前回の話は、10万~20万年から、いきなり、紀元前後の2千年頃に飛んだのだが、考古学の遺物的に論じられるのは、5万年前程度であり、土器は2万年程度前である。


つまり、人類の痕跡が出てくるのは、5万年程度前であり、先に縄文土器が世界一古い話を書いていたので、日本に来た人類の話から、記録のある2000年の話しになった。


中国で漢字が生まれたのも、周辺民族との争いや和解が原因である。日本のように争いがないと語り部が語り継ぐので、文字は不要であった。と言っても、記号的文字は生まれていたようだ。


記号的文字は道具と共に、語りの肝心な部分の象徴で生まれ、記憶に役立てていたようだ。とにかく、和の社会では、文字はあまりひつようでなかった。


だが、争いを繰り返す社会では、語り部が死ぬことが多いので、より、書き残せる文字が必要だったのだ。文字が文明の象徴ではなく、中国は文字が必要だった社会なのである。


さて、第3の渡来者が、中国・朝鮮であり、現在の史学者が先進国と禮讃する中国・朝鮮などの渡来者であるが、宇摩説的には、日本に憧れて来た人々である。


幼児の頃から住み慣れた地域を離れるにはそれなりの理由があるのであり、突然思い立っていきなり渡日する距離でも、安全で尾ない。徐福は数年係りであった。


卑弥呼の訪問に答礼を贈った中国皇帝も、数年掛かりである。舟の発達した2千年頃で、この状態だから、漁民の事故で狂いが伊は日本に大勢の渡来者は居なかったといえる。


また、史学者は大陸からの多くの渡来があったと、勝手に創造をしているが、具体性が無く、理論的・科学的・合理的ではない。日本に来た数は人口比で数にならない程度であろう。


朝廷が誕生して遣唐使船などが往来した時代でも命懸けであった、したがって、この時代でも反日汚染の史学者の渡来者数は、思い込みの延長でしかない。


宇摩説的には、不老長寿の仙薬が欲しかった秦の始皇帝が富と技術を持って作った船で渡来した徐福が最大規模の渡来であり、後にも先にも無い一大イベントだったと考えている。