この発言、波紋を広げようとしている輩がいます・・・

 

ねずさんのブログよりの転載です。

https://nezu3344.com/blog-entry-4532.html#comment65259

 

アイデンティティとは、国民精神のことです。
いまの日本に元気がないのは、日本人が国民精神を失っているからです。
政治も同じです。
コロナで国の経済がたいへんなときに、やれ検察庁の役人の定年がどうのこうのと、愚にもつかない議論で国会が空転するのも、持続化給付金の支給事務の一切が、なぜか畑違いの電通に全部委託されるのも、日本人が「国民精神」を失っているからです。 

 

 

ときは明治の初め頃です。
福岡のいまの博多駅のあたりに、「興志塾」という漢学の私塾がありました。
このあたりに、昔、福岡藩の「薬用にんじん畑」があったことから、塾は、通称「にんじん畑塾」と呼ばれていました。
 
この「にんじん畑塾」は、全国の寺子屋を追い出されたような、ひとことでいえばできの悪い子供たちを預かって全寮制で教育を施していた塾なのですが、ところがこの塾は次々とものすごい人材を輩出しました。
並べてみれば、頭山満に平岡浩太郎、進藤喜平太、箱田六輔、武部小四郎など、まさに明治の「男塾」ともいえる塾だったのです。
 
塾が開設されたのは明治6(1873)年のことです。
開設者であり塾長であったのは、高場乱子(たかばらんこ)という女性です。
この女性が実におもしろい。
中身が「男」なのです。
 
高場乱子は、もともとは福岡藩お抱えの眼科医の娘で、天保2(1831)年の生まれ、つまりれっきとしたお武家さんの家の娘です。
ご存知のように、武家は家督を相続しなければなりません。
けれど、女の子しか生まれなかった高場家では、お乱ちゃんを、幼いころから男として育てたのです。
まるで『ベルサイユのばら』のオスカルのような話ですが、こちらは事実です。
 
男の子としての躾(しつ)け、男の子としての教育です。
だから10歳のときには元服の儀式も行っています。
元服は、本来男の子の儀式です。
子供時代の髪型を改めて、氏神様の御前でもとどり(ちょんまげ)を結い、烏帽子(えぼし)を被(かぶ)り、それまでの幼名を廃して元服名(諱=いみな)を新たに付けます。
そして元服すると、以後、成人男子として扱われました。
奈良時代から脈々と続く日本の伝統儀式です。
 
成人する儀式は、女子にもあります。
女子は生理がはじまり、心身ともに大人として成長すると、地味な着物を着、髪を丸髷に結い、化粧をして引眉します。
こうした女子の儀式は、いまでも祇園の舞妓や島原の太夫などの花街に残っています。
 
昔の日本を指して「女性は差別されていた」などと書いている教科書が多いですが、古来日本では、男女の役割分担としての「区別」は明確にしていましたが、今風の意味での「差別」はありません。
もちろん「女性蔑視」など、もってのほかです。そんなものはありません。
女性は、子を産み育てる大役を担い、男子はこれを生涯をかけて守り慈(いつく)しむのが日本古来の習いです。
 
要するに、男女はその役割が違うわけで、役割が違うから、違うように育てられたというだけのことです。
ですから言葉も男女で違いました。
これを「役割語(やくわりご)」と言います。
役割語というのは、特定の人物像(年齢・性別・職業・階層・時代・容姿・風貌・性格など)を想起させる特定の言葉遣いのことで、たとえば偉い人や学識者の場合は、「わしは知っておるのじゃ」といった言葉遣いになるし、
「その件ならボクはしっているよ」といえば少年。
「それなら俺が知ってるぜ」なら若い男性、
「そのこと、あたし知ってるわ」なら若い女性、
「そうですわ。そのことなら、わたしが存じておりますわよ」となれば年配の女性というようになります。
 
役割語が用いられるのは、役割を果たすこと、つまり責任を持つということに由来します。
役割によって、責任の在り方も違うわけで、それは差別などとというものとは、ぜんぜんかけはなれたものです。
そもそも差別などという現代用語は、欧州で生まれた共産主義の階級闘争史観からくる妄想でしかないものです。
 
