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ねずさんのブログよりの転載です。

満開の桜に - ねずさんの学ぼう日本 (nezu3344.com)

 

辛さを知る人が自分一人しかいなかったとしても、
たとえ、心が折れてしまったとしても、
あの折れた山桜のように、立派に花を咲かせていく。
行尊の歌は、そんな、人生の辛いときにこそ、心に沁みる歌です。

 

 

桜の季節になりましたが、盛大に春爛漫と咲き乱れる桜の花見どころの桜も素敵ですが、山中にたった一本、ひっそりと咲き乱れる桜もまた、風情があって素敵です。
そんな山桜を歌った和歌が百人一首の中にあります。
とっても良い歌ですので、ご紹介してみたいと思います。

 もろともにあはれと思へ山桜
 花よりほかに知る人もなし

前大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん)の歌です。
百人一首では66番歌です。
行尊は、後に園城寺(おんじょうじ)で大僧正を勤めた人です。

園城寺は修験道のお寺です。
滝に打たれたり、お堂に篭ったり、山登りしたり、とにかく霊力を得るためにありとあらゆる荒行が行われる、厳しい修行のお寺です。
行尊はその園城寺に12歳で出家して寺入りしました。
つまり行尊は、青春の全てを園城寺での修行に費やしたのです。
ですから若い行尊にとって、園城寺は青春の全てだったし、行尊の人生の全てでもありました。

ところが行尊26歳のとき、その園城寺が全焼してしまいます。
原因は放火です。
犯人は比叡山延暦寺の僧兵でした。
何もかも全部焼かれてしまいました。

どうしてそのようなことになったのかというと、実は延暦寺も園城寺も、ともに天台宗ですが、延暦寺がインドからChinaを経由して渡ってきた、いわば正当派を主張する寺院であるのに対し、園城寺は天台の教えに我が国古来の神道の教えを融合させようとしたお寺であったからです。
延暦寺を信望する一部の僧には、これがおもしろくない。
園城寺は邪道だというのです。

それが言論だけのことであれば問題はありません。
しかし当時の延暦寺はたくさんの荒ぶる僧兵を抱えていました。
なかには、信仰心が薄く、ただ暴れたいだけの修行の浅い僧もいたのです。
そうした痴れ者が、園城寺の焼き討ちをしてしまったのです。



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なんでもそうですが、学習や修行が進んでいくと、ものごとの違いがよく見えてきます。
より尖鋭化していくのです。
ところがそうした時期を通り過ぎると、今度は異なると思っていたこととの相互の連関が理解できるようになります。
つまり対立的思考を乗り越えることができるようになるのです。

このことは子供の成長にも似ています。
小学生のうちは、自分と他人の区別があまりよくわかっていません。
ですから「みんな仲良くするんだよ」と先生に言われれば、言葉の額面通りにみんなが仲良くすることができます。
ところが中学生くらいになって思春期を迎えるようになると、自他の区別がつくようになり、親との共生関係から離れて同性との仲間関係を築き、異性との関わり方を学び、年齢や価値観が異なる集団での振る舞い方を学ぶことができるようになり、他者との違いが意識できるようになります。

そしてこの時期から、より自分に近いものに、強烈な対抗心を抱いたりします。
不良と呼ばれる子が、他校の不良にことさら対抗心を燃やしたりするのも、同じ不良というカテゴリーの中にあることが理由となるわけです。(おもしろいもので、自分とかけはなれたものには、人は対抗心を持ちません)

それが大人になると、異なる価値観を持つ相手を容認し、かつ、そうした人たちとともに、ひとつの大きな仕事を仕上げていくことができるようになります。
つまり人の心は、個体から、個体間の対立へ、そして共存へと発達していくわけです。

そうした次第ですから、比叡山は立派なお寺ですし、たくさんの修行僧を抱えるお寺であるがゆえに、修行の浅い僧の一部は、身近な同じ天台でありながら、比叡山とは修行の仕方が異なる園城寺が許せなくなる。
それが結果として、焼き討ち、という、とんでもない行動へと発展してしまったわけです。

しかしこのことは、園城寺の修行僧たちからすれば、死活問題です。
なぜなら、寺が焼けるということは、寺に備蓄してあった食料も焼けてしまうことを意味しているからです。
行尊たちは、ただ焼け出されただけではなくて、その日から、着替えもなく、飯も食えない状態になったのです。

焼け出された園城寺の僧たちは、全員で黙って、近隣に托鉢(たくはつ)に出ました。
托鉢というのは、各家を周って寄付を募る活動です。

こうして托鉢に出ていた若い行尊は、ある春の日に、吉野から熊野にかけての山道を歩きながら、山中で一本の山桜を見つけたのです。
その山桜は、前年の台風で、風になぎ倒されて、折れて倒れてしまった木です。
けれどその山桜は、折れて倒れながらも、なんと満開の桜を咲かせていたのです。

