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ねずさんのブログよりの転載です。

小さな積み重ねが日本を変える - ねずさんの学ぼう日本 (nezu3344.com)

 

小さな努力が、気がつけば世界最強の軍をつくり、また日本の高度成長を支える原資となった、ということは、あらためて、現代を生きる私達が、考えてみなければならないことであるように思います。
目の前にある小さなことの積み重ねが、世界を変えるのです。
このことは、おそらくAIが進歩した未来社会においても、きっと変わることのない真実であろうと思います。

 

 

有名な小噺ですが、
「タイガー・ウッズが帽子をかぶって得るスポンサー料は、
 一日当たり5万5000ドル。
 その帽子を作る工場労働者の年収の38年分」
という話があります。

同様に、
世界で3人に1人は戦時下に暮らし、
世界の人口の70%以上は電話を使ったことがなく、
世界の5人に1人は1日100円未満で生活しています。
はたして世界は豊かになったのでしょうか。

世界標準というのなら、世界の家計の年間所得は、日本円で60万円未満です。
日本にいて、世界をグローバル化したいという人たちがいます。
彼らは日本人の平均世帯所得を、世界標準にしたいのでしょうか。

日本国内が、それに近い状態になったことが、かつてありました。
江戸時代の文化文政年間のことです。
よく時代劇に出てくる、江戸がまさに江戸そのものであった、そんな時代です。

当時の日本の人口は2500万人。
そして江戸の人工が250万人でした。
つまり人口の10分の1が、江戸に集中していました。

当時の江戸は、経済的にもたいへんに恵まれたところで、当時の日本のGDPのおよそ5割が江戸に集中していたといわれています。
このため農村部の疲弊ははなはだしく、農地は次々と担保にとられていきました。
食べていかれないから、農地を質入れしてお金を得るのです。
けれど、一時的にお金を得ても、それはすぐに失われてしまう。
結果、農地さえも手放すことになってしまう。

質流れで農地を失った農家、あるいは、もう食べて行かれないからと、逃散といって農地を捨てて別な土地に移ってしまう者たちが、世の中にあふれるようになりました。
江戸の庶民が好景気を満喫する一方で、農村部には深刻な貧困が襲ったのです。

この状況下で、14歳で両親を失ってしまった少年がいました。
名を二宮金次郎と言います。
金次郎少年は、一生懸命勉強に励むと同時に、残った猫の額ほどの土地を一生懸命に耕し、22歳までに、親が失った農地を、全部買い戻してしまいました。

このことを好感した小田原のお殿様の大久保忠真(おおくぼ ただざね)が彼を表彰し、さらに名主待遇を彼に与えて、大久保家の分家の下野国芳賀郡桜町(いまの茨城県真岡市)に向かわせました。
桜町は水害に襲われて、村が壊滅状態だったのです。
藩は、そんな村人たちに生活保護のための禄を与えていましたが、農地を失い気力の失せた村人たちは、せっかくの禄を博打に使ってしまうような有様でした。

そんな気力の失せた村に、二宮金次郎は、復興支援のために派遣されました。
ところが、当時の日本人の平均身長は、男が150センチ、女が140センチです。
これに対し、金次郎は身長180センチ、体重が94キロもありました。
つまり、いまの時代でいうなら、気力の失せた小学生のもとに、髭面で巨漢の先生がやってきたわけです。

先生はやるき満々です。
だから、村人たちに次々に適格な指示を与えました。
そんな熱血先生のもとで村人たちが一年奮起して・・・と、現実は映画やドラマのようにはいきません。

地元の農家のみなさんからすれば、ひどく暑苦しい人物がいきなりやってきて、次々と命令をするのです。
いいかげん、うるさいし、面倒くさい。
結果、村人達は、誰も金次郎の話を聞かないし、命令も無視されます。

一方、金次郎にとっては、村の復興こそが藩命です。
急ぐ金次郎は、他の村から人手を集めてきて農地の復興を図ろうとしました。
これには村人たちがびっくりしました。
そしてますます村人たちの気持ちが金次郎から離れていきました。

水害で崩壊した田畑をもとに戻すのは、ひとりでできる仕事ではありません。
そこにはどうしても村人たちの一致協力が必要です。
けれど、いちど離れてしまった気持ちは、なかなかもとにもどるものではありません。

金次郎は困りました。
殿様には、900石だった桜町を、2000石にすると、明言してしまっているのです。
けれど村人たちは動かない。

困りきった金次郎がどうしたかというと、逃げ出しました。
逃げたというと聞こえは悪いですが、成田山に修行に入るのです。
はじめは水行などの荒行に挑戦しました。
けれど、迷いが晴れない。
そこでついに金次郎は、3週間の断食行を行いました。

はじめての断食で、いきなり三週間というのは、強烈にキツイものです。
断食も三週間になると、二つ向こうの部屋の話し声がわかるようになるし、鳥や虫たちの会話が聞き取れるようになる。
つまり、それだけ激しい修行なのです。
けれどこの断食行で、金次郎は、あるひとつの事柄に気付きます。

金次郎は、再び桜町に戻りました。
そこであらためて村人たちに集まってもらいました。
そして今度は村人たちの前で土下座をして、なんとしても一緒に田畑を取り戻し、みんなで豊かな生活を築きたいのだと、切々と訴えました。
村人たちも、げっそりやつれた金次郎のその必死の姿に、ひとり、またひとりと、
「わかっただ。オラたち、やるだ」と納得してくれました。

