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ねずさんのブログよりの転載です。

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紙垂(しで)はもともと、弓矢の矢の羽が象られたものです。
もともと祖代(古代よりも前の時代)においては、神社のような施設はなく、必要なときに祭壇を造って、そこに神様に降りてきていただいたり、あるいは、その祭壇を通じて魂を神界に登らせ、神々のご意向をお伺いするといったことが行われていました。
そしてその祭壇には、必ずお酒と矢が並べられました。
その大昔からの伝統が、お酒と紙垂を神棚に飾るという習慣として根付いています。

 

 

日本は和の国です。
そして天皇の知らす国です。
その日本では、国家最高権威である天皇によって、すべての民が「おほみたから」とされます。
これによって権力者は、民を私有したり収奪したりするのではなく、どこまでも民が豊かに安全に安心して暮らせるようにしていくことが勤めとなります。
そして日本では、人も含めて万物は神々の胎内にあり、神々の一部であると神代の昔から神話で説かれてきた国です。

ただし(と、ここが重要なのですが)、古事記にせよ日本書紀にせよ、神々がオノゴロ島を作られたときから、矛(ほこ)が持ちいられたと書いています。
矛というのは、槍(やり)のことです。
そして槍というのは、古代における強力な、人を殺すこともできる武器です。

また、神社というのは「神のお社(やしろ)」のことを言いますが、その神社では、祭壇に必ず紙垂(しで)が飾られます。
冒頭の絵がその紙垂(しで)ですが、紙垂(しで)はもともと、弓矢の矢の羽が象られたものです。
もともと祖代(古代よりも前の時代)においては、神社のような施設はなく、必要なときに祭壇を造って、そこに神様に降りてきていただいたり、あるいは、その祭壇を通じて魂を神界に登らせ、神々のご意向をお伺いするといったことが行われていました。
そしてその祭壇には、必ずお酒と矢が並べられました。
その大昔からの伝統が、お酒と紙垂を神棚に飾るという習慣として根付いています。

 

なぜ神々とつながるのに際して矢が飾られたのかといえば、それは神々とつながるのに際しては、自らが「タケ」らなければならないからです。
これは「たける」とも言いますが、「たける」は「竹る」で、竹のように真っ直ぐになることです。
つまり斜めであったり、歪んでいたりしては、神々にちゃんとお会いすることはできないとされてきたわけです。

その弓矢の矢は、戦いにおいては最強の武器となるものです。
まだ大砲や鉄砲がなかった時代において、もっとも殺傷力を発揮するものが弓矢です。
上にのベました槍(やり)と同じく、ここでも武器が用いられています。

なぜ武器が最初に来るのでしょうか。
そこには重大なメッセージがあるといえます。

日本は神の国であり、古代において日本は、蓬莱山(ほうらいさん)とも「東方の天国」、あるいは「東方の神の国」と呼ばれるたいへん豊かで平和で発達した国でした。
このことは魏志倭人伝にも、倭人の風俗は淫らでなく、女性は慎み深くて嫉妬せず、泥棒が少なく、訴訟も少ない云々とあります。

このことは、つい半世紀前の日本でも、玄関に鍵などかけるという習慣がなかったことや、国宝を保管する奈良の正倉院の入口の鍵が、ただの紙であったことなどからも窺い知ることができます。

また昨今では、人殺しや連続強姦事件などが連日報道され、身代金詐欺を生業にする者が擁護されるという、おかしな国情になっていますが、江戸270年間で発生した殺人事件の総数は、昨今の日本の1年間分以下です。
享保年間に伝馬町の牢屋に入れられていた犯罪者は、20年間で0人です。

江戸の人口は、18世紀初頭には200万人を超えていましたが、その200万都市の治安を預かるおまわりさん(防犯担当の同心)の数は、北と南の奉行所を、両方あわせてもたったの24名です。
北と南は輪番制ですから、常時いるのおまわりさんは、たったの12名です。
それでいて、犯罪がゼロだったのです。
いまでは東京の警視庁の警察官は4万5千人もいますが、それでいて凶悪犯は一向に減らないし、ハロウィンとのもなれば、群衆の中で女性の胸を触って逮捕される馬鹿者までいる体たらくです。

ほんの半世紀前まで、およそ犯罪とは縁遠かった日本が、いまこれだけひどい国になってしまった背景には、日本国内に、日本語を話し、日本国籍を持ち、日本人のような顔をしていながら日本人でない人が大量に紛れ込んでいるからです。
何代か続いて日本に住む日本人であったとしても、あるいは生まれたときから日本国籍を持っていたとしても、日本人であることのありがたさ・・・それは天皇の「おほみたから」であるということを意味します・・・を忘れ、自己の瞬間の利益ばかりに走る馬鹿者は、日本人とはいえません。
逆に外国籍であり、肌の色が違い、両親ともに外国人で、名前も横文字の名前であったとしても、日本の文化を誇りとし、しっかりとした「たける」心を持って日々を送る人は日本人です。

要するに神の国の住民として、神々の一部となってしっかりと日本人として生きようとする人が日本人であって、そうでないろくでなしは、日本人、すなわち和の民ではないのです。

そしてそのような和の民でない人は、斬捨御免で斬って捨てる。
あるいは槍の餌にする。
あるいは弓で射殺す。
その覚悟と実践があって、はじめて日本人は神々の子として神々の一部となるのです。
つまり日本人であるということは、決して甘いことではないのです。

日本人は対立を嫌います。
しかしいたずらに対立を煽り、それによって自己の利益を得ようとするような人非人は、神の子でさえありません。
西洋ではこれを獣人といいます。
人の形をしていても人ではない。
吸血鬼バンパイヤや、狼男リカントは、いくら殺しても英雄になりこそすれ、罪に問われることはありません。

現代社会で、果たして殺すことまではいかがなものかとは思いますが、しかし日本にいながら日本を否定し日本人であることを否定し日本人を貶めることに喜びを見出しているような痴れ者は、国籍が日本にあろうがなかろうが、国家としては堂々とこれを排除していかなければならないものと思います。

こういうことを申し上げると、差別主義だなどと言われそうですが、そうではなく、これは秩序維持のための区別です。
会社でも、たとえば役員会なら、役員しか出席できません。
それが区別というものです。

もっというなら「差蔑(さべつ)」はいけないことですが、「差別(さべつ)」は、世の中になくてはならないものなのです。
そのことを、私達日本人は、もういちどしっかりと自覚していく必要があると思います。

 

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