またもや二カ月ぶりの更新です。
さきほど書きかけた文章が消えてしまいました・・・
PCに疎いとこうなるんですね トホホ・・・
二月初めから確定申告の用意、旅行の宿泊予約などやることが目白押し。
息子は半年の一人暮らしの引っ越しを私の仕事が終わってから梅田まで軽トラで荷物運び。
半年とはいえ、荷物の多い事。
親の家の空いているスペースを借りてベッドや椅子など大きな物を運び、食器や鍋、調味料を持って帰りましたが、掃除の大変な事。
私が荷物を運んだ後に私の両親が息子の運転で梅田まで行き、最終電車ギリギリまで掃除をしたそうです。
掃除機をぶら下げて電車に乗ったといってました、いや~孫ってかわいいんでしょうね。笑
早く掃除をして鍵を返さないと入隊数日前ですから慌ててしたそうです。
うちの両親は人間性を疑われるからと、借りた時より綺麗にしなくては気が済まない性分なので、ホテルに泊まっても風呂を洗ってから帰ったりと宿泊先にとってはいいお客でしょうね。
出発当日は八時まで仕事をして、荷物を乗せ車中で観るDVDを子供に選ばせて、夕食は仕方なく外食で済ましレッツラゴー!
案の定名古屋辺りから睡魔が・・・
そこで以前落札したアウトレイジを鑑賞、見事に眠気が飛びました 笑笑
あれだけ強烈なシーンを観ると人間は眠気がなくなるようで・・・
これからの長距離はホラーを行き帰りと二本は持って行けば大丈夫なんじゃないかと思う。
いくら倉庫に保管したとは言え、スキー靴が二足真っ二つに割れました。
こんな事あるんですね、急遽レンタルをして滑る事はできました。
もっとも貰い物のスキー三セットだったのでもう二十年以上の物だと思います。
劣化は仕方のない事ですが、当日の朝に二足共割れますか・・・・?
八年ぶりの北志賀高原に行ってきましたが、何度行ってもいいですねスキーは。
当日は吹雪いたのですが翌日は焼けるほどの天気で十分楽しめました。
旅行は帰ってきてからが勝負?後片付けの辛い事、お土産の振り分け、洗濯物、スキーの処分、鞄の中を空っぽにするのは容易ではない。
帰宅後明々後日には息子は入隊。
なにか掛けようと思っていた言葉が出ずに、広報事務所の到着。
子供の頃からそうだったが、迷子になっても、迎えに来た私達が迷子だったかのような顔、留学時も空港の最後のゲートでも振り返らず、彼からは寂しいと言う感じがしない。
私など子供の頃は気が小さかった。今の私を見て、子供時代を知らない人は信じない。
反対に娘は私に似てるのでこちらの方が安心する。
約十日後の入隊式に両親共に晴れ姿を見にいったが。制服に着られてるような感じだったので、まだまだ似合わんな、と言った。
本格的な訓練は式後だろう、来月には創立記念行事があるので見に行こうと思う。
その翌週には、許可をもらい制服姿で家族写真を撮る。
今回は初めてうちの両親が入る、それまでは子供が生まれてからずっと家族だけで嫁の親も入る事がなかった。
大きくなるにつれて、写真を撮らなくなるが一年に一回必ず撮ると子供の成長や自分が老けて行くのがわかって面白い。
来年は配属先の部隊に行って撮影することになるんじゃないだろうか。
7月には配属先に行くとスケジュールに書いてあったが、さてどこに行かされるやら。
私達夫婦は旅行を口実に行けるので、ある程度ならどこでもいいと思っている。
もし遠すぎればそれは仕方のない事。
私はもう祖国日本に息子を預けたのだから。
そろそろ子離れをしよう、まだ娘がいるがこれも看護師免許を取得し奨学金返済の為三年奉公すれば自衛隊か自衛隊病院に行く事を勧めている。
どんな?ヘチャムクレでも男の多さでみれば結婚できるし、自衛隊員に早々腐った男子はおるまい、またいたとしても選ばないだろう。
嫁は看護師なので腐った家族が来る苦労を知っている、私も入院で経験したが、若い者は何も言わないが、中途半端なアホなオッサンは文句ばかり言っている。
怪我であれば己の不注意、先天性でなければ己の生活態度が悪くて入院しておいて勝手ばかりを言うクソオヤジに腹が立っていた。
当時の私は21くらいだったので黙っていたが、今なら思いっきり罵倒しているだろうな。
勝手な奴ほどウルサイ、女は古今東西ブスほどウルサイ、これは不変な様だ。
自衛隊ならそんな奴も少ないだろうし、自衛隊病院なら関係者しか来ないので嫁のように県立や私立で働くよりもストレスもマシだろう。
私の両親も子供の行く末をこの様に案じていたんだなと思うと有難く思うが、若いころにそんな事を考える余裕はない、誰もが親になり思う事なのだろう。
親は常に子供に対しては無償の愛なので当り前なのだが・・・
入隊式翌日は叔父の舞鶴海軍慰霊祭に参加。
入隊式が終わり家に帰って娘を両親に預けてすぐに高速に乗り舞鶴へ。
去年も雨だったが今年も雨で寒かった。
このブログで書いた、空母大鳳乗組員の方と再会。
昭和三年生まれのその方は50kmの道のりを今年も自分で運転をして来た。
去年同様、話しを聞くと、大鳳沈没後に駆逐艦磯風に助けてもらったが、食べ物が乏しく、支給が少なかったと仰っていた。
そこでアイフォンで大鳳の戦歴の載ったページや磯風のページを見せると、メモしたいと言っていたが、この慰霊祭は坊主が退場すると椅子や座布団を片付けるので長居ができない。
そこで去年名刺を渡したら年賀状をくれたので、送りますと言って別れた。
大鳳、磯風、叔父の乗っていた敷設艦成生(なりゅう)のページを印刷して早速メール便で送って差し上げた。
今頃、それを見て奥さまと話しているだろうか?またお子様たちやお孫さんに話しているだろうかと、あの笑顔を思い出しながら想像している。
また来年も是非ご健康で来ていただきたいものだ。
私も年に一度の楽しみにしている。