この歌には『金葉集』(521)の詞書に、「大峰にて思ひがけず桜の花を見てよめる」とあり、二首の歌が掲載されています。

《詞書》
(山桜が)風に吹き折られて、なほをかしく咲きたるを

 折りふせて 後さへ匂ふ 山桜
 あはれ知れらん 人に見せばや

 もろともにあはれと思へ山桜
 花よりほかに知る人もなし

深い山中で花を咲かせても、人の目にとまるわけでもないし、誰一人「きれいだね」と褒めてくれるわけでもありません。
風雨に晒され幹が折れてもなお花を咲かせている、そんな生きようとする健気な姿も、誰も見てくれる人などいません。
けれどそれでも、その山桜は精一杯、満開の桜を咲かせているのです。

自分たちも、誰も見ていないところで厳しい修行に明け暮れてきました。
誰が褒めてくれるわけでもない。
厳しい修行を、むしろあたりまえのこととして、必死になって頑張ってきた。
けれど、その拠点となる寺を、理不尽な暴力によって失ってしまった。

でも、だからといって、暴力に暴力で対抗したところで、そこに残るのは、恨みの連鎖でしかありません。
いま、自分たちに必要なことは、何もかも失ってしまったあとで、もういちど、寺を再建すること。
愚痴や泣き言を言ってもはじまらない。
またいちから、いつもの通りの托鉢をして出直すだけです。

誰が同情してくれるわけでもない。
それでも頑張る。
それでも人の良心を信じる。
托鉢を続ける。
そうすることで寺を復興させる。

だって、あの山桜だって、倒れてもめげずに立派に咲いているではないか。
山桜にできて、俺たちにできないなどということもあるまい・・・・。

たった一本の山桜の姿に、心を動かされた行尊は、仲間たちとともに托鉢を続け、立派に園城寺を再建します。
そして厳しい修行を再開し、行尊は優れた法力を身につけ、白河院や待賢門院の病気平癒、物怪調伏などに次々と功績を挙げ、修験僧としての名を高めていきました。
そして園城寺の権僧正にまで上っていくのです。

ところが行尊67歳のとき、園城寺は再び延暦寺の僧兵たちによって焼き討ちにあってしまいます。
寺は再び全焼しました。
このときもまた、行尊らは高齢となった体を、一介の托鉢僧にして、全国を歩き、喜捨を受け、再び寺を再建しています。

数々の功績を残した行尊は、僧侶の世界のトップである大僧正の位を授かるにまで至りました。
そして81歳でお亡くなりになりました。

亡くなるその日、行尊はご本尊の阿弥陀如来に正対し、数珠を持って念仏を唱えながら、目を開け、座したままの姿であの世に召されて行ったと伝えられています。
まさに鬼神のごとき大僧正の気魄でした。


オオヤマザクラ

 

園城寺、そして行尊の偉いところは、延暦寺の僧兵たちに焼き討ちに遭ったからといって、報復や復讐を考え行動するのではなく、むしろ自分たちがよりいっそう立派な修験僧になることによって、世の中に「まこと」を示そうとしたところにあります。
誰も見ていなくても、誰からも評価されなくても、山桜のようにただ一途に自分の「まこと」を貫いて精進していく。
この歌には、そんな決意さえも、しっかりと込められているのです。

ちなみみ最近の百人一首の解説本では、どの本を見ても、
「この歌は山中で孤独に耐える山桜に共感した歌」としか書いてありません。
本によって表現こそさまざまですが、いずれもこの歌は「孤独や寂寥感」を詠んだ歌だとしか解説していません。
それはそれで、ひとつの鑑賞だと思います。
けれど、日本文化は、その奥にまた、おもしろさがある。
その深みこそ、日本の古典文学のたのしさだと思います。

人は、生きていれば、耐え難い理不尽に遭うことが、必ずあります。
多くの場合、そのとき人は何もかも失います。
それは「生きていても仕方がない」とまで思いつめてしまうほどの大事であったりもします。
けれど、そんなときこそ、

 もろともにあはれと思へ山桜
 花よりほかに知る人もなし

辛さを知る人が自分一人しかいなかったとしても、
たとえ、心が折れてしまったとしても、
あの折れた山桜のように、立派に花を咲かせていく。
行尊の歌は、そんな、人生の辛いときにこそ、心に沁みる歌なのではないかと思います。

というよりも・・・・
もっと簡単に言ったらこの歌は、

「俺たちはな、
 幹が折れたって
 立派に咲くんだ。
 山桜なんかに
 負けてられっかよ!」

と歌っています。
それこそが日本人の心意気です。


 

お読みくださり有難うございます。

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