のコヨーテ」 ~ 優秀賞
6年生 「機神様」 ~ 特選
我ながらよくがんばったと思う。
夏休みの宿題となっていた読書感想文は、とても苦痛であった。
が、4年生くらいから苦痛ではなくなった。
コツをつかんだのだろう。
おそらくこの時に身につけたコツが今の自分の仕事に役立っている。
ゴムボールで野球三昧だったこと
小学5年生くらいまでは、学校から帰ったら公園などで野球ばかりしていた。
ゴムボールで4~5人で野球。
1チーム2~3人で対戦するわけだが、そこにはいろいろな工夫があった。
まずチーム分け。
必ず分かれる者同士、つまりチームリーダー的な存在同士でジャンケンをする。
その名も「取り取りジャンケン」。
ジャンケンに勝った方が、欲しい選手をゲットできるのだ。
ジャンケンのかけ声は「と~り~と~り、ジャスコンピッ」だったような気がする。
チーム分けの後は先攻後攻を決めるわけだが、これも今考えると面白いことをしていた。
一方がプラスチックバットを投げ、相手がそれを片手で握ってキャッチする。
キャッチした部分からバットのグリップ方向へ、自チームと相手チームが交互に握っていく。
最後はグリップ先端から全ての指をのばし、相手の握っている部分にタッチすれば勝利。
勝利した方が先攻か後攻かを決めることができた。
ポジションはピッチャーと内野手と外野手の3人が一般的だった。
キャッチャーは攻撃側のチームが努めた。
だからサインなんてないし、盗塁もNG。
バッターはヒットを打てば進塁するが、満塁とかになると人数不足で打者がいなくなる。
そこで塁にいる走者が「透明」を宣言し、バッターボックスへ移動する。
これを宣言すると、塁上に透明人間がいることになるのだ。
透明人間の走塁は、お互いのチームが納得いく形でジャッジできていたのが不思議だ。
こんなルールで毎日のように野球をしていた。
団地と団地の間のとても狭いスペースがホーム球場だった。
1塁と3塁は団地の端っこにあるコンクリートだった。
2塁は側溝のコンクリート蓋だった。
その2塁の奥は道路になっており、その道路の向こうは金網フェンスがあった。
ここを越えるとホームランだった。
ホームベースからホームランゾーンまでは25mくらいだった。
だから結構な確率でホームランになった。
金網フェンスを越えたところはカヤが生い茂っていた。
カヤの葉は皮膚をスパッと切り裂くことがある。
だからボールを探しにカヤの中に入るのは嫌だった。
カヤの向こうは50センチ幅の側溝があり、いわゆるドブだった。
ここにボールが入ると悲惨だった。
ボールにドブ臭が染み付き、汚くて触りたくなかった。
そのドブをも越えると民家の敷地。
そこは一応、場外ホームラン扱い。
ここへボールを取りに行くときは緊張したのを記憶している。
ごくたまに小学校のクラス対抗で練習試合とかもしていた。
練習試合は軟式球を使うことが多く、校庭で本格的にゲームした。
グローブや木製バットを持参し、試合をする。
僕はこれが嫌いだった。
軟式球は痛いから。
小学5年生の後半くらいになると、野球をしなくなった。
サッカーの方が楽しくなったからだった。
間違いなく「キャプテン翼」が影響した。
あの時使ったプラスチックバットやゴムボールはどこへいったのだろうか…
ゴムボールで4~5人で野球。
1チーム2~3人で対戦するわけだが、そこにはいろいろな工夫があった。
まずチーム分け。
必ず分かれる者同士、つまりチームリーダー的な存在同士でジャンケンをする。
その名も「取り取りジャンケン」。
ジャンケンに勝った方が、欲しい選手をゲットできるのだ。
ジャンケンのかけ声は「と~り~と~り、ジャスコンピッ」だったような気がする。
チーム分けの後は先攻後攻を決めるわけだが、これも今考えると面白いことをしていた。
一方がプラスチックバットを投げ、相手がそれを片手で握ってキャッチする。
キャッチした部分からバットのグリップ方向へ、自チームと相手チームが交互に握っていく。
最後はグリップ先端から全ての指をのばし、相手の握っている部分にタッチすれば勝利。
勝利した方が先攻か後攻かを決めることができた。
ポジションはピッチャーと内野手と外野手の3人が一般的だった。
キャッチャーは攻撃側のチームが努めた。
だからサインなんてないし、盗塁もNG。
バッターはヒットを打てば進塁するが、満塁とかになると人数不足で打者がいなくなる。
