「黄色い線の内側までお下がりください。」
というアナウンスの聞こえた18時51分。闇に浮かぶ灯りが見えた。僕はホームの先端に立ち、目の前を舐めるように過ぎていく車両に視線を向ける。明かりの落ちた運転席の中に、白く浮かぶ彼女の顔を見た。
停止して扉が開き、再び溶岩が溢れ出す。
運転席のある車両から、黒い小さな鞄を肩にかけた彼女が降りてくる。
と思ったら、すぐにまた空になった車両の中に姿を消してしまう。
すると、次は一番遠くの車両から同じ彼女が降りてくる。
いち、に、さん、し、ご―
後方の車両から順に点検をして行った車掌と彼女はすれ違い、あとはまっすぐにこちらに歩いてくる。
行き先の表示が変わって、最後尾車両が先頭になった。
僕は慌てて乗り込み、運転席の斜め後ろあたりに陣取った。
運転席に入っていた彼女は、何やら呟きながら四方の計器を丹念に指差呼称して、席に着いた。彼女の手袋は驚くほど白く、まるで特別にあつらえたようにその小さな指にピッタリと沿って、忠誠を誓っているようだ。
ホームに発車ベルが鳴り響く。彼女がぐっ運転レバーに力を込めた。電車は再び溶岩を積んで走り出す。
フロントガラスに彼女の顔がうっすらと映り、角ばった眼鏡の奥の瞳がまっすぐ前だけを向いているのが分かる。もう少し近づいてみたいが、そうすると僕の顔まで映ってしまう。
一体どうして運転士になろうと思ったのだろう。かっちりとした制服の中に全身を包んでいるせいで、何一つ彼女の個性は見えてこず、野暮ったいのか今どきなのかさえわからない。何を考えているのだろう。
そんな狭い箱の中でただ一心に前だけをみて、誰に言うでもなく「よーし」と声を出して。普段は笑ったりするのだろうか。どんな風に笑うのだろうか。
駅で一度停止する。彼女は運転席に座り直し、レバーに手をかけ、「出発」、その時だった。突然一人の小さな老人が閉まりかけていたドアに乱暴にぶつかりながら入ってきた。するとそのまま、運転席の扉をドンドン、と叩き、ドアノブをガチャガチャと回し始めた。車内に緊張感が走る。乗客の視線が老人に集まり、その視線はそのままゆっくりと彼女に合わさる。彼女が扉をあける。すると老人はまくしたてた。
「これどこ行き?ややこしくてわかりゃせんわ」
彼女は一瞬、その迫力に圧倒されたが、すぐに「〇〇行です」と答えた。
老人は、あそう、と言って自ら扉を閉めて退散した。彼女のほうも何事もなかったかのように再び席に着き、レバーを押し上げていった。列車は再び走り始める。
何も起こらなかった。
正直僕は少しだけがっかりした。パニックなどとは無縁の、平和な静寂が車内に戻り、彼女はまた前を向いている。
けれど、再びその背中に目をやった時、僕は思わず前のめりになって、初めて彼女を真後ろからじっと見た。きちんと被った帽子と、結んだ髪の間に覗く彼女の耳が、燃えるような赤みを帯びていたのだ。赤みは耳だけでなく、うなじの方まで広がって、静かな蒸気を立ち昇らせているようであった。駅が近づくと、いつもと同じ様子で「よーし」と声を出したが、ほんの僅かに、声が上ずり、彼女は小さく咳払いをした。目の前には、その耳と同じ色をした夕焼けが広がっていたが、僕は彼女を、空よりも美しいと思った。