ねずさんのブログよりの転載です。

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世界中、どこの国にあっても、歴史にある王朝は征服と征圧の歴史です。
けれど天然の災害が多発する我が国では、はじめから助け合うこと、民衆こそを大切な宝とすることが、建国の経緯と理念です。
これは素晴らしいことだと思います。

 

紀元祭《橿原神宮》

 

世界中どこの国でも、学校で自分たちの住む国の建国の歴史や建国宣言の内容を教えます。
あたりまえのことです。
国があるから学校があるのだし、いざというときの行政サービスも受けることができるのです。
国は自分たちの所属する共同体そのものなのですから、その国の建国の歴史や経緯、また建国の理念などを教えることは、国家として当然のことでもあります。
 
チャイナやコリアのように、たとえその建国の経緯や理念が荒唐無稽な絵空事であっても、彼らは彼らなりに、最低限の建国の歴史や経緯や理念をしっかりと学校で教えています。
もちろん米国でも建国の歴史や理念を教えます。
なるほど米国の独立宣言を諳(そら)んじることができる人は少ないかもしれないけれど、米国が独立戦争を行ったこと、その独立戦争に勝利して独立宣言を行ったという事実は、米国人なら誰でも知っていることです。
米国人でなくても、日本人でも常識として知っていることです。
 
世界にはオリンピックに参加する国が206ヶ国ありますが、そのどの国においても建国の歴史や建国宣言の内容を教えます。
しかし戦後教育を受けてきた日本人で、日本建国の経緯や歴史、あるいは建国の詔(みことのり)を学校で教わった記憶を持つ方はいるのでしょうか。
 
日本は教育を憲法で義務化している国です。
国家の行政機関として文部科学省もあります。
日本という国があるから憲法があり文部科学省もあるのです。
ところが憲法で義務化している小中学校で我が国の建国の経緯や理念、あるいは建国宣言を、その文部科学省の所轄する小中の学習指導要項に教えなさいという記述はどこにもありません。
教科書にも書かれていません。
それは、文科省とはいったいどこの国の教育監督庁なのかと思ってしまうほどです。
 
さらに教育関係者のなかには、日本は戦後に大日本帝国から日本国という「別な国」になったのだと言う人も居ます。
さらには建国者である神武天皇の存在そのものを否定したり、あるいは建国の理念にまで出鱈目を吹聴している人さえもいます。
かなしいことだと思います。
 
そこで神武天皇の建国の詔(みことのり)がどのようなものであったのか。
これを日本書紀に書かれた原文からちゃんと読んでみたいと思います。
原文と読み下し文を掲載します。もし周囲の環境が許すなら、ぜひ、声に出して読んでみていただければと思います。
 
●原文と読み下し
《建国の詔(みことのり)》
自我東征       われひむかしを うちてより
於茲六年矣      ここにむとせに なりにたり
頼以皇天之威     すめらきあめの いをたのみ
凶徒就戮       あたうつために おもむかむ
雖辺土未清      ほとりのくには きよまらず
余妖尚梗       のこるわざわひ ふさげども
而中洲之地無復風塵  うちつくにには さわぎなし
誠宜恢廓皇都     まごころこめて おほいなる
規摹大壮       ひらきひろめる みやこをつくる
 
而今運屬屯蒙     いまはこびたる わかきくら
民心朴素       たみのこころは すなほにて
巣棲穴住習俗惟常   あなをすとして すむあるも
夫大人立制      ひじりののりを そこにたて
義必隨時       つねにことわり したがへば
苟有利民       いみじきたみに りのあるに
何妨聖造       ひじりのわざに さまたげもなし
 
且當披拂山林     やまやはやしを はらひては
経営宮室       みややむろやを をさめつつ
而恭臨宝位      たからのくらひ つつしみて
以鎮元元       おほきもとひを もってしずまん
 
上則答乾霊      かみはすなはち そらのかみ
授国之徳       さずけたまひし とくのくに
下則弘皇孫      しもにやしなふ すめみまの
養正之心       ただしきこころ やしなわむ
然後         しかるのちには むつあわせ
兼六合以開都     みやこひらきて はちこうを
掩八紘而為宇     おほひていへと なしゆかむ
不亦可乎観夫     またよからずや それみるは
畝傍山東南      うねひのやまの たつみかた 
橿原地者蓋国之墺区乎 かしはらのちは くにのなか
可治之        このちにおひて くにしらしまむ
 