そこで塁にいる走者が「透明」を宣言し、バッターボックスへ移動する。
これを宣言すると、塁上に透明人間がいることになるのだ。
透明人間の走塁は、お互いのチームが納得いく形でジャッジできていたのが不思議だ。
こんなルールで毎日のように野球をしていた。
団地と団地の間のとても狭いスペースがホーム球場だった。
1塁と3塁は団地の端っこにあるコンクリートだった。
2塁は側溝のコンクリート蓋だった。
その2塁の奥は道路になっており、その道路の向こうは金網フェンスがあった。
ここを越えるとホームランだった。
ホームベースからホームランゾーンまでは25mくらいだった。
だから結構な確率でホームランになった。
金網フェンスを越えたところはカヤが生い茂っていた。
カヤの葉は皮膚をスパッと切り裂くことがある。
だからボールを探しにカヤの中に入るのは嫌だった。
カヤの向こうは50センチ幅の側溝があり、いわゆるドブだった。
ここにボールが入ると悲惨だった。
ボールにドブ臭が染み付き、汚くて触りたくなかった。
そのドブをも越えると民家の敷地。
そこは一応、場外ホームラン扱い。
ここへボールを取りに行くときは緊張したのを記憶している。
ごくたまに小学校のクラス対抗で練習試合とかもしていた。
練習試合は軟式球を使うことが多く、校庭で本格的にゲームした。
グローブや木製バットを持参し、試合をする。
僕はこれが嫌いだった。
軟式球は痛いから。
小学5年生の後半くらいになると、野球をしなくなった。
サッカーの方が楽しくなったからだった。
間違いなく「キャプテン翼」が影響した。
あの時使ったプラスチックバットやゴムボールはどこへいったのだろうか…
祖父との思い出
父方の祖父は僕が生まれる前に亡くなっているので写真でしか知らない。
母方の祖父は僕が小2の時に亡くなってしまったが、僕に多大な影響を与えた人だった。
祖父は厳しい人だった。
僕やいとこが悪さをするとものすごい剣幕で叱りつけた。
怖かった。
居間ではいつも同じ場所に座り、プロレス中継を見ては興奮していた。
祖父の肩をもんだり、ツルツルに禿げ上がった頭をなでるのが幼き日の僕の楽しみだった。
祖父が病で入院したのがおそらく1981年だと思う。
脳溢血だったと思う。
命に別状はなかったらしいが、体が少し不自由になった。
何度か見舞いに訪れた記憶がかすかに残るが、そこでどんな会話をしたのかは覚えていない。
1981年の秋、祖父危篤の連絡があった。
その電話があったとき、僕は特撮版のスパイダーマンのエンディングを見ていた記憶がある。
家族で病院に駆けつけると、祖父は緊急輸血しつつ昏睡状態になっていた。
入院生活に多大なストレスを感じて胃潰瘍になり、大量吐血したためだと聞いた。
結局それがもとで亡くなった。
他人に迷惑をかけることを極端に嫌った祖父らしい死に方だなと今になって思う。
僕も同じような死に方をするような気がする。
通夜の日。
僕は発熱してうなされた。
翌日の告別式も体調不良のまま火葬場へ連れて行かれた。
その後、僕は寝込んでしまい、結局祖父の骨は拾えなかった。
バスに乗って祖父宅へ戻ると、信じられない出来事が起こった。
出棺直前まで祖父が横たわっていた奥座敷をみんなで片付けていたときだった。
布団をしまおうと押し入れのふすまを開けた途端、白い大きな何かが出てきた。
それは羽根を広げると1mくらいはある白いフクロウであった。
バタバタバタッと羽音を立てて、外へ向かって飛んでいった。
そこにいた親戚一同は、あのフクロウは祖父に違いないと話していたのを強烈に記憶している。
祖父が死んでから18年後、僕は祖父と同じ職業に就いた。
母方の祖父は僕が小2の時に亡くなってしまったが、僕に多大な影響を与えた人だった。
祖父は厳しい人だった。
僕やいとこが悪さをするとものすごい剣幕で叱りつけた。
怖かった。
居間ではいつも同じ場所に座り、プロレス中継を見ては興奮していた。
祖父の肩をもんだり、ツルツルに禿げ上がった頭をなでるのが幼き日の僕の楽しみだった。
祖父が病で入院したのがおそらく1981年だと思う。
脳溢血だったと思う。
命に別状はなかったらしいが、体が少し不自由になった。
何度か見舞いに訪れた記憶がかすかに残るが、そこでどんな会話をしたのかは覚えていない。
1981年の秋、祖父危篤の連絡があった。
