ねずさんのブログよりの転載です。

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正しい価値観が教育によって育成されていなければ、人間は、いかなる劣った習慣であっても、それを作法として受け入れてしまうことがあるのです。
私たち日本人は、日本人としての美意識を失ってはなりません。 

 

 

明らかに屈辱的と、誰もがわかる仕打ちが、長い歳月の間に常識化し、屈辱を受けている側にとって、それが「正しい作法」になってしまうということがあります。
これはある意味、おそろしいことです。
 
そうしたもののひとつに、コリアの「三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)」と呼ばれる礼法があります。
李氏コリア時代から続く半島における伝統的礼法で、彼らの国では、地上における最高の礼とされるものです。
 
少し前に「謝罪の王様」という映画が作られ、なんでもかんでも土下座すれば許してもらえる、その土下座も、額から血が出るほど頭を地面に打ち付けるとなんでも許してもらえるから、謝罪は代理の人が行っても構わないという、明らかに誤った常識をまるで日本人に刷り込もうとでもするような、いかがわしい映画がありました。
この映画、映画そのものは楽しかったし俳優さんたちも上手に演技していたけれど、考え方は、明らかに半島マインドであって、日本人の発想ではありません。
 
「三跪九叩頭」というのは、その「謝罪の王様」の土下座と、額を地面に打ち付け行為を、まさに本物の王様である歴代の李王が行っていたものです。
李氏コリアは、高麗の将軍が自分のところの王を裏切って、チャイナの明国側に寝返って築いた王朝なのですが、このため李氏コリアは、李氏が王であることは認められましたが、その代わり明国からの毎年の定例使者がやってきたときには、まさにこの「三跪九叩頭」を強制されていました。
 
どういう作法かというと、まず、
「跪(き)!」という号令で、ひざまずき、
「一叩(いっこう)、二叩(にこう)、三叩(さんこう)」という号令に従って、
両手を地面について頭を地面に三度打ち付け、
その動作を三度繰り返すというものです。
つまり都合9回、コリアの王がチャイナからの使者の前で、膝をついて頭を地面に9回打ち付けるわけです。
 
客観的にみれば、誰がどう見てもたいへんに侮辱的屈辱的な作法です。
チャイナは、これをコリアの王に強制したし、コリアの王は、そこまで屈辱的な礼を恒例化してまで、チャイナに媚びたわけです。
この礼法はチャイナの王朝が明から清に代わっても引き継がれ、なんと李氏コリアでは500年に渡って、毎年、この屈辱的な「三跪九叩頭」がチャイナの使者の前で繰り返されたのです。
 
なぜチャイナの王朝が、半島の王にここまでの仕打ちを強要したのかといえば、半島に「上下でしか関係を理解することができない」という伝統的思考があるからです。
対等と思われたら、その瞬間にコリアは増長して自分の方が上だと錯覚します。
ですからそのような人たちを相手にするには、常に、「どっちが上なのか」を、誰の眼にも明らかなように見せつける必要があったのです。
言い換えればチャイナは半島と陸続きであるだけに、半島人のあしらい方をよく知っていた、ということです。
 
韓国が、対等なパートナーシップを前提とする日米と共同して北や中共を抑え込まなければならない時期に、なぜ常に真逆の選択が行われたのかといえば、彼らには上下関係しか理解できないからです。
対等は存在しません。
ですからあからさまに、「上」であることを示し、コリアに「下」であることを強要するチャイナは、彼らにとっては親近性があるのです。
 
なぜなら彼らは、「同じ人間であり、対等な隣人」という関係が理解できない。
相手がそういう姿勢を持つならば、彼らは混乱し当惑し、自分たちが上位だと増長を始めるのです。
上下でしかものごとを把握することができない。
 
個人レベルでは、そうでない人もたくさんいますが、国家という集合体は、個人の思惑を超えます。
このことはチャイナも同じです。
個人では、よい人はいくらでもいますが、集団となったときには、もともとの国や民族の性格が出るのです。
つまり集団は、個人の上にあります。
 
日本人は逆です。
集団も個人も対等です。
上に不当を押し付けられたとき、一寸の虫にも五分の魂と考え行動するのが日本人です。
それができるのは、日本人が古来、天皇という国家最高権威によって「おほみたから」としての地位を与えられてきたからです。
これがない世界では、秩序のために上下関係を優先せざるを得ないし、そのことが儒教によって徹底されてきたのがチャイナでありコリアです。
 
ですからこのような屈辱を与えるチャイナの使者に対し、李氏コリア王は、これを「三跪九叩頭」で迎え、夜には半島内で調達された美女を接待役として寝所に献上し、また帰りには「大皇帝様へ」と称して半島美女を性奴隷として献上していました。
「大皇帝様」という言い方は、いまでも「大先生様」というコリア系の人の独特の言い回しです。
 