●現代語訳
 月日の経つのは早いものであの東征からもはや六年の歳月が流れました。
 その間に神々にご加護いただき凶徒も滅ぼすことができました。まだまだ周辺には妖しい者が道をふさぐことがありますが、国の内にはもはや騒動もありません。
 そこで真心をこめておおいなる都を築造します。いまそのための労作業をしている若者たちをはじめ、我が国のすべての民衆の心は、とても朴素(すなお)です。もちろんまだ稲作をしないで竪穴式住居に住んで狩猟採集だけで生活をしている人たちありますが、そうした人たちを含めて、民衆が豊かに安全に安心して暮らせるよう、大人としての制(のり)を立て、正しい道(義)に従って必ず聖なる行いをしていくことに、果たして何の妨(さまた)げがあるというのでしょうか。
 そのために山や林を伐(き)り拓(ひら)いて民衆のために公正を尽くす都を築きます。そして恭(つつし)んで宝位(たからのくらい)に昇(のぼ)りましょう。そうして、大昔から続く元々(もともと)からの人々が生きていく上で大切なことで、国を鎮(しづ)めていきましょう。なぜなら我が国は、もともと天の神から授(さず)けられた徳の国です。みんなで正しい心を養(やしな)って行きましょう。
 いま天地東西南北のための都を築造しています。その都を四方八方を覆(おお)う大きな屋根に見立てて、みんながその屋根の下で暮らす家族のように助け合って生きていくことができる国を築いて行きましょう。畝傍山の東南にある橿原の地で国を覆い、民衆を「たから」とする国を築いて行きましょう。

 はじめに「東征より六年を経た」とあります。「征」の字が後年征服とか征伐などと使われるようになったため、あたかも神武天皇が大軍を率いて宮崎を出発して、ついに畿内にまで進出して畿内に軍事王朝を築いたかのように解釈する方が多いのですが、これはチャイナの歴史と日本の歴史を混同した誤った読み方です。
なぜなら、「征」という字の訓読みは「正しきを行う」だからです。
従って「東征」とは、「正しいことを行うために東に向かった」といった意味になります。
もちろん「凶徒就戮《あたうつために おもむかむ》」とありますから、軍事的侵攻がひとつの目的であったことも事実です。その目的《ないしは理由》は、日本書紀には明確に書かれています。
 
 どういうことかというと、そもそも高天原からの天孫降臨は、九州の宮崎への瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)だけでにあったことではないと日本書紀は書いているのです。畿内には饒速日命(にぎはやひのみこと)という、これまた天照大御神の孫が天孫降臨してきていたのです。ところがその末裔(まつえい)となる長髄彦(ながすねひこ)は、みずからが天孫の曽孫であることを重視するあまり民の暮らしをかえりみず、そのため畿内は村落同士の争いと収奪に明け暮れてしまっていて、多くの民衆が飢えに苦しむ有様となっていることが、塩土老翁(しほつちのおきな)によって神武天皇のもとに情報がもたらされるのです。
 
「これはいけない」とお考えになられた神武天皇は、兄たちと「東に向かいたい」と話し合います。
その兄たちというのは長男が五瀬命(いつせのみこと)、次男が稲飯命(いないのみこと)、三男が三毛入野命(みけいりのみこと)、そして四男が後の神武天皇となる神日本磐余彦尊(かむやまといはれひこのみこと)です。
これらのお名前はすべて諡号(おくりな)と言って、お亡くなりになった後に付けられたお名前です。
五瀬命(いつせのみこと)は、五穀(ごこく)と浅瀬《つまり水田》を意味し、
稲飯命(いないのみこと)は、そのまま稲作による食事を、
三毛入野命(みけいりのみこと)は、ミケが食料のことです。
そして神日本磐余彦(かむやまといはれひこ)は、日本の岩を取り除くというお名前です。
つまり誰もが誰もが飢えることがない世の中にするために、稲作を普及し、そのために悪いものを取り除くために「東に向かおう」とされたわけです。
 
そして福岡、広島、岡山に長く逗留(とうりゅう)し、そこで稲作を指導し、誰からも喜ばれて、いよいよ畿内に進みます。
ところがそこでいきなり長髄彦(ながすねひこ)による急襲を受けてしまうのです。
 
けれど、いくら襲撃を受けたからといって、相手もまた日の御子(ひのみこ)《=天照大御神の直系の子孫》です。
だから「日に向かって戦うのはよくない」と、一行は船に戻って、紀伊半島を南下します。
ところがその途中で長男の五瀬命(いつせのみこと)は手傷が元でお亡くなりになってしまうし、船が熊野灘に至ったときには、大しけに遭って、次男の稲飯命(いないのみこと)、三男の三毛入野命(みけいりのみこと)が相次いで亡くなり、しかも嵐のために船に乗せてあったお米《食料》も全部海に流されてしまったのみならず、部下たちが全員、病に倒れてしまうのです。
つまり、もうどうにもならないところにまで、追い詰められてしまうのです。
 