その電話があったとき、僕は特撮版のスパイダーマンのエンディングを見ていた記憶がある。
家族で病院に駆けつけると、祖父は緊急輸血しつつ昏睡状態になっていた。
入院生活に多大なストレスを感じて胃潰瘍になり、大量吐血したためだと聞いた。
結局それがもとで亡くなった。
他人に迷惑をかけることを極端に嫌った祖父らしい死に方だなと今になって思う。
僕も同じような死に方をするような気がする。
通夜の日。
僕は発熱してうなされた。
翌日の告別式も体調不良のまま火葬場へ連れて行かれた。
その後、僕は寝込んでしまい、結局祖父の骨は拾えなかった。
バスに乗って祖父宅へ戻ると、信じられない出来事が起こった。
出棺直前まで祖父が横たわっていた奥座敷をみんなで片付けていたときだった。
布団をしまおうと押し入れのふすまを開けた途端、白い大きな何かが出てきた。
それは羽根を広げると1mくらいはある白いフクロウであった。
バタバタバタッと羽音を立てて、外へ向かって飛んでいった。
そこにいた親戚一同は、あのフクロウは祖父に違いないと話していたのを強烈に記憶している。
祖父が死んでから18年後、僕は祖父と同じ職業に就いた。
バブル時代のバイトの記憶
バブルがはじけた後も、今と比べればまだまだ景気が良かった90年代初頭。
僕が高校生だった時代だ。
人生で初めてアルバイトをしたのが高1の時。
バイト先は大手宅急便会社の配送センター。
各地から集まってきたトラックから荷物を降ろし、配達先を都道府県別に分けていた。
時給1200円。
今では高校生のバイトとしてはこれほど高給なバイト先はレアだと思う。
一日3時間で3600円を稼いでいた。
たしか冬休み中だったと思う。
年末年始も含めて2週間くらい休まずに働くと皆勤手当がもらえた。
その額3万円。
時給といい、皆勤手当といい、とてもおいしいバイトであった。
今はどうか知らないが、あの頃は結構荷物を乱暴に扱う人が多かった。
僕もその一人だったと思う。
ワレモノ注意のシールが貼ってない荷物は軽く投げて分別するのが当たり前だった。
勢い余って新巻鮭が箱から飛び出したときは焦った。
荷物を壊したりすると、きちんと給料が減らされていたのも思い出。
もしかしたら今よりも財布の中身が充実していたかもしれない。
僕が高校生だった時代だ。
人生で初めてアルバイトをしたのが高1の時。
バイト先は大手宅急便会社の配送センター。
各地から集まってきたトラックから荷物を降ろし、配達先を都道府県別に分けていた。
時給1200円。
今では高校生のバイトとしてはこれほど高給なバイト先はレアだと思う。
一日3時間で3600円を稼いでいた。
たしか冬休み中だったと思う。
年末年始も含めて2週間くらい休まずに働くと皆勤手当がもらえた。
その額3万円。
時給といい、皆勤手当といい、とてもおいしいバイトであった。
今はどうか知らないが、あの頃は結構荷物を乱暴に扱う人が多かった。
僕もその一人だったと思う。
ワレモノ注意のシールが貼ってない荷物は軽く投げて分別するのが当たり前だった。
勢い余って新巻鮭が箱から飛び出したときは焦った。
荷物を壊したりすると、きちんと給料が減らされていたのも思い出。
もしかしたら今よりも財布の中身が充実していたかもしれない。
幼稚園への通園ルート
自宅から幼稚園までは1kmくらいだったろうか…
当時の僕の足で20分くらいかけて通園していたんだと思う。
近所に住んでいた幼なじみ、ちーちゃんとゆうこちゃんといつも一緒に通園していた。
団地の前の道路を抜けて県道を横断歩道で横切り、あとはちょっと坂道を登っていく。
坂道は砂利道だったような気がする。
坂の上にその幼稚園はあった。
バス通園してる友達がうらやましかった。
帰り道、おしっこを我慢しながら冷や汗かいて家まで帰ったことも記憶に残る。
横断歩道の周辺は少し木々が多くてやや暗い感じ。
ちーちゃんやゆうこちゃんとどんなことを話しながら通ったのかは記憶にない。
あの幼稚園へとつづく坂道はどうなっているのかと思い、グーグルマップでチェック。
大きな地図で見る
坂道は舗装され、住宅密集地になっていた。
しかも薄暗かった横断歩道周辺も開けている感じ。
ここへはもう30年近く行っていないので、だいぶ変わっているだろうとは思ったが、
あまりの変貌にちょっと驚いた。
当時の僕の足で20分くらいかけて通園していたんだと思う。
