$何かおかしいよね、今の日本。
火災が発生し、煙を上げる大型貨物船「MING YANG」=21日、沖縄本島南東沖約150キロ(第11管区海上保安本部提供)


中国外務省、日本側に謝意示さず 海保の中国人救助で
http://sankei.jp.msn.com/world/news/121023/chn12102308220002-n1.htm

 海上保安庁が沖縄本島沖で火災を起こした大型貨物船の中国人乗組員64人全員を救助したことについて、中国外務省の洪磊副報道局長は22日の定例記者会見で「日本側と調整し、船員の救助に向けた有効な措置を取った」と強調した。日本側に謝意は示さなかった。(共同)


所詮支那人なんて

こんなものです

しかし

日本海軍の武士道は

現代にも伝承されていた


$何かおかしいよね、今の日本。

大東亜戦争時の昭和17年、スバラヤ沖で起きた海戦は、イギリス・オランダ・アメリカ・オーストラリアの連合国艦隊と日本国艦隊が激突した海戦である。

この海戦は昭和17年2月27日から31日までに、計5回の戦闘が繰り広げられたが、兵力はほぼ互角ながら連合国艦隊は8隻を失って退却、日本側は駆逐艦1隻を損傷したのみで圧倒的勝利を収めた。

この海戦の翌日、哨戒行動中であった『雷・いかづち』は、重油が流れ出た海面に大勢の将兵が漂流しているのを発見した。
日本帝国海軍との交戦で沈没した英国艦隊の将兵達で、炎上・沈没した戦闘艦から脱出してボートや瓦礫に寄りながら海上を漂っていたのである。

英国海軍400名を確認した『雷』の工藤俊作艦長は、敵潜水艦の音響の有無を再三に渡って確認させ、その上で、『敵兵を救助する』と号令し、マストに『救難活動中』を示す国際信号旗を掲げました。

しかしこうした戦闘中の海域で救助の為に停船すれば、敵潜水艦や戦闘機にとって絶好の攻撃目標となるわけだから、危険極まりない行為だ。
さらに昭和16年8月以降、英米による石油禁輸措置によって石油が乏しい日本国にとっては、発進・停止を繰り返す救助活動は、その後の戦闘行為を不可能にする事になる。
こうした事から、『艦長はいったい何を考えているのだ!戦争中だぞ!』と批判の声が出た。

だがこうした批判の声を沈静化させたのも工藤艦長のリーダーシップと人徳だった。
普段から工藤艦長は艦内での鉄拳制裁を一切禁止し、兵・下士官・将校を分け隔てなく接し、人望を集めていた。
その工藤艦長は『敵とて人間。弱っている敵を助けずフェアな戦いは出来ない。それが武士道である。』との命令に、日本の将兵達は自らも海中に飛び込んで敵兵士を救助した。

さらに救助した英兵を貴重な真水で洗い、衣服まで提供して工藤艦長はこうスピーチした。

『貴官達は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。』

そしてディナーを振る舞い、翌日ボルネオ島の港で、オランダ病院船に捕虜として全員を引き渡しているのだ。

救助された英兵達は大感激をした。
そもそも英国海軍の規定には、危険海域における溺者救助活動では、『たとえ友軍であっても義務ではない。』としている。
それが敵兵である自分達を、戦域での危険を顧みず救助し、衣・食を与え、敵国の病院船に引渡しまでしたのだから、英兵達の感激は当然と言えるだろう。

その英兵の1人であったフォール中尉は漂流中に現れた敵艦隊にダメだと思ったが、救助信号旗が揚がったのを見て安堵したと言う。
そして戦争が終わり長い時が流れた平成8年、フォール氏は『マイ・ラッキー・ライフ』を出版し、その冒頭で、

『この本を私の人生に運を与えてくれた家族、そして私を救ってくれた大日本帝国海軍中佐・工藤俊作に捧げます。』

と、書いたのだ。
そしてさらに、

『自分が死ぬ前にどうしても一言お礼を言いたかった。一日として彼の事を忘れた事はありません。』と強調した。

そしてここからフォール氏による工藤艦長を探す旅が始まる。
結果的に地元在住の青木厚一元海軍少佐の尽力によって、ご遺族と工藤艦長の墓所が判明した。

平成20年12月7日、89歳と言う高齢でありながらフォール氏を日本に迎え、墓所のある埼玉県川口市の薬師寺で墓前祭を盛大に執り行い、翌8日には赤坂プリンスホテルで英国大使・外務大臣参列の下で、顕彰記念式典が行われました。
英国海軍からは駐在武官が参列、海上自衛隊からは海上幕僚長、四代目『いかづち』艦長が参列、国際礼儀に則った海軍式式典が挙行されました。