もっともその韓国系美女を受け入れた側の明、清の側の記録には、こうして献上されたコリア美女が、明国や清国皇帝の皇太子を産んだという記録がみあたりません。
 
神話の時代から続く血統が途絶えてしまっているチャイナでは、皇帝の子でありさえすれば、どんな出自の女性から生まれた子であっても、皇位を継ぐことができました。
ですから、毎年チャイナの王朝の後宮に、お付きを含めて3000人もの半島最高の美女が献上されていれば、歴代続くチャイナ皇帝の中には、前皇帝とコリア系の母との間に生まれた子が皇位を継ぐことがあってもよさそうに思えるのですが、残念ながら、そのような事実は確認できません。
 
要するに献上された半島美女たちは、そんなチャイナにおいてさえ、皇帝の子を宿す機会があまりなかったわけで、しかも献上された美女達のその後の運命についての記録がみられないところをみると、その献上された韓国美女たちが、チャイナでどういう扱いを受け、容姿が衰えてきた後にどういう処遇となったかは、悲しい現実です。
 
李氏コリアの時代というのは、半島に主だった産業がありません。
普通なら、国家から国家への贈り物というのは、学問や産業によって生産された、めずらしい物品や、文化的創造物です。
ところがただ貧しいだけのコリア半島では、女性くらいしかチャイナ皇帝への献上物がなかったし、そのコリアにやってくるチャイナ皇帝の使いに対しては、コリア王みずからが「三跪九叩頭」という卑屈な礼を取るしかなかったというのが、現実の姿です。
 
このような作法を求める方も求める方だと思いますが、伝統的にチャイナの王朝は、コリア族に対しては、常にどちらがはるかに「上」の存在なのかを、こうして毎年の行事にまでしないことには、少しでも油断すれば、すぐに彼らが増長することを、何度も痛いほど経験していたのであろうということが、わかります。
 
ところが、そのような統治が500年も続くと、このような屈辱的な仕打ちが、作法として常識化して定着します。
長い歳月のうちに、誰が見ても卑屈な「三跪九叩頭の礼」が、なんの抵抗もない、むしろその国の伝統的礼法になってしまうのです。
これはたいへん恐ろしいことです。
 
ところが現実に李氏コリアは、米国大統領の前でも、まさにこの「三跪九叩頭の礼」を、なんのためらいもなく行っています。
それが冒頭の絵です。
これは明治16(1883)年9月のことで、この年、李氏コリア王は米国に全権大使を派遣しました。
そしてその全権大使が、まさに米国アーサー大統領公式訪問の際に、この「三跪九叩頭の礼」をとったのです。
 
これは、当時の米国人にとっても、驚くべき惨めな姿であったようで、その様子が新聞でも報道されています。
 
最近、忠臣蔵を題材にした映画やドラマができないと思っていたら、近年「決算忠臣蔵」とかいう映画ができたのだそうです。
DVDになっていますが、どういうつもりでこのようなくだらない映画ができたのかは知りません。
ただ歪んだ人たちから見ると、まともな昔ながらの日本的忠臣蔵は「くさい、嫌味」と見えるのだそうです。
なぜかというと、価値観を押し付けているからなのだそうで、だから本物の面白い映画を作るのだということで、この決算忠臣蔵という、赤穂浪士の義士たちを思い切り笑い者にした下品な映画が作られたのだそうです。
そして不思議なことに、この手の映画やドラマには、それなりにスポンサーがつく。
役者が良ければ、それなりの観客動員もある。
 
しかし思うのです。
世の中、何を言っても良いというものではない。
言論や表現に自由があるとは言っても、そこには根底にその国の人としての文化性が必ずなければならないし、その文化性こそが、まさに国際性を持つし、多くの人々の共感を得るし、新しい時代を築くのだと思うのです。
 
なるほどコマーシャル的には、権威あるものを否定することは認知不協和を引き起こして、一定の社会的評価を引き起こすことは、アリなのかもしれません。
しかし我々日本人は、半島の人たちとは全く異なる文化を築いてきた国柄を持ちます。
それが何かというと、我が国は「権力よりも権威を大切にしてきた」ということです。
半島における武人は、両班による高圧的独善的なものであり、また王は恥ずべき存在でしかなかったかもしれませんが、我が国の武士は民衆のための秩序と文化の担い手であったという歴史を持ちます。
 
正しい価値観が教育によって育成されていなければ、人間は、いかなる劣った習慣であっても、それを作法として受け入れてしまうことがあります。
私たち日本人は、日本人としての美意識を失ってはなりません。