さて高場乱子ですが、彼女は、男装し、帯刀する元服を行ないました。
女性であっても、家督を継ぐ者だからです。
この元服の儀によって、高場乱子は、幼名の「養命(よめ)」を捨てて、以後は「乱(おさむ)」と名乗りました。
通称は小刀(しょうとう)です。
乱と書いて「おさむ」だったりします。
 
数え年10歳で元服して成人となった乱は、数え年16歳で結婚するのですが、短期間で離婚してしまいました。
理由は、「夫が軟弱に見えたから」といわれています。
 
その後、乱は20歳の時に亀井昭陽の亀井塾に入門しました。
亀井塾は私塾で、これまたおもしろい塾で、この塾の卒業生で有名な人物に原采蘋(はら さいひん)がいます。
この人も女性で、儒学者、詩人として江戸後期に名声を博した人ですが、常に男装し帯刀していたといいます。
しかも女性、学問だけでなく武術にも優れ、しかもとびきりの美人。
しかも無類の酒好きで、性格は磊落でくったくがなく、誰からも好かれたといいます。
 
こうした女性を生んだ亀井塾は、高場乱子にとっても、たいへん居心地の良い塾だったようです。
彼女は、この亀井塾の高弟となり、家業の眼科医を営みながら、ずっと塾の面倒を見続けました。
その乱が独立したのは、明治6(1873)年、彼女が42歳のときでした。
こうして通称「にんじん畑塾」と呼ばれた、私塾「興志塾」が設立されたわけです。
「興志塾」の塾長当時の乱の普段の様子が、これまた面白いです。
まず髪型は、男髪の総髪。
着物も男着物で、馬乗袴(うまのりばかま)に日本刀を腰に差し、馬にまたがり、いのち知らずの門下生をぞろぞろと従えて福岡市内を闊歩したのだそうです。
 
この時代、まだ明治がはじまったばかりで、市中には、まだ浪士たちが二本差で、喧嘩をして人を斬ることがあたりまえにあった時代です。
そんな時代の中にあって、乱は小柄でしわくちゃの婆さんだった(本にはそのように書いてある)のだけれど、世の不良生徒や暴れん坊のヤクザ者、流れ者の浪人者までもが、あの婆さんにゃかなわねえと、一目も二目も置かれていたそうです。
 
その乱の性格の影響もあったのでしょう。
興志塾には、不思議と暴れん坊の子供達が集まり、乱もまたそうした侠気の強い元気な子供達を可愛がりました。
要するに、恐ろしい不良少年ばかりが預けられて全寮制で教育を受ける塾が、興志塾だったわけで、おかげでついたあだ名が「梁山泊」です。
 
さて、この塾の開所当時の生徒の中に、奈良原至(ならはらいたる)という男がいました。
奈良原至は、後年玄洋社随一の豪傑と謳われた巨人です。
この奈良原至が、当時の塾を振り返った文章があります。
おもしろいので、ちょっとご紹介します。
 
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にんじん畑の婆さんの処にゴロゴロしている書生どもは、皆、順繰りに掃除や、飯たきや、買物のお使いにつかわされた。
しかしワシはまだ子供で飯が炊けんじゃったけに、イツモ走り使いに追い回されたものじゃった。
その当時から婆さんの門下というと、福岡の町は皆ビクビクして恐ろしがっておった。
 
ワシの同門に松浦愚(おろか)という少年がおった。
こいつは学問はいっこうに出来ん奴じゃったが、名前の通り愚直一点張りで、勤王の大義だけはチャント心得ておった。
 
この松浦愚(おろか)とワシは大の仲好しで、二人で醤油買いに行くのに、わざと二本の太い荒縄で樽(たる)を釣下げて、その二本の縄の端を左右に長々と二人で引っぱって樽をブランブランさせながら、往来いっぱいになって行くと、往来の町人でも肥料車(こえぐるま)でも皆、恐ろしがって片わきに小さくなって行く。
なかなか面白いので二人とも醤油買いをひとつの楽しみにしていた。
あるとき、その醤油買いの帰りに博多の櫛田(くしだ)神社の前を通ると、社内にいっぱい人だかりがしている。
何事かと思って覗いてみると、もったいらしい衣冠束帯をした櫛田神社の宮司が拝殿の上に立って、長い髯(ひげ)を撫でながら演説している。
 
