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国際派日本人養成講座よりの転載です。

http://blog.jog-net.jp/201510/article_7.html


虎屋の見た国史


■1.「歴史が違うわ、虎屋さん」

 創業500年の老舗和菓子屋「虎屋」の赤坂本店が建て替えのため一時休業することを告知した17代・黒川光博社長のメッセージに、ネット上で賛嘆の声があがっている[1]。こんな一節がある。

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 3日と空けずにご来店くださり、きまってお汁粉を召し上がる男性のお客様。毎朝お母さまとご一緒に小形羊羹を1つお買い求めくださっていた、当時幼稚園生でいらしたお客様。ある時おひとりでお見えになったので、心配になった店員が外へ出てみると、お母さまがこっそり隠れて見守っていらっしゃったということもありました。

車椅子でご来店くださっていた、100歳になられる女性のお客様。入院生活に入られてからはご家族が生菓子や干菓子をお買い求めくださいました。お食事ができなくなられてからも、弊社の干菓子をくずしながらお召し上がりになったと伺っています。

このようにお客様とともに過ごさせて頂いた時間をここに書き尽くすことは到底できませんが、おひとりおひとりのお姿は、強く私たちの心に焼き付いています。
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「深みのある文章。これぞブランド」「歴史が違うわ、虎屋さん」などという声がネット上で渦巻いている。

 虎屋の『掟書(おきてがき)』は、天正年間(1593~92)にまとめられたものを、文化2年(1805)年に9代目光利が書き改めたものだが、そこには「御用のお客様でも、町方のお客様でも丁寧に接すること」なる一節がある。[a]

 御用、すなわち宮中に代々、和菓子を納めていたことが、虎屋の誇りであったが、それに奢らず「町方」の普通のお客様も大事にせよ、というのである。これを今も忠実に実践しているからこそ、このような味わい深いメッセージが書けるのだろう。



■2.父娘で楽しまれた和菓子

 虎屋の「お客様とともに過ごさせて頂いた時間」は500年にも渡る。最古の販売記録の一つとして残っているのが、寛永12(1635)年9月、女帝・明正天皇が父君・後水尾上皇の御所に行幸された時に、虎屋が納めたものである。

 徳川幕府の草創期で、幕府は「禁中(きんちゅう)並(ならびに)公家(くげ)諸法度(しょはっと)」を定めるなど、朝廷への介入を強めていた。後水尾天皇はこれに反発して、寛永6(1629)年、幕府に諮ることなく、突然、第二皇女(明正天皇)に譲位して、以後、半世紀、天皇4代にわたって院政を敷かれた。

 一方、当時は文芸復興の気運に満ちた時代で、朝廷や公家ばかりでなく、武家や町人まで含めて、清新な寛永文化が生まれた。後水尾上皇は和歌、連歌、茶道、華道にも長じ、文化サロンの中心的人物であった。さらに朝廷で廃絶していた年中行事の復興にも努めた。

 行幸は5日間に及び、多くの公家がお供をし、天皇と上皇は舞楽や猿楽をたっぶり楽しまれたという。

 その際に、虎屋から多種大量の和菓子が取り寄せられた。大饅頭(2500個)、薄皮饅頭(1475個)、羊羹(ようかん、538棹、さお)等々、20種以上もの商品が並ぶ。なかには、かすていら(66斤)などポルトガルから伝わった南蛮菓子もある。現在の貨幣価値では250万円ほどの代金となるそうだ。

 天皇と上皇は楽曲の合間に様々な和菓子、南蛮菓子を楽しまれたのだろう。数からして随伴した多くの公家や演者にも振る舞われたに違いない。上皇は幕府との対立の心労を、愛娘との水入らずの一時で癒やされたのではないか。人びとの華やかな、楽しげな様が思い浮かぶ。


■3.名君の息抜き

 第8代将軍、徳川吉宗は享保の改革で、破綻しかけていた幕府の財政を立て直した名君で、自身も1日2食、一汁三菜の質素な生活をしていたが、実は甘い物が大の好物だったという。

 虎屋の台帳によると、寛保2(1742)年2月8日に「水の葉」「吉野川」など様々な干菓子3重の桐箱に入れられて江戸に進上された。朝廷からの贈答であろう。また、洲浜(すはま、大豆の粉を飴で練り固めた菓子)20棹が毎年、吉宗に贈られていたという。

 名君の誉れ高く、自らの生活も謹厳に節制していた吉宗が、京の名菓に舌鼓を打って、一時の息抜きをしている様を想像すると微笑ましい。


■4.和宮が病床の夫に贈った和菓子

 江戸の世も幕末になると急に慌ただしくなる。第14代将軍・徳川家茂(いえもち)は孝明天皇の妹・和宮との婚姻により、朝廷の権威を借りて、幕府の権力を回復しようとする。

 文久3(1863)年3月、家茂は孝明天皇と対面するため京都に入った。将軍の上洛(じょうらく)は3代家光以来229年ぶりのことだった。家茂が二条城に入ってすぐ、虎屋12代店主・黒川光正は賄い方から呼び出されて、大枚の前払いを受け、将軍在京中の御用を命じられた。