しかしそういうときにこそ新しい展開が待っているというのが、日本古来の考え方です。
困った一行のもとに、高倉下(たかくらじ)が現れて、食料を提供してくれ、しかも神々の御意思ですと、韴霊(ふつみたま)の剣(つるぎ)を授かるのです。
剣は戦いのための道具です。
その剣を神々から授かったということは、たとえ相手が日の御子であったとしても、それがすでに民にとって悪であるならば、断固戦えということが神々の御意思だということです。
 
さらに神々から遣(つか)わされた八咫烏(やたがらす)の後を付いて行くと、次々と味方が現れ、ついにそれは軍となって、ついに神武天皇の一行は、長髄彦(ながすねひこ)の大軍を打ち破るのです。
神武天皇の前に引き出された長髄彦は、あくまで自分は神の子であり、自分が生きることが大切だという意見を捨てようとしない。
このため神武天皇は、やむなく長髄彦を殺し、長髄彦の師(ひき)いていた人たちをすべて天皇のもとに帰順させました。この者たちが古代における最大の氏族である物部(もののべ)氏の祖先であると日本書紀は書いています。
 
要するに日の御子の存在は、どこまでも民衆が安心して暮らせるためにこそあるという神武天皇の姿勢に対し、長髄彦は、天人の子である日の御子の存在そのものが大事であって、民衆はその下に位置するものという考えを捨てようとしなかった、だから殺すしかなかったのだ、と日本書紀は書いているのです。
 
このことを日本書紀は「不可教以天人之際」と書いています。
「天の神と、人の際(きわ)をいくら教えても理解しなかった」という意味です。
このことは、日本における天皇のご存在と、諸外国の王朝のあり方の大きな違いでもあります。
歴史に登場する諸外国の王は、チャイナなら天帝から天命を授かった皇帝であるし、西欧なら神から王権を授かった者です。
そして皇帝や王の命令は、そのまま神の声ですから絶対のものとされ、皇帝や王だけが贅沢な暮らしをして、民衆は単に王や皇帝の所有物にすぎないというのが、世界の歴史です。
けれど日本における天皇は、初代神武天皇の時代から、民衆の幸せこそが大事なのであって、日の御子としての霊統は、そのためにこそ存在する、これこそが神々の御意思であるという考え方です。
このことが初代神武天皇と長髄彦のやり取りの中で明らかにされているのです。
それが建国の詔(みことのり)にある「苟有利民(いみじくもたみにりあるとき)」の意味です。
 
この戦いのあと、神武天皇は橿原の地に「皇都(みやこ)」を造ります。
漢字の意味は「都」が「人々が集いくつろくところ」で、「皇」が「王の上に立つ人」ですから、「皇都」と書けば、天皇がおわす大都市といった意味になります。
けれども我々日本人は、「都」と書いて「みやこ」と読みます。
そして「みや」は、大切なところ、「こ」は倉庫やお蔵(くら)のことを言います。
つまり、大切なお米の全国的な管理をするところが、「みやこ」です。
これを神武天皇は「皇都」とされたのです。
「而今運屬屯蒙《いまはこびたる わかきくら》」というのは、その「みやこ」のお蔵にお米を運び込む人々のことです。
 
なぜお米なのかといえば、答えは明確です。
冷蔵庫がなかった時代に、年を越えた長期の保管ができる食料は、お米だけだったからです。
日本は天然の災害が多発する国です。
毎年台風はやってくるし、何年かおきには必ず大地震がやってきます。
そうした国柄にあって、人々が互いに奪い合い、憎しみ合うことはおろかなことです。
それよりも「夫大人立制、義必隨時」、つまりみんなが大人になって道理に従う、もっと詰めて言えば、平素からみんなでお米を作って蓄えて、いざ災害というときに備える。
 
幸いなことに我が国は、毎年天然の災害がやってくるとはいえ、それは必ず地域限定で起こります。
つまり災害に遭う地域もあれば、遭わない地域もある。
日頃からみんなでお米を備蓄していれば、災害に遭った地域に、災害に遭わなかった地域からお米を融通することができます。
そしてそれを行うためには、中央にちゃんとした中央管理機構としての「みやこ」が必要になるのです。
 
こうすることで、日本全国、どこで災害がおきても、地域を越えた助け合いで、みんなが決して飢えることなく、安心して生き残ることができる。
これが我が国の建国の経緯と理念です。
 
世界中、どこの国にあっても、歴史にある王朝は征服と征圧の歴史です。
けれど天然の災害が多発する我が国では、はじめから助け合うこと、民衆こそを大切な宝とすることが、建国の経緯と理念です。
これは素晴らしいことだと思います。