その頃は演説というと、芝居や見世物よりも珍しがって、演説の出来る人間を非常に尊敬しておった時代じゃけに、早速二人とも見物を押しかけて一番前に出て傾聴した。
 
ところがその髯神主(ひげかんぬし)の演説にいわく、
「諸君、王政維新以来、
 敬神の思想が地を払って来たことは
 実にこの通りである。
 真に慨嘆に堪えない現状と云わなければならぬ。
 
 諸君、牢記(ろうき)して忘るるなかれ。
 神様というものは、常に吾が○○以上に
 尊敬せねばならぬものである。
 その実例は日本外史をひもといてみれば直ぐにわかる事である。
 
 遠く元弘三年の昔、
 九州随一の勤王家、菊池武時は、
 逆臣北条探題、少弐(しょうに)大友等三千の大軍を
 一戦に蹴ちらかさんと、手勢150騎をひっさげて
 この櫛田神社の社前を横切った。
 
 ところがこの戦いが
 菊池軍に不利であることを示し給う神慮のために、
 武時の乗馬が鳥居の前で俄《にわ》かに四足を突張って後退し始めた。
 すると、あせりにあせっている菊池武時は
 憤然として馬上のまま弓に鏑矢(かぶらや)をつがえ、
 
 『この神様は牛か馬か。
  皇室のために決戦に行く俺の心がわからんのか。
  武士(もののふ)のうわ矢のかぶら
  ひとすじに思ひ切るとは 神は知らずや」
 
 と吟ずるや否や、
 神殿の扉に発矢(はっし)とばかり二本の矢を射かけた。
 トタンに馬が馳け出したのでそのまま戦場に向ったが、
 もしこの時に武時が馬から降りて、
 神前に幸運を祈ったならば、
 彼は戦いに勝ったであろうものを、
 かような無礼を働らいて神慮を無視したために
 勤王の義兵でありながら一敗地にまみれた」
 
衣冠束帯の神主が得意然とここまでしゃべって来た時に、ワシと松浦愚の二人はドッチが先か忘れたが、神殿に躍り上っていた。
アッと云う間もなく二人で髭神主(ひげかんぬし)を殴り倒し、蹴倒した。
松浦が片手に提げていた醤油樽で、神主の脳天を食らわせたので、可愛そうに髭神主が醤油の海の中にウームと伸びてしまった。
 
「この賽銭(さいせん)乞食の奴、
 神様の広告のために途方もない事をぬかす。
 皇室あっての神様ではないか。
 そういう貴様が神威をけがし、
 国体を誤る国賊ではないか」
というたような気持であったと思うが、二人ともまだ14か15ぐらいの腕白盛りで、そのような気の利いた事を云い切らんじゃった。
 
ただ、
「この畜生。
 罰(ばち)を当てるなら当ててみよ」
と、割れた醤油樽を御神殿に投込んで、人参畑へ帰って来たが、帰ってからこの話をすると、それは賞(ほ)められたものじゃったぞ。
 
大将の婆さんが涙を流して、「ようしなさった。感心感心」と二人の手をおしいただいて見せるので、塾の連中が皆、金鵄(きんし)勲章でも貰うたように、俺達の手柄を羨ましがったものじゃったぞ。ハハハハハ。
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この奈良原至が取り仕切っていた寮に、奈良原より1年遅れで入塾したのが、頭山満です。
この二人の出会いが、すごいです。
 
飯炊きは苦手と言っていた奈良原少年も、一年も経つとしっかりと炊事当番を勤めるようになるのですが、この奈良原が飯当番になると、塾の連中が長幼を問わず揃って早起をしたのだそうです。
 
暴れん坊の奈良原は、自分が炊いた飯の準備が出来上るまで寝床に潜っている少年がいると、年長者であるなしを問わず「コノヤロー」とばかり、ブスブスと燃えている薪(たきぎ)を掴(つか)んで持って来て、寝ている少年の布団の中に突込んだのだそうです。
これは、起きます。
 
新入生が入塾したある日のこと、いつものように奈良原が飯炊きを終えると、いつまでも布団にくるまって寝ている新入生がいたのだそうです。
ウワサは事前に聞いているだろうに、いい根性してるじゃねえか、とばかり、奈良原は、かねてのお約束の通り、火がついた薪(たきぎ)を手にして、寝ている少年の布団に突っ込んだのです。
 
