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やまとの航海日誌

人生に苦しさを感じている方のために

幸せを探求されている方のために

私やまとが、日々の気づきや体験を

みなさまにシェアいたします。



セックスのことを記事にします。

ただ、残念ながらエロい話ではありません。



この話、どこから手を付けたらいいかと悩んでしまいました。


とりあえず、思いつくままに書くことにします。



セックスくらいではないでしょうか・・・

日常的な行為であるにもかかわらず、
何事もなかったかのような顔をして、
本当は大好きなのに、
あえて話題にすることを避け、
でも頭の中では妄想に忙しく、
抑圧するにしても、
発散するにしても、
相当なエネルギーを必要として・・・


食欲と同じ、ただの生理的欲求であったはずの ”セックス” が
今のように不自然な(少なくとも食欲と同列には扱われていな
い) 抑圧された概念を持つようになったのはいつからなので
しょうか?

インドのカジュラホの寺院には男女が交合している立像が多数
あるのは有名な話ですし、日本の神社にも生殖器崇拝を思わ
せる石像やご神体が各地に点在しています。

私は直接現地で観たわけではありませんが、「わいせつ」とか
「低俗」などを全く感じませんでした。

むしろセックスの持つパワーとかおおらかさを感じ取りました。


それがいつの時代からか抑圧され閉ざされてきました。

誰が何の目的を持ってこのようにしてきたのか分かりません
が、ひとつ確かなのは、今度は私たちが原因となって、次世代
にもこの抑圧され、捻じ曲げられた ”セックス” がこのまま語り
継がれるということです。

語られないことによって・・・



ところで、私たちは、好むと好まざるとに関わらず、 ”セックス
の結果” です。

しかもあの父と、あの母のセックスの結果なのです。


どんな感じがしますか?


私は中学生の時に、仲の良かったクラスメイトから聞かされて
知りました、どういうプロセスを経て自分が生まれたのかを。

その時生じた両親への違和感を今でも覚えています。
もしかしたら、今でも握ったままなのかもしれません。

その違和感は言葉にしにくいのですが、
「何かしら大っぴらにできないやましいこと・隠しておきたいこ
と」を両親がして、その結果自分というものがこの世に誕生した
という、罪悪感のような後ろめたさのようなものです。



私は、幼い時から事あるごとに、生命の誕生の不思議を母親
に尋ねました。
自分はどうやって誕生したのかを。
飼っている小鳥がどうして増えていくのかを。

結婚すれば自然に子供が生まれてくるとか、小鳥はオス・メス
つがいで飼っていれば自然に産卵してひなが誕生すると聞か
されましたが、心のどこかでそうではないことを知っていたので
しょう。

納得がいかなくて、大人の女性に何人か尋ねた記憶がありま
す。

人も虫も動物もぜんぶ生命は「女」の体から生じることを知って
いたので、この手の質問は「大人の女性」にするに限ると思っ
ていたのです。

でも、結局誰からも納得のいく答えは得られませんでした。
それよりも、この手の質問はしてはいけないんだ、ということを
子どもながらに感じ取りました。

こっちが尋ねてないことまで教えたがる大人たちなのに、なぜ
かこの質問だけは迷惑がられたのを肌で感じました。



もしセックスが食事のごとく自然に取り扱われていたなら、親子
関係や自分自身についても、これほどまで多くの問題は抱えこ
まずに済んだと感じています。

「いのち・存在」の根幹であるセックスに何かしら否定的な意味
づけを加えることによって、自分もそして親を含めた他人も根
深いところで肯定できずに苦しんでいると感じます。


こういうと、『セックスしまくれば良い方向に向かうのか!』
と言われそうですが、残念ながらセックスから自由になってい
ない私たちが何かをしても、あるいは何かを抑制しても、いま
の状況が変わるとは思えません。

白黒はっきりしない、結論のない話になってしまい申し訳ありま
せん。

でもある意味仕方ありません。

だって人類レベルで私たちはセックスに関して未だにモヤモヤ
しているわけですから・・・



私がひとつ決めているのは、

セックスのことを子供に伝える

ということです。


映画の有名なセリフで、

『それを言っちゃあおしまいよ』

と言うのがありますが、

それを言うことから始まる気がしています。

どんなつたない言葉でも構わない。

私は両親からではなく、クラスメイトから自分の誕生のヒミツを聞かされた。

それよりはきっとマシ。