近所に住んでいた幼なじみ、ちーちゃんとゆうこちゃんといつも一緒に通園していた。
団地の前の道路を抜けて県道を横断歩道で横切り、あとはちょっと坂道を登っていく。
坂道は砂利道だったような気がする。
坂の上にその幼稚園はあった。
バス通園してる友達がうらやましかった。
帰り道、おしっこを我慢しながら冷や汗かいて家まで帰ったことも記憶に残る。
横断歩道の周辺は少し木々が多くてやや暗い感じ。
ちーちゃんやゆうこちゃんとどんなことを話しながら通ったのかは記憶にない。
あの幼稚園へとつづく坂道はどうなっているのかと思い、グーグルマップでチェック。
大きな地図で見る
坂道は舗装され、住宅密集地になっていた。
しかも薄暗かった横断歩道周辺も開けている感じ。
ここへはもう30年近く行っていないので、だいぶ変わっているだろうとは思ったが、
あまりの変貌にちょっと驚いた。
小学校の担任の先生の記憶
小学校の時に担任だった先生方の記憶。
1~2年の時は森田先生。
当時30歳過ぎくらいの男の先生。
確か算数が専門だったとおっしゃっていた記憶がある。
森田先生の記憶はほとんどない。
しかし一度だけガッツリ怒られたことだけは記憶してる。
それは、授業中の出来事。
小さく千切った消しゴムを前方に投げた瞬間を森田先生に見つけられて叱責される場面。
この記憶だけ。
3年の時は田中先生。
25歳くらいの女の先生。
同僚の先生と結婚して小森先生になった。
この先生の記憶もあんまり残っていない。
ただ、あまり好きではなかった記憶しかない。
イヤミっぽかったような気がする。
4年の時は山口先生。
当時30歳くらいの男の先生。
これまで特殊学級を受け持っていて、僕のクラスが初の普通学級担任だったようだ。
僕の人生に大きな影響を与えた偉大なお方。
その分、記憶していることが多い。
その中でも特にインパクトの大きな記憶を一つ。
家庭訪問に来た山口先生は、どうやら風邪気味だったらしい。
座布団に座るやいなや、龍角散を飲もうとしてむせてしまった。
家庭訪問どころじゃなくなってしまった記憶がある。
とても大好きな先生だった。
5~6年の時は関根先生。
50歳くらいの女の先生。
とても厳しかったけれど、嫌いではなかった。
年齢の割に老けていて、背中が少し丸まっていたような記憶がある。
2本の白ラインが入った紺色のジャージを着ていた姿が印象的。
授業参観か研究授業で道徳の授業があり、僕は一生懸命授業をしていたにもかかわらず、
授業後に「ふざけて授業を受けていた」と注意された場面を今でも覚えている。
山口先生と関根先生は今でも年賀状のやりとりがある。
他の先生方はどうしているのかな…
1~2年の時は森田先生。
当時30歳過ぎくらいの男の先生。
確か算数が専門だったとおっしゃっていた記憶がある。
森田先生の記憶はほとんどない。
しかし一度だけガッツリ怒られたことだけは記憶してる。
それは、授業中の出来事。
小さく千切った消しゴムを前方に投げた瞬間を森田先生に見つけられて叱責される場面。
この記憶だけ。
3年の時は田中先生。
25歳くらいの女の先生。
同僚の先生と結婚して小森先生になった。
この先生の記憶もあんまり残っていない。
ただ、あまり好きではなかった記憶しかない。
イヤミっぽかったような気がする。
4年の時は山口先生。
当時30歳くらいの男の先生。
これまで特殊学級を受け持っていて、僕のクラスが初の普通学級担任だったようだ。
僕の人生に大きな影響を与えた偉大なお方。
その分、記憶していることが多い。
その中でも特にインパクトの大きな記憶を一つ。
家庭訪問に来た山口先生は、どうやら風邪気味だったらしい。
座布団に座るやいなや、龍角散を飲もうとしてむせてしまった。
家庭訪問どころじゃなくなってしまった記憶がある。
とても大好きな先生だった。
5~6年の時は関根先生。
50歳くらいの女の先生。
とても厳しかったけれど、嫌いではなかった。
年齢の割に老けていて、背中が少し丸まっていたような記憶がある。
2本の白ラインが入った紺色のジャージを着ていた姿が印象的。
授業参観か研究授業で道徳の授業があり、僕は一生懸命授業をしていたにもかかわらず、
授業後に「ふざけて授業を受けていた」と注意された場面を今でも覚えている。
山口先生と関根先生は今でも年賀状のやりとりがある。
他の先生方はどうしているのかな…