普通なら、ここで誰しも「あちちっ」とばかり、布団から飛び起きるものです。
ところが、この燃えさしを懐に突込まれた少年、燃えさしが布団の中で燃えてしまうまで、目を開けて黙って奈良原少年の顔をマジマジと見ていました。
 
そして少年は奈良原が消えた薪(まき)を引くと同時に起上ると、ものも言わず奈良原少年をねじ伏せて、ぐっと押さえつけて謝まらせました。
それが頭山満でした。
以来二人は無二の親友になったそうです。
 
この頃の福岡は、新たに登場した薩長の明治新政府と、それに雇われた福岡鎮台の職員である百姓町人兵たち、そういう百姓町人を兵とする薩長閥や鎮台に腹を立てている福岡藩の旧士族たち、それらが互いに反目しあい、毎日のように死人が出るような派手な喧嘩が起こっていました。
 
そんな折りに東京で征韓論に敗れた西郷隆盛が下野してきました。
西郷隆盛が薩摩に戻り一旗揚げるというのです。
西南戦争が起こる1年前、明治9(1876)年のことです。
 
奈良原や松浦愚、頭山満たちは、7つ年上で同門の進藤喜平太らとともに、まだ少年ながら「健児社」を起こして熊本の壮士たちと合流し、西郷隆盛と一緒になって薩長と戦おうとしました。
 
このときの会合の様子です。
やはり奈良原の述懐です。
 
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現在(大正3年)玄洋社長をやっとる進藤喜平太は、その当時まあだ紅顔の美少年で、女のように静かな、おとなしい男じゃったが、イザとなるとコレ位、底強い、頼もしい男はなかった。
熊本県の壮士と、玄洋社の壮士とが博多東中洲の青柳の二階で懇親会を開いた時に、熊本の壮士の首領で某(なにがし)という名高い、強い男が、頭山の前に腰を卸して無理酒を飲ませようとした。
 
頭山は一滴もイカンので、黙って頭を左右に振るばかりであったが、そこを附け込んだ首領の某(なにがし)がなおも、無理に杯を押付ける。
双方の壮士が互い違いに坐っているので、互いに肩臂(かたひじ)を張って睨み合ったまま、誰も腰を上げ得ずにいる時に、進藤がツカツカと立上って、その首領某の襟首を背後からひっつかむと、杯盤の並んだ上を一気に階段のところまでひきずって来て、向う向きに突き落した。
 
そのあとを見返りもせずにニコニコと笑いながら引返して来て「サア皆、飲み直そう」と云うた時には、大分青くなっておった奴が居たようであったが、その進藤と、頭山満とワシと三人は、並んで県庁の裏の獄舎で木馬責めにかけられた。
 
背中の三角になった木馬に跨《またが》らせられて腰に荒縄を結び、その荒縄にひとつずつ漬物石を結び付けて、ダンダン数を増やすのであったが、頭山も進藤も実に強かった。
石の数を一つでも余計にブラ下げるのが競争のようになって、あらん限り強情を張ったものであった。
 
三人とも腰から下は血のズボンを穿(は)いたようになっているのを、頭山は珍らしそうにキョロキョロ見まわしている。
進藤も石がひとつ増える都度に嬉しそうに眼を細くして、ニコニコして見せるので、意地にも顔を歪める訳に行かん。
 
どうかした拍子に進藤に向って「コラッ。貴様のツラ、歪んどるぞ」と冷やかしてやると、進藤の奴、天井を仰いで「アハアハアハアハ」と高笑いしおったが、後から考えるとソウいうワシの方が弱かったのかも知れんて、ハハハ。
 
とにかく頭山は勿論、進藤という奴もドレ位強い奴かわからんと思うた。
役人どもも呆れておったらしい。
 
それから今一つ感心な事がある。
獄舎にいる間には、おかずに時々、魚が付く。
というても飯の上にイワシの煮たのが並んでいる位の事じゃったが、そのたんびに頭山は箸(はし)の先で上の方の飯を、そのイワシといっしょに払い除けて鼻に押当てて嗅いでみる。
そうしてイヨイヨ飯の生臭くないとこまで来てから喰う。
 
