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国際派日本人養成講座よりの転載です。

http://blog.jog-net.jp/201911/article_4.html

 

日系移民がペルー社会を固めた「根っこ」

 

■1.望郷の想い抑えがたく

 1976(昭和51)年、坪井壽美子(すみこ)さんは夫の仕事に同行して、メキシコまで行った。

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 メキシコまでくると、私のふるさとペルーはもうついそこにあった。ペルーを追われてから三十四年、そのとき、込み上げてくる望郷の想い押さえがたく、とうとう私は一人でメキシコからペルーヘ飛ぶことにしたのである。[1, p303]
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 ペルーの首都リマで飛行機を降りると、「私はこのリマで生まれたのよ。私は三十四年ぶりにふるさとへ帰って来た」と誰彼なしに大声で伝えたい衝動に駆られた。とりあえず、都心のホテルに旅装を解くと、近くに母・悦子の従弟である大橋靖彦さんの商店が健在だとフロントで聞き、恐る恐る店を覗いてみた。「悦ちゃんとこの壽美ちゃんかい」と靖彦さんが驚きの声をあげた。

 靖彦さんも戦争中、日本人という理由でアメリカに連行され、収容所で抑留生活を送った。戦後、奥さんと一緒にペルーに戻って来て店を再興したのだった。

 壽美子さんが最も会いたがっていたリマ日本人小学校での同級生カズちゃんの消息を聞くと、靖彦さんはすぐに連絡をとってくれた。カズちゃんも日本人男性と結婚して、三人の子供を持つ親になっていたが、昔のやさしさはそのままだった。


■2.遠い日の思い出

 あくる日、壽美子さんはカズちゃん一家の車で、子供の頃に住んだ家を訪れた。街区の半分も占める大きな、白い高い塀に囲まれたかつての家は、昔の姿のままであった。しかし、朽ちかけた大きな木の扉を開けて中を見た時、広い芝生だった庭には日干しレンガの家がびっしりとひしめき合い、先住民インディオや白人との混血メスティーソ、黒人などが住んでいた。

 大きな家は薄汚れて昔のまま残り、別のペルー人家族が何家族か住んでいた。あちこちから、大人や子供が出てきて、好奇の目で壽美子さんを取り囲んだ。

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 かつてここには、父や母、兄と姉や弟、従兄の久生さんやマリーアがいた。美しく清掃の行き届いた鶏合には真っ白な鶏があふれ、阿部さんや福島さん、大空さんとペルー人のアントニオとホセたちが忙しく立ち働いていた。
 この芝生で犬のチーコを追い回して、私と弟は闘牛ごっこをして遊んだ。[1, p305]
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 そんな遠い日の思い出が夢まぼろしのように浮かび、頬を流れる涙は止めどなく、子供のように泣きじゃくっている壽美子さんを、インディオの女たちが怪訪そうに取り囲んだ。

 しかし、壽美子さん一家を含め、日系移民たちのペルーでの苦労の足跡は、夢まぼろしのように消え去ったわけではない。彼らが遺した「根っこ」は、白人と先住民に分断されていたペルー社会を固める上で、大きな貢献をなしたのである。


■3.曇天、鉛色の海、砂漠の海岸

 壽美子さんの父・湯本定次郎さんが契約移民としてペルーにやってきたのは、1919(大正8)年5月だった。ペルーへの移民はブラジルより9年早い1889(明治22)年に始まっており、当時のブラジルは3人以上の家族で来ることを条件としていたので、単身の定次郎さんはペルーを選んだのだった。

 南半球の5月と言えば、冬の始まりである。ペルーは赤道に近いが、南極海から北上する寒流のために、平均最高気温も22度ほどしかない。空は曇天、海は鉛色、しかも極端に雨が少ないため、砂漠が海岸にまで押し寄せている。私も今回、リマを初めて訪れて驚いたが、定次郎さんを迎えたのも、そんな白黒写真のような光景だったろう。

 ペルーの白人たちは、内陸から流れる川の水を海岸に引き、大規模なサトウキビ農園を作っていた。そんな農園の一つに、定次郎さんは契約農民として働き始めた。高さ1、2メートルに育ったサトウキビを根本から刈り取る仕事だが、葉の縁はギザギザで触れると肌を傷つける。

 慣れない作業での出来高払いで、日系移民たちの収入は低く、また新鮮な水の少ない不潔な環境で、チフス、赤痢、マラリアなどに倒れる移民も多かった。


■4.サトウキビ農園を脱走してリマへ

 多くの日系移民たちは、この奴隷のような境遇から脱走して、リマを目指した。夜中に海岸の真っ暗闇の砂漠に出て、200キロ先のリマを目指す。身の回りの品を入れた重い柳行李を担ぎ、砂に足をとられながら歩く。追っ手を避けるために、リマに向かう道には出られない。自生しているバナナを食べながら、ようやくリマに辿り着いた。

