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さくらの花びらさんのブログよりの転載です。
https://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/35355528.html
平成の御代最後の年末を迎える。陛下がお言葉で述べられた通り、平成は「戦争」はないが「大災害」が多かった。
特に印象にあるのが東日本大震災である。
東日本大震災発生から4か月後の7月24日、被災した岩手県や宮城県の子供達が2週間、ポーランドへ招かれることになった。
子供達は知らなかったが、これは日本の先人達への”恩返し”でもあった。
1795年、ポーランド王国はプロイセン、ロシア、オーストリアに3分割されて国を失ってしまった。
屈辱に耐えかねたポーランド人は国を取り戻そうと、地下に潜って独立運動を始めるが、その都度逮捕されてシベリアに送られた。
第一次世界大戦後のベルサイユ条約で、ポーランドは独立を回復して、シベリアに流されていたポーランド人も祖国に帰れると思った。
しかし、ロシア革命によりソビエトが誕生し、ポーランドとソビエトで戦争が始まったため、シベリアのポーランド人は帰れなくなってしまった。
ポーランドは世界に向かって救援を要請したが助けてもらえず、シベリアの酷寒と食糧不足で飢餓と伝染病がポーランド孤児達の命を奪っていった。
絶望の中、救いの手を差し伸べたのが日本人であった。
当時、シベリアに出兵していた日本陸軍と日本赤十字の看護婦が、酷寒の中、体力が弱って死を待つポーランドの孤児達を救出した。
3年間で765名もの孤児を東京に救出した。しかし救出した孤児は重い伝染病と飢餓で衰弱しきっていた。
看護婦の松澤フミさんは、腸チフスで衰弱していた子供の看護をして「せめて最後は私の胸の中で」と子供を抱いて寝ていたため、自分が腸チフスに感染して亡くなった。(下画像)
これを知ったポーランドは松澤フミさんに「赤十字賞」と「名誉賞」を授与した。
ポーランド孤児を救出した話が日本中に広まると多くの寄付金が届けられた。
大正11年には貞明皇后が日本赤十字社病院に行啓され、孤児の頭を幾度も愛撫され、胸に抱きしめ、孤児を激励し、「健やかに育つように」とお言葉を賜れた。
こうして健康を回復した子供達は祖国ポーランドへ帰国することになった。
横浜から出港する時、孤児達は面倒を見てくれた日本人から離れず、泣いて乗船を拒んだ。
しかし孤児達を船に乗せ、船が動き出すと、孤児達は日本で覚えた「君が代」を歌いながら日本を離れて行った。(下画像)
ポーランド人は日本人にしてもらった歴史をきちんと教わる。しかし戦後の日本人は日本のよきことは一切教えないからほとんど知らない。
平成7年、阪神淡路大震災が起きると、ポーランドは真っ先に日本に救援活動を行ってくれた。
これはそういう意味である。
ポーランドに招かれた被災地の子供達はこういう話を初めて聞かされて、なぜポーランドに招かれたかを理解した。(下画像)
シベリア孤児だったポーランド極東委員会副会長は、このような手紙を被災地に送ってきた。
「日本人は我がポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。日本はポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。
しかし、日本人はかつて、不運なポーランド児童達に深い同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてくれました。我々ポーランド人は肝に銘じてその恩を忘れることはありません。
我々児童達をしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本の子供達が、孤児の服装がみじめなのを見て、自分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与え、髪に結ったリボンや櫛、指輪までも与えてくれた。
ポーランド人は高尚な民族であるが故に、いつまでも日本に対する恩を忘れない民族であることを日本人に知っておいてほしい。
ポーランド人は日本に最も深い尊敬、最も深い感恩、最も温かき友情や愛情を持っていることをお伝えしたい」
我々日本人が、こうして世界から信頼されているのは、我々先人達のお陰であることを知らなければいけない。
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