 3日後に参内した家茂には宮中から「長月」(市松模様入りの羊羹)、「遅桜」(紅白の桜模様の羊羹)等々、5種類の菓子が贈られた。家茂も、扇面形の三重の箱に「夜の梅」(小倉羊羹)、「新八重錦」(紅葉模様の羊羹)など何種類もの和菓子を入れて宮中に献上した。朝廷と幕府の外交は、互いに虎屋の和菓子を競うように贈り合うことから始まったのである。

 慶應2(1866)年、第2次幕府・長州戦争中に、家茂は大阪城で病に臥せっていた。江戸の和宮からは見舞いとして「吉野山落雁」「カステラ」などが、また先代の御台所・天璋院(てんしょういん)からも練羊羹(ねりようかん)が届けられた。

 翌日、天璋院からの煉羊羹は家臣に下げ渡した、と記録にあるが、和宮からの和菓子については何の記述もない。家茂と和宮は仲睦まじかった。その妻の愛情を受けとめながら、和菓子を食べたのではないか。しかし和宮の思いも虚しく、21歳の家茂はそのまま大阪城で病没する。


■5.天皇と民衆をつないだ菊の御紋の饅頭

 明治の世となって、明治天皇は遷都の下準備として、明治元(1868)年9月20日に京都を出発され、東京に行幸された。これに12代黒川光正の庶兄・黒川光保(みつやす)も同行して、各地の菓子屋と共同で、天皇が召し上がったり、民衆に配られる和菓子を作った。

 たとえば9月27日、天皇は熱田神宮を参拝後、稲の収穫をご覧になり、刈り取りをした農民一同に和菓子を配ってねぎらわれた。この時は熱田(名古屋市)の和菓子屋「つくは祢(ね)屋」が黒川光保の立ち会いのもと、製造にあたった。下賜用の和菓子は菊の御紋の焼き印が押された直径三寸(約9センチ)の饅頭で、合計3千個も作られたという。

 菊の御紋の入った饅頭をいただいた農民たちは、皇室の民への愛情を感じただろう。

 明治政府は欧風化政策を進め、明治天皇も公式の行事では洋服や軍服を召されるなど、欧米の生活スタイルをとられていたが、これはあくまでも表向きであって、奥での日常生活では畳の部屋で和服を着用され、食事も和食を好まれたという。

 甘い物もお好きで、菓子は皇居内の大膳職が作る以外に、赤坂に進出した虎屋にもご用命があった。時々、女官を通じて、新しいお菓子を作るようご内命があり、お気に入りのお菓子には「月影」「三河の沢」など陛下自らが命名された。

 虎屋の製造所では13歳の頃から50年間も務めてきた職工が製造し、主人みずからが監督したという。


■6.軍人と和菓子

 昭和の戦争の時代になると、虎屋は軍にも特製菓子を納入するようになる。海軍用は円筒形の羊羹で「海の勲(いさお)」、陸軍用も羊羹だが四角形で「陸(くが)の誉(ほまれ)」。出征した兵士が携帯できるよう小ぶりに作られていた。

 経済統制で砂糖が不足するようになると羊羹は貴重な甘みで、現在でも来店する客が「戦争中、軍隊で食べた虎屋の羊羹がいまだに忘れられない」とか、「あの時の虎屋の丸棒(海の勲)はうまかったなあ」などと、しみじみと店員に漏らしたりするそうな。

 虎屋の羊羹は戦地でも愛されていた。アリューシャン列島のキスカ島からの守備隊5千余名の救出[b,c]に赴いた水雷戦隊の特設水上機母艦・君川丸では死地に赴く前に酒保を開いて、飲み放題、食べ放題とした。

 振る舞われた中に虎屋の羊羹もあり、「虎屋の羊羹-この時期になってもやっぱり海軍は上等なものを持っていた」と体験者は記している。将兵は、物資の不十分な中でも、最高級の羊羹を自分たちに振る舞ってくれる国と国民のために戦おうと、さぞや闘志を高めたことだろう。

 皇室には「御紋菓」と呼ばれる菊と桐の御紋をかたどった押物(押し固めて作られる菓子)が大量に納められ、昭和天皇の名代として各宮様が戦地を慰問される際に、将兵に下賜された。

 戦死者の家族にも、5個入りの「御紋菓」が贈られたが、夫や父や兄を亡くした家族にとって、せめてもの慰めだったろう。

 赤坂の製造工場が空襲で焼け落ちると、その甘い香りに、数十名の戦災者が工場のまわりを取り囲んだ。見かねた虎屋の工員の一人が「前線へ送るお菓子ですが、もう輸送もできません。自由に召し上がってください!」と叫んだ。

 人びとは工場の瓦礫の中から厚い銀紙に包まれた羊羹を掘り起こし、湯気が立つまま、無我夢中で食べたという。砂糖の配給が中止となって2年。久しぶりの甘さに泣き笑いしながら。


