これは、広島市西区の太光寺の副住職である東和空さんの発案で、天城流湯治法杉本錬堂さんから始まったウェブによるメッセージ・リレーです。
バトンを受け取ったか人が3日間こころとからだの平和について思うところを書き、そのバトンをまた次のお二人の方に渡してゆくそうです。
の、二日目。
いきなりですが、憲法25条。
第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
「こころとからだの平和」は、この憲法25条で、保障されているということですね…。
しかし、憲法が本当に守られているのかは、首をかしげることばかりですが…。
原発事故の放射線被害といい、米軍基地周辺の住宅の健康被害といい…。
なぜにいきなり憲法の話になったかと言いますと、今日、宮本研作の「明治の柩」を観てきたからなのです。
足尾銅山鉱毒事件、田中正造をモデルにした戯曲です。
明治時代が舞台の芝居なのに、今の日本と重なる台詞が数多く…。
さて、話は戻り、こころとからだの平和。
こころの平和ってのは、どういう状態なんでしょう…。
具体的なイメージが浮かんでこないので、真逆のこと、こころの平和とかなり離れている状態を考えてみます。
なんだかザワザワする。
同じことばかり繰り返し考える。
次の時間を想像し、憂鬱になる。
…でしょうか。
嫉妬とか、被害妄想とか、自己嫌悪とか…。
これは共通して他人が関係します。全て他人からどう思われるかが関わっているようです。
と、いうことは、こころの平和は他人のことは考えない。自分が今感じている穏やかな感覚ってことでしょうか。
が。しかし、自分の世界のみに没入している光景を電車内でよく見かけますが(スマフォに夢中)、これは平和という状態なのか…。
スマフォだけじゃなくて、ゲームとか、ヘッドフォンで音楽を大音量で聴くとか、外界をシャットアウトするための行為は、種類は進化しているとはいえ、ずーっとニーズがあるわけで…。
いやいや、現実を忘れるほどの夢中になるための行為、忘我、なのか…。
ある意味の思考停止が、こころの幸せということであるのでしょうか…。
うーん。
様々それぞれの事情を抱えてる大人を考えると、思考が迷子になりそうなので、赤ん坊を考えることにします。
赤ん坊のこころの平和。
…(想像中)
ママに抱っこされてる時。
ママのおっぱいを飲んでお腹いっぱいの時。
みんなが自分をみてくれているとき。(ただしママは一番近くにいること)
…シンプルですね。
このままシンプルに生きられたら、こころの平和は保てるんでしょう…。
お互いに必要だと感じる人がいる。そしてその事を、実感できる。
これかな…。
「その相手を探すのが大変なんじゃぁ!」
「月日と共に、無用になったんじゃあ!」
と、ツッコミも聞こえてきそうですが…。
うーむ…
考えながらも、明日へ続きます。