納得の輪は、その日から広がりました。
そして桜町の村人たちは変わりました。
みんなで一致協力、力をあわせて村の復興を行うようになったのです。
そして数年後には、石高は、なんと3000石にまで成長しました。

こうなると、村は豊かですから、米の買付商人が来ても強気です。
いままでは、お金もお米もないから、言いなりに値切られてきましたが、いまではもう、すっかり生活に余裕がある。
そうなると、気に入らなければ米を売らなければ良い。
一方、商人たちは、是が非でも米を買付なければ、商売になりません。
こうして商人と農民たちの力関係が変わり、高値で米を売れるようになった村は、ものすごく豊かになりました。

桜町の復興支援に成功した金次郎は、その後、日本中引っ張りだこで、農業の指導をしてまわることになりました。
幕府はそんな金次郎に、「尊徳」という名前を与えました。
こうして二宮尊徳の名は、全国にひびくものとなりました。

さて、以上は、巷間よく言われる物語です。
けれど実は、お話にはこの先があるのです。
金次郎の指導は、ひとことでいえば「積小為大(せきしょういだい)」です。
これは、小さなことの積み重ねが、積もり積もって偉大な事業を為すという思想です。
二宮金次郎の報徳思想とも呼ばれています。

そしてこの思想のもとに、日々の農業に精を出すことによって、実は、日本中の農家が、この後、とても豊かになっていくのです。

幕末戊辰戦争は、我が国の歴史上初めて、農民兵が専業武士団をしのいだ戦いです。
その背景には、豊かになった農村の若者たちの、新たに編成された陸軍兵としての大活躍があります。
これは、幕府軍、新政府軍、どちらにも共通していえることです。

そして明治以降になると、日清日露戦争で活躍した陸海軍を支えたのは、やはり勇敢で教養のある農民兵たちでした。
大東亜戦争は、日本の敗戦でしたが、日本陸軍630万の兵力のうち、南方の島嶼防衛に当たったのは、このうちのたった27万人です。
その27万人を米軍の主力の110万人が攻め落としたわけですが、終戦時点で我が国には、まだ600万の農民兵によって構成された陸軍兵力が温存されていました。

この陸軍兵たちは、外地から帰ると、村に戻り、そこで日本復興の柱となる食料の生産に精を出しました。
また都会に残った者たちは、焼け野原となった町並みの復興を率先して行いました。
結果、我が国は、終戦後、わずか数年で、見事に町並みを復興させています。

さらに町並みの復興のあとは、経済力の強化です。
そのために農村部の若者たちが、集団就職列車に乗って都会へと向かい、そこで工場の働き手となりました。
こうして日本は経済的にも復興していくことになります。

つまりそれらの背景には、「大家族を養うことができる豊かな農村」の存在が合ったことが、実は、きわめて重要なファクターになっていたのです。
このように申し上げると、「いやいや農村はみんな貧乏だったのだ」という人、思う人がきっと多いものと思います。
たしかに農村部の生活は、一年365日、昼夜を問わぬ忙しさで、実際に子供時代、そんな農村で暮らした経験のある方なら、そのたいへんさは、肌でお感じになっているものと思います。
土にまみれ、泥だらけになって働く姿は、都市部のこざっぱりと垢抜けした人々から見たら、3Kと思われるかもしれません。

けれど、ほんのちょっとだけ考えていただきたいのです。
諸外国において、農民は、なるほど最低の生活をする農奴たちです。
その様子は、着るものもなく、食事もままならぬ、眠るに布団さえもない、まさに貧困そのものの姿です。
もしかしたら、まだ現代のダンボールhouseに住むホームレスの方が、よほど良い暮らしかもしれない。
それくらい、人の生活を支える食料を生産する、いちばん大切な生産者の姿は、悲惨な姿のものでした。
けれど、日本の農村部は、だれひとり「自分たちは豊かだ」と思っている人はいないけれど、世界の標準から見たら、豪農と呼んだ方が良いくらい、豊かな生活を実現しています。

これが日本の底力だったのです。
残念なことに、戦後、GHQが行った農地解放によって、日本の積年の実績ある農家は、事実上の解体を余儀なくされました。
そして農地は細分化され、農家も核家族化が進行し、いまではすっかり70代ばかりが細々と農業を続けている、そんな状況に至っています。

もちろん、この先、農業のあり方が大きく変化していくことは、あり得ることだと思っています。
工場で大豆を生産し、その大豆を加工して擬似お肉や、疑似野菜を作り出す。
そうすることで、まるでドッグフードやキャットフードのような人間用完全食を作り出し、それによって人々は食に困ることのない新たな世界を築き出すという人もいます。

しかし食には、もうひとつ、楽しく、美味しくいただく、という側面があります。
ただ必要な栄養が取れさえすればよい、というものではないのです。
そして日本は、神話の昔から、人々の「よろこびあふれる楽しい国」を希求し続けてきた国です。
そういう意味で、日本人にとっての農業は、ただ食料を生産しさえすれば良いという以上に、実はもっと重要な意味を持っているということができます。

ともあれ、両親も、田畑さえも失った14歳の二宮金次郎が、たったひとりで猫の額ほどの小さな畑を耕して、菜種をとっていた、その小さな努力が、気がつけば世界最強の軍をつくり、また日本の高度成長を支える原資となった、ということは、あらためて、現代を生きる私達が、考えてみなければならないことであるように思います。

目の前にある小さなことの積み重ねが、世界を変えるのです。
このことは、おそらくAIが進歩した未来社会においても、きっと変わることのない真実であろうと思います。

 

お読みくださり有難うございます。

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