■7.和菓子を愛された昭和天皇

 昭和天皇がご幼少の頃に好物だったのが「虎屋煎餅」だった。小麦粉、卵、砂糖、牛乳が入った直径12センチほどの甘い煎餅で、表面の絵柄は、虎屋の屋号にちなんだ虎と竹の組合せで、富岡鉄斎が描いたものだった。

 大正10(1921)年に皇太子として訪欧された時[d]には、この煎餅50缶の他に、紅白の押物5千個や、缶詰にした羊羹200缶などがお召し艦「香取」に積み込まれた。お召し艦の乗員や、欧州での在留邦人にも下賜された事と思われる。

 昭和3(1928)年の即位の礼を初めとする諸行事では、虎屋に注文が寄せられ、「鏡餅」「椿餅」、紅白の煉羊羹を納めた。祝賀では東郷平八郎元帥をはじめとする官民代表、各国大公使らに配られた虎屋の雅な和菓子が祝賀ムードに花を添えたことだろう。

 先代社長の黒川光朝は昭和62(1987)年の園遊会で昭和天皇にお会いした様子を次のように書いている。この頃は、毎月25日に皇室に和菓子を献上していたようだ。

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 (昭和天皇は)「きょうはよく来てくれてありがとう」と一歩踏み出され、三十糎(センチ)も離れぬ至近でのお言葉だった。さらに「毎月二十五日にはお菓子をありがとう」のお言葉を賜り、「ありがとうございます」との一言がやっとの位、涙にむせぶ一瞬だった。

そして皇太子殿下、美智子妃殿下からも「いつもお菓子を楽しみにしています」、続いて浩宮様も「しばらくでした。お元気ですか。」礼宮様からも会釈を賜った。・・・

店から毎回お納めしている菊池残月の五個入りを頂戴して退出した。25日献上のお菓子は、毎月必ず召し上がっておられるそうで、和菓子屋の主人として名誉この上もない。[2,p46]
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 昭和天皇崩御の後、皇太后陛下から遺影にお供えする菓子の依頼があった。生物学者・昭和天皇が特にご関心の深かった「貝」と「シダ」にちなむ菓子を作れないか、とのご注文だった。

 虎屋が製造した二種類の羊羹に、皇太后は「葉山の幸」「木下道(このしたみち)」と御銘を下され、昭和天皇のお誕生日とご命日には、かならず、この二種の菓子を遺影にお供えされたという。


■8.人から人へ心を届ける和菓子

 先代・黒川光朝は「和菓子は五感の芸術である」という言葉を残している。その父の言葉を、光博氏はこう解説している。

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 和菓子にはまず形や目に映る美しさがある(視覚)。次に口に含んだ時のおいしさ(味覚)。そしてほのかな香り(嗅覚)と、手で触れ、楊枝で切るときの感じ(触覚)があるが、これらに加えてもう一つ、菓子の名前を耳で聞いて楽しむ「聴覚」がある、と言うのです。・・・

例えば、「薄氷(うすらひ)」という菓子。これは初冬のある朝、紅葉が池の氷に閉じ込められている情景を、道明寺生地の中の煉羊襲で表したものです。「春霞」「初蛍」「紅葉の錦」など、それらの菓銘を耳にするだけで季節のうつろいすら感じ取ることができます。[2,p170]
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 日本人は慶弔事や故人へのお供え、お見舞い、時候の挨拶などに、この「五感の芸術」に自らの心を込めて相手に贈ってきた。日本の社会は何よりも人と人との「間柄」を重視した「相互的個人主義」で成り立っていると西部邁(にしべすすむ)氏は喝破した。[e]

 そして、人から人へ心を伝えてきたのが、世界に類のない和菓子の本質だろう。そんな和菓子の作り手は何よりも、送り手の心を慮って、それに即した和菓子を作る。そういう仕事を500年もやってきた虎屋だからこそ、顧客の心に寄り添った冒頭のようなメッセージも出せるのだろう。
(文責:伊勢雅臣)


■リンク■

a. JOG(786) 不易流行 ~ 守るべきもの、変えるべきもの
 何百年も続く老舗は、守るべきものを守りつつ、時代の変化に即して、変えるべき所を変えている。
http://blog.jog-net.jp/201302/article_3.html

b. JOG(859 国史百景(9): キスカ島守備隊を救出せよ(上)
 米軍に包囲された孤島の守備隊5千2百名を救出すべく、木村昌福少将率いる艦隊は死地に赴いた。
http://blog.jog-net.jp/201407/article_8.html

c. JOG(860) 国史百景(9):キスカ島守備隊を救出せよ(下)
 濃霧の中を、救援艦隊はキスカ湾に突入していった。
http://blog.jog-net.jp/201408/article_1.html

d. JOG(187) 皇太子のヨーロッパ武者修行
 第一次大戦後の欧州を行く裕仁皇太子は、何を見、何を感じたか?
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h13/jog187.html

e. JOG(170) 個人主義の迷妄~「国民の道徳」を読む
 奉仕活動をする青年も、援助交際をする女子高生も、同じく「個人の尊厳」では、、、
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog170.html

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