こんにちは。


今日は、劇団の研究所時代の恩師の告別式でした。

もう大分前になりますが、私がまだ研修科の生徒だった頃、発表会で先生の演出を受けました。
芝居は、岸田國士の「ぶらんこ」。
若夫婦の朝の一時のお話です。
朝、旦那さんを起こしてご飯を用意し、背広を用意し、送り出し、ホッとして一人お茶を飲む。
20分程度の短編です。


卓袱台と台所を行き来し、旦那さんに声をかけながら、お櫃やお鍋を持ってくる。お味噌汁をつけながら台詞を喋ることが、いつまでたってもぎこちない私でした。
先生は、「まずは、家事を手伝わないと。」と、笑って叱ってくださったものでした。
当時、まだ19歳だった私は、恐ろしいほどの世間知らずで実家育ちだったので、ご飯も炊けないし、味噌汁も作れませんでした。

その稽古をきっかけに、いきなり実家の台所で味噌汁を何度も作り出したものでしたあせる


「経験しないとね。そればかりでもいけないけれどね。まずはね。」
と、渋い声で話されていたのを思い出します。
年上ばかりの同期生に張り合おうと、必死に背伸びをしていた私は、すぐに見破られていたように思います。
役者になる前は、ジャーナリスト志望だったため、話が社会問題になろうものなら、自論を譲らず生意気な意見を叩き出していた私を、頭から否定することは全くない先生でした。
意見は全部聞いてから、ご自分の見解を伝える。
なかなかできないことだと思います。
19歳の若造と同等に話してくれるのは。
私は、そんなことできるんだろうか。
どこか少し、自分を上に置いて人の話を聞いてはいないだろうか。
先生みたいに、大人の聞き方を私はできるのだろうか。


先生の遺影の前に、花を手向けながら、そう考えていました。

遺影の横に、先生がいつも肩から下げていたラクダ色(と、私は呼んでいた)のクタクタに使い込まれた鞄が置いてありました。

そのクタクタの鞄を、先生は毎日持っていらしたのでは。と思います。

研究所時代、駅から劇団に向かう途中、前に歩く先生の姿は、このクタクタの鞄がセットで思い出されます。
「先生、おはようございます。」
と言うと、いつも
「うん。…おはよう。」
と、間をとりながら、いい声で答えてくれたものでした。
先生との会話は、そんなに弾んだものにはならなかった気がします。
でも、私は先生を見かけると、足早に追いついて
「先生、おはようございます。」
て言っていたものでした。


もっと先生と喋りたかった。

どうして、叶わなくなると、一番したかったことが分かるんでしょう。


先生、どうぞ安らかにお休みください。
ご冥福をお祈り致します。





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