 その頃のリマは、すでに日系移民たちが床屋や食料品店、喫茶店などの商売に成功していた。誠実で信用のおける日本人は皿洗いやボーイとしても歓迎され、そこで小金を貯め、また日本人仲間の頼母子講で資金を融通し合って、何年かすると自分の商売を始めて、頭角をあらわしていったのだ。

 当時を知るイタリア人女性は、こう語っている。「私はいつも野菜は日本人の店で買うことにしていました。みんなあいそのよい、教育もある人たちで、気持ち良く買い物ができました」「ペルー人の店もあったが、小さくて、その上いい品物がなく、よい服地を買いたいときは必ず日本人の店へ行った」[1,p106] 消費者からこんな評価を受けて、日系移民の店は栄えていたのだ。

 ペルー在住の日本人は1万人を超えていた。定次郎さんははじめに床屋に弟子入りしたが、2年目にはペルーでの唯一の邦字新聞『アンデス時報社』に入社した。そこでは編集から、印刷、そして配達までも少数の社員でこなした。

 1920(大正9)年にはリマ日本人校が設立された。当時、ペルーの小学校は義務制ではなく、就学率も40%と低かった。文盲の子供も多く、こういう中に日本の子供たちを放置しておくと、日本字も読めず、やがて正直で勤勉な日本人らしさも失われてしまうと危惧したのである。

 やがて日本政府の在外指定学校になり、文部省から正式な免許を持つ教員も送られてきた。教育方針は「日本精神を有する善良有為なるペルー市民の養成」で、日本語もスペイン語も同様に出来ることを目標としたため、6年では足りず、7年制となった。

 1921(大正10)年には、長年の悲願だった日本公使館がリマに開設された。当時の写真では、みな一様にぱりっとした背広を着て、ハイカラーの白いシヤツにネクタイをきちっと締めている。定次郎さんはいつも「一等国民として恥ずかしくない服装を」と言っていた。当時の日本は国際連盟の常任理事国の一つであり、海外に出た移民達も母国を誇りにしていたのだろう。


■5.多忙な日々

 ペルーへ来て8年、38歳になっていた定次郎さんに、知り合いが見合いの世話をしてくれた。定次郎さんは休暇をとって日本に帰り、15歳も下の悦子さんを連れて、ペルーに戻った。

 1929(昭和4)年、定次郎さんは新聞社を辞めて、養鶏業を始めた。長女の淑子さんに続き、壽美子さん、治男さんと次々に子供が生まれた。家計ははじめは苦しかったが、鶏舎の清掃や温度、飼料、伝染病の予防と工夫を積み重ね、事業を軌道に乗せた。

 ピヨピヨというかわいいヒヨコの合唱が孵卵室にあふれ、壽美子さんたちが背伸びして孵卵器の中を覗くと、ふわふわとした黄色いヒヨコたちがいっぱいにひしめきあっていた。見上げると、やさしい眼差しで雛を見下ろしている父・定次郎さんの満足そうな顔があった。

 1938(昭和13)年、定次郎さんは全ペルー日本人会連盟の会長に選ばれた。当時は日系移民の日本への送金でペルーの金が流出し、徐々に移民のビジネスに制約が掛けられるようになっていった。たとえば、どの企業も従業員の8割以上はペルー人の採用を義務づけるなどである。

 日本人会としても、もっとペルーの人々のレセプションに積極的に参加して、融和を図ろうとした。そのために、男性はモーニング、女性は夜会服を作り、ダンスの練習もした。また日秘(ペルー)文化協会を設立し、両国の親善を図った。


■6.日系移民のアメリカへの強制送還

 1941(昭和16)年12月、日米が開戦すると、翌年1月にはペルーは対日国交断絶を宣言し、多くの南米諸国もそれに倣った。4月になると、アメリカ政府の作ったブラックリストに従って、日系社会の幹部の逮捕、アメリカへの連行が始まった。ペルーに日本人が3万人もおり、彼らは愛国心も強く、スパイ活動もやりかねない、と危惧されたのである。

 第一船は4月4日、ペルー在住の日本人141名を乗せて、アメリカに向かった。強制連行は続き、6月には定次郎さん一家も乗船を命ぜられた。定次郎さんは「自分たちが北米に追放されることによって、ペルーにたくさん残っている日本人が助かるのなら、それでいいんだ」と言い残した。

