ねずさんのブログよりの転載です。

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この歌が詠まれた「後岡本宮馭宇天皇七年」というのは、斉明天皇7年、つまり西暦661年のことです。日本人の心、そして天皇の大御心は、1400年前の昔も今も、ずっと変わっていないのです。

 

 

熟田津(にぎたづ)に 船乗りせむと 月待(つきまて)ば
 潮(しほ)もかなひぬ 今はこぎいでな
 
この歌は百済有事による朝鮮出兵に際して、額田王が詠んだ歌として、学校の教科書でも数多く紹介されている歌です。
万葉集を代表する一首といえるかもしれないし、美人と言われる額田王を代表する和歌ともいえるかもしれない。
歌の解釈にあたっては、初句の「熟田津(にぎたづ)」がどこの場所なのかが議論になったりもします。
それほどまでに有名な和歌といえます。
 
けれど、そうした見方は、実は、この歌の本質を見誤らせようとするものでしかありません。
どういうことかというと、この歌の原文は次のように書かれています。
 
【歌】熟田津尓 船乗世武登 月待者
   潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
 
【補記】右検山上憶良大夫 類聚歌林曰 飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑九年丁酉十二月己巳朔壬午天皇 大后幸于伊豫湯宮後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬 寅御船西征始就于海路 庚戌 御船泊于伊豫熟田津石湯行宮  天皇御覧昔日猶存之物。当時忽起感愛之情所以因製歌詠為之 哀傷也 即此歌者天皇御製焉 但額田王歌者別有四首。
 
現代語訳すると次のようになります。
特に「補記」のところが重要です。
 
【歌】
熟田津尓   篝火の焚かれた田んぼのわきの船着き場に
船乗世武登  出征の乗船のために兵士たちが集まっている
月待者    出発の午前二時の月が上るのを待っていると
潮毛可奈比沼 潮の按配も兵たちの支度もいまは整った
今者許藝乞菜 さあ、いま漕ぎ出そう
 
【補記】
右の歌は、山上憶良大夫の類聚歌林(るいしゅかりん)で検(しらべ)てみると、この歌は第三十七代斉明天皇が詠まれた歌であって、このたびの伊予の宿所が、かつて夫である第三十四代舒明天皇とご一緒に行幸された昔日(せきじつ)のままであることに感愛の情を起されて、哀傷されて詠まれた歌であると書かれています。つまりこの歌は、本当は斉明天皇が詠まれた御製で、額田王の歌は他に四首があります。
 
要するにこの歌は、実は女性の天皇であられる第37代斉明天皇(さいめいてんのう)が読まれた御製だと万葉集に補記されているのです。
つまり本当は、額田王が詠んだ歌ではない。
しかもこの歌は「出征兵士を送る歌」などではなく、「哀傷歌」であると書かれています。
 
「哀傷歌」というのは、哀しみの歌です。
どういうことかというと、歌の場所となっている「熟田津」とは、田んぼの中にある水路の横で炊かれた松明(たいまつ)のことを言いますが、その歌われた場所は、今の四国・松山の道後温泉のあたりであったとされています。
 
昔日(せきじつ)のある日、後に皇極天皇となられた宝皇后(たからのおほきさき)は、夫の舒明天皇(じょめいてんのう)とともに、(おそらく)道後温泉に湯治(とうじ)にやってきたのです。
そのときは、まさに平和な旅で、大勢の女官たちらとともに、明るく皆で笑い合いながらの楽しい旅であったし、地元の人たちにも本当によくしていただくことができた。
誰もが平和で豊かな日々を満喫できた、行楽の旅であったわけです。
そしてそれは夫の生前の、楽しい思い出のひとつでもありました。
 
ところがいまこうして同じ場所に立ちながら、自分は大勢の若者たちを、戦地に送り出さなければならない。
あの平穏な日々が崩れ去り、若者たちを苦しい戦場へと向かわせなければならないのです。
もちろん戦いは勝利を期してのものでしょう。
けれども、たとえ戦いに勝ったとしても、大勢の若者たちが傷つき、あるいは命を失い、その家族の者たちにとってもつらい日々が待っているのです。
 
それはあまりに哀しいことです。
だからこの歌は、哀傷歌です。
 
けれど、時は出征のときです。
若者たちの心を鼓舞しなければならないことも十分に承知しています。
だから皇極天皇は、そばにいる、日頃から信頼している額田王に、
「この歌は、おまえが詠んだことにしておくれ」
と、この歌をそっと手渡したのです。
 
これが日本の国柄です。
平和を愛し、戦いを望まず、日々の平穏をこそ幸せと想う。
そして「私が詠んだ」という「俺が私が」という精神ではなくて、どこまでも信頼のもとに自分自身を無にする。
そのような陛下を、ずっと古代からいただき続けているのが日本です。
 
この歌が詠まれた「後岡本宮馭宇天皇七年」というのは、斉明天皇7年、つまり西暦661年のことです。
いまから1359年の昔です。
日本人の心、そして天皇の大御心は、1400年前の昔も今も、ずっと変わっていないのです。
 
ちなみに初句の「にぎたづに」は、大和言葉で読むならば、「にぎ」は一霊四魂(いちれいしこん)の「和御魂(にぎみたま)」をも意味します。
和御魂(にぎみたま)は、親しみ交わる力です。
本来なら、親しみ交わるべき他国に、いまこうして戦いのために出征しなければならない。
そのことの哀しさもまた、この歌に重ねられているのです。
 
ずっと後の世になりますが、第一次世界大戦は、ヨーロッパが激戦地となりました。
このため、ヨーロッパの重工業が途絶え、その分の注文が、同程度の技術を持つ日本に殺到しました。
日本は未曾有の大好景気となり、モダンガール、モダンボーイが街を歩く、まさに大正デモクラシーとなりました。
 
戦争が終わったのが1918年の出来事です。
ところがその5年後の1923年には関東大震災が起こり、日本の首都圏の産業が壊滅。
さらに凶作が続いて東北地方で飢饉が起こり、たまりかねた陸軍の青年将校たちが226事件を起こしたのが1936年。
そしてその翌1937年には、通州事件が起こり、支那事変が勃発しています。
日本国内は戦時体制となり、現代の原宿を歩いていてもまったくおかしくないような最先端のファッションに身を包んだモダンガールたちは、モンペに防空頭巾姿、男たちが国民服になるまで、第一次世界大戦からわずか20年です。
 
そして終戦直後には、住むに家なく、食うものもなし、それどころか着るものもない、という状況に至りました。
けれどそのわずか19年後には、日本は東京オリンピックを開催しています。
 
20年という歳月は、天国を地獄に、地獄を天国に変えることができる歳月でもあります。
そして時代が変わるときは、またたくまに世の中が動いていく。
コロナショックで、まさにいま、日本は激動の時代にあります。
 
けれど、どんなときでも、陛下の大御心を思い、勇気を持って前に進むとき、そこに本来の日本の姿があります。
勝つとか負けるとかいうこと以上に、私たち日本人にとって大切なものが、そこにあります。