自分の場合、

 

誰かに言いたいことがあるときは

 

大体、自分も同じことが

あてはまるときだったり、

 

自分にも同じことを

言いたいとき

 

だったりします。

 

 だから

 

「何さ!あの人、

いい人ぶっちゃって!」

 

などと思っているときは

 

大体、自分も

その人と同じようなことを

やっているww

 

 

 あるいは、

 

「もっと私の気持ちを分かってよ!

このオタンコナス

 

などと誰かに言いたかったりすると

 

それって自分が自分の

気持ちにフタしている時

だったりします。

 

 

 先日、

 

「人を動かす」

 

という本を読んで

感銘を受け、

 

(目次はこちらをご参考に)

https://kachima101.com/titi-wasureru/

 

 

早速、

 

「人を褒めよう!

誠実な関心を持とう!おねがい

 

と思ったのですが

 

人にする前に

 

まず、自分が自分に

 

できてるのかなあ・・・・・?

 

と。

 

 

 例えば、本によれば、

「人を動かす三原則」

 

1 盗人にも五分の理を認める
2 重要感を持たせる
3 人の立場に身を置く

 

だそうですが、

 

自分に誤りがあったとき

自分にも五分の理を

認めてあげているだろうか?

(→これは大丈夫そうですね。わたし、自分には甘いのでww)

 

 

 では、自分に

重要感を持たせて

あげているだろうか?

 

 

 つまり、自分の存在、

やったことに対して、

褒めたり、励ましたり、労ったり

できているだろうか?

 

 

 自己評価の低い人は

 

ここですでに

 

躓くんじゃないですかね??

 

 

 自分のすることって

 

大体、義務のように思って

やってるか、

 

あるいはただの楽しみとして

やっていることが多いから

 

褒めもしなければ

励ましもしないし、

労うなんて全然しない。

 

 

 私は社会人になってからも

 

有給休暇を取るだけで

 

同業者であった母親から

 

「いいご身分やね」

 

などと、嫌味を言われたものでした。

 

 

 一度、すごく悲しいことがあったとき

幸い、仕事は忙しくなかったので

半日、お休みを取って

気分転換に美容院へ行ったら

 

「休暇を取っているときに

出歩いてはいけない!

人からなんと言われるか・・・」

 

などと言われたことも。

 

 休暇中に出歩くなって、

諜報員とか

スナイパーか何かか?(笑)


 

 それがベースになっていたから

 

休みも取らずに働くのが「ふつう」と、

意識に沁みついているところがありました。

 

 

 でも、母が働いていた時代と

 

今は、全然違う。

 

 

 骨身を削るだけで

褒められていた昭和の中頃までとは、

 

平成も、令和も全然違う。

 

 

 そういうことに

気づいたのがやっと

5年ほど前。

 

 

 今でも、注意しないと

すぐ、当時の意識に戻る。

 

 

 私がそういう風に育っているということは

 

廻りの同世代にも、

 

そういう人がうじゃうじゃいるので。

 

 

 でも、親が、とか

廻りの人が、とか

 

もう、どうでもいいですよね。

 

 

 少なくとも

 

自分の頭の中では。

 

 

 自分が頑張ったと思ったなら

 

自分を褒めればいいし

 

労えばいいし

 

自分が弱っていたなら

 

自分を励ませばいい。

 

 

 存分に。

 

 

 そうやって自分を動かしてから

 

「人を動かす」ことが

 

できるんじゃないかな。

 

 

 でも、私の寿命は

もはや短いし、

 

同時にやればよさそうですねww