 しかし、強制送還は一般の日系移民にも広げられていき、最終的には約2千人がアメリカに送られた。

 その理由は戦後、明らかになった。米国のハル国務長官は大統領向けの書簡で「帰国を望んでいるアメリカ市民が中国だけでも三二〇〇人いると計算している。彼らとの交換要員として、同数の日本人を送り込まねばならないので、日本との交換協定を継続し、そのため急いで中南米にいるすべての日本人を追放し、米国内の抑留施設に収容する」ことを促していた。

 また、ペルー側にも、日系人の強制送還を欲する理由があった。日系移民による企業や商店を閉鎖して現地人の事業を助けること、さらには彼らの財産や事業を没収する事である。もっとも賄賂に弱いペルーの役人は、ブラックリストに乗っている人でも、金を貰って見逃したり、賄賂を出さねば強制送還すると脅す事もあった。


■7.強制収容所や交換船内でも教育

 壽美子さん一家はアメリカ・テキサスの強制収容所で1年半を過ごした。収容所の中でも、子供たちの教育を続けなければならないと、日本人学校が作られた。教科書はたまたま一人の生徒が日本の国定教科書を持ってきていたので、先生たちが手書きで写し、謄写版刷りにした。

 1943(昭和18)年8月、一家を乗せた交換船はニューヨーク港を出発した。この船に乗った日本人は1337名、うち半分が中南米から強制送還された人々だった。

 出航してしばらくすると、ペルーから来た子供たちは先生の指導の下、ラジオ体操をしたり、そのあとは愛国行進曲や軍歌を歌って隊列を組んで整然とデッキを行進した。やがて船内学校も始まった。

 75日の航海を終えて、横浜港に着いた。一家は定次郎さんの故郷、琵琶湖東岸にある丹生(にゅう)村の空き家に住み込んだ。ベルーの財産のすべてを失い、幼い子供たちを抱えて、この食料難の日本で生きて行かなければならなかった。

 定次郎さんは久しぶりの日本の正月を迎えるのに、風邪気味だったのに、寒い中を無理して煤(すす)払いをした。それが祟って、1月3日、急性肺炎で息を引き取った。ペルーを深く愛し、戦争が終わったらペルーに戻って仕事を続けたいと願っていた定次郎さんだったが、その願いは果たせなかった。

 母・悦子さんは子供たちを亡父の枕元に呼び寄せ、これからは皆で力を合わせて、一生懸命助け合って生きて行かなければならない、と諭した。武家の娘らしい凜とした姿だった。


■8.日系移民がペルー社会に下ろした根っこ

 戦時中にアメリカ在住の日系人たちは、長い運動の末に、ブッシュ大統領の謝罪の手紙と、2万ドルの賠償金を勝ち得た。しかし、ペルーをはじめとする南米から強制連行された人々2264名は、アメリカ合衆国の市民権も永住権もないという理由で、補償から外された。それに対してペルー在住者たちは異議を申し立て、集団訴訟を起こした。

 長い運動の末、1999(平成11)年、クリントン大統領からの謝罪の手紙と5千ドルの小切手が届いた。奇しくも、ペルーへの日本人移住が始まってから100年目であった。

 壽美子さんがペルーを再訪して会った日系人社会の長老たちは、「ペルーは日本人の移住を受け入れてくれた恩恵国」「今は恩讐を超えてですね」と語った。

 幸いにもペルーに残れた日系移民たちは、戦争には敗れても、自分たちの子供には日本人としての誇りと精神を受け継がせようと、貧しい中でも一生懸命に働いて、南米最古の名門サン・マルコス大学などに学ばせた。彼らの中から、自分たちはペルーのために何ができるか、考える青年たちが出てきた。

 そういう仲間からアルベルト・フジモリ大統領が出てきたのである。戦後のペルーは少数の白人層が大多数の貧困層や先住民を搾取し、それに反発したテロが横行して、国内は混乱を続けていた。それを治めたのが、フジモリ大統領の「教育普及によって貧困層を救い出す」という政策だった。選挙スローガンの「正直・勤勉・技術」は、まさに日系移民の歩みそのものだった。

 フジモリ政権は政争に巻き込まれて不幸な末路を辿った。今も政治的混乱は続いているが、治安は各段に良くなり、ペルー経済が南米の中でも力強い成長を続けているのは、フジモリの政策をその後の政権も続けているからだ、という声をあちこちで聞いた。

 さらに日系移民たちが「正直・勤勉・技術」で健全な中流層を構成した事で、白人と先住民との経済的確執も緩和されてきている。日系人の懸命な努力が、ペルーの社会に根っこを下ろし、それによって、国を固めたと言えるのではないか。

 

日本人移住120周年記念式典に出席するためにペルー訪問中の眞子様

 

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