ふつうに食うても足らんところへ、平生大飯ぐらいの頭山が妙な事をすると思うて理由を聞いてみると、今日は死んだ母親何とかの日に当るけに精進をしよるというのじゃ。
それを聞いてから、ワシはいつも飯となると、頭山の横に座ったものじゃがのう。ハハハ。
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この喧嘩がもとで、彼らは警察につかまってしまいます。
そして危険人物として、所轄署から、刑務所に護送されることになりました。
奈良原少年と同じ鎖に繋がれる仲よしの松浦愚少年が、護送の途中、こんな事を云い出しました。
 
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「オイ。奈良原。今度こそ斬られるぞ」
「ウン。斬るつもりらしいのう」
「武士というものは、死ぬる時に、辞世チュウものを詠みはせんか」
「ウン。詠んだ方が立派じゃろう。
 のみならず同志の励みになるものじゃそうな」
 
「貴公は皆の中で一番学問がでけとるけに、
 さぞいくつも詠む事じゃろうのう」
「ウム。今その辞世を作りよるところじゃが」
 
「俺にも一つ作ってくれんか。
 親友の好誼(よしみ)にひとつわけてくれい。
 何も詠まんで死ぬと体裁が悪いけになあ。
 貴公が作ってくれた辞世なら、
 意味はわからんでも信用出来るけになあ。
 ひとつ上等のヤツをわけてくれい。
 是非頼むぞ」
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このやりとりで、さすがの豪傑の奈良原も、松浦少年の無学さが可哀そうなような、可笑しいようなで、胸がいっぱいになりました。
 
さて、ここにご紹介した、高場乱や、奈良原至、頭山満などの物語は、昭和初期の作家夢野久作著「近世快人伝」から引用させていただいたものです。
 
この本では、こうしたひとりひとりのエピソードが、実に軽快に語られています。
ひとりひとりが実に元気が良いのです。
あふれんばかりのエネルギーがありました。
 
なぜ、彼らはそんなに元気がよかったのでしょうか。
 
アイデンティティという言葉があります。
ドイツの心理学者エリクソンが説いた理論です。
アイデンティティは、ひらたく言えば、「自分が自分である証(あかし)」のことを言います。
 
エリクソンはつぎのように述べています。
「アイデンティティが正常に形成されると、
 人は社会的価値やイデオロギーに
 自分の能力を捧げたりする事ができる
 忠誠性を身につけることができ、
 そうした人物は、
 世の中に大きな貢献ができる。
 逆にアイデンティティが正常に形成されないと、
 人は自分のやるべき事が分からないまま日々を過ごし、
 ときに熱狂的なカルトや非行などに傾いてしまう。」
 
昨今では、若者がゲームに熱中するあまり、セックスの最中も携帯でゲームをし続ける者がいるそうですし、優秀で高学歴な若者がオウムのようなカルトに熱狂して殺人まで犯したり、あるいは中高年が単なるファンタジーにすぎない韓流ドラマにはまったりしています。
これらの現象は、まさにアイデンティティが正常に形成されていないことによってもたらされるものといえます。
 
アイデンティティというのは、別な言い方をするなら「国民精神」です。
「にんじん畑塾」の若者たちが、決していわゆる「優等生」ではなかったのに、ひたすら元気が良く、さらに時代を動かす大きな力となることができたのは、彼らに見事なまでの「国民精神」が備わっていたからです。
 
逆に、いまの日本に元気がないのは、日本人が国民精神を失っているからです。
コロナで国の経済がたいへんなときに、やれ検察庁の役人の定年がどうのこうのと、愚にもつかない議論で国会が空転するのもまた、持続化給付金の支給事務の一切が、なぜか畑違いの電通に全部委託されるのも、日本人が「国民精神」を失っているからです。
ならば、いまこそ「国民精神」を取り戻していかなければなりません。
 
実際、電通への委託問題などあり得ないことで、ではどうしてその他の広告屋さんたちに委託がなされていないのか、そもそもシステム的な問題だから委託したというのなら、政府が設立した富士通だって当然候補になり得るはずです。
いくらなんでもキナ臭すぎる。
 
本当に今の政局を見ると、日々、腹の立つことばかりですが、しかし腹を立ててばかりでは、日本は良い方向へと向かうことができません。
同時に変るべき方向がなければならないのです。
 
そして日本を元気にしたいというのなら、この「にんじん畑」の面々の生き様は、まさに「国民精神」がもたらす元気そのものという意味で、ひとつの目安になるものと思います。
 
日本が元気を取り戻す。
その秘訣は、国民精神の再興にあります。