はじめに

 前回(171)は中村の井守神社を紹介したが、土居地区には、もう一つ面白い神社がある。昨日の地図で、宇摩郡の南西端の山間部の村である。なお、今は、「関川」に変更されている。

 万葉集にある、「橘の島」を、万葉集の初めての解説書を出した仙覚が、この上野の橘を候補に上げている。そして、伊予であると書き残す。この話は次回の万葉集の方に書くので、こちらは省略する。

 明治17年の『宇摩郡地誌』は、明治初期の宇摩郡に祭祀されていた神社が、庄屋(村長)などの提出文書によって、県の公式文書に残っている。先の大元神社・天日隅宮や、井守神社もこの資料を元に『愛媛県神社誌』を参照して書いている。

 ここでは大国主の話なので、スサノオ・大国主関連の神社を書いているが、宇摩郡の神社では、天照大神・高御産巣日神・神産巣日神など、神話の高天原の神々がほとんど祭祀されている事に特徴がある。

 天照大神が、「地主神」という祠に祭祀する神社すらある。もちろん、中峰の大元神社の祭神である。小さな祠は、天照大神が高天原だけでなく、宇摩平野の地主でもあったと言う貴重な祠である。

 さて、大国主の話に移ろう。

  大国主を祭祀する神社

 先に土居地区の祠を4神社、上野に、王子神社(大己貴)。蕪先に、須賀神社(大己貴)。天満に、大地神社(大己貴)。野田に、荒神社(素稲大神・大国主大神)を書いた。この中で、固有の王子・須賀・大地は大己貴で祭っている。

 宇摩郡全体を調べると、荒神社は土居地域では、ほとんどがスサノオとウカノミタマの祭祀である。しかし、土居の東の野田の荒神社大国主がある。ここでは、素稲大神と、大国主の祭祀だ。この神社が色々教えてくれる。

 素稲神社は、同地区では、スサノオとウカノミタマであり、荒神社と同じである。これは全国共通する荒神社に祭祀される前には、「素稲神社」で祭祀したことを示すものだろう。そして、大己貴を大国主として、まとめて、荒神社で祭祀された。

 このように、宇摩に多いスサノオの荒神社は、元は「素稲神社」として祭祀されていた事が判る。こう解けて他の地区の荒神社を見直すと、他の地域はほとんどが、スサノオ・ウカノミタマ・大国主で祭祀されていた。(宇摩説のスサノオ平地開拓と一致)

 土居地区と他地域の違いは、大己貴が、天日隅宮に大国主となって帰った後の祭祀を思わせる。つまり、他の地域は大国主になった後に関係が深いことを示すものと推定する。だから、大己貴と関係した土居地区に祠が残るのだ。

 これは、先に宇摩説が解いた「大国主が宇摩平野で修行した」、「入野から矢も求めて蕪崎の方向に向かった」などを補足するものである。また、歌も、入野で大国主が新婚時代に詠んだと解いた。これは、次の「万葉集と伊予」でも言及する。


  上野の村社(千足神社)

 上野には、祠の王子神社が大己貴を祭祀している。そして、仙覚が橘の島を上野の橘に比定した。この地域の最大の神社が千足(ちたる)神社だ。どのような神社であろう。

 千足(ちたる)神社、旧上野村、村社
 主祭神、イザナギ・イザナミ。配神、宇賀之魂大神・猿田彦大神・大宮廼女大神。
  境内社、出雲神社(大国主大神)

沿革
 聖武天皇の御宇に宇摩郡・新居郡の境、近井の郷の首府に鎮座し、両郡の鎮守神として信仰される。また、日本は「細戈の千足国なり」、の国号を御神勅によって御神徳を称え、国号をもって社号としたという。


 以上だが、この神社は、明らかに朝廷との関係を伝えている。朝廷に都合の良いように変化が起こったと見て良いだろう。不都合な事とは、「高天原に関係する地上の伝承や物事」であり、これを消す事である。

 つまり、大国主の高天原での就業は不都合である、この歴史を隠す(歴史隠し)の一翼を担った、と言うことだ。どのように変更されたのか、想像して見れば面白いだろう。

 この話は、宇摩説の知識で評価、判断すると、非常に多くのものを含んでいる。とても貴重な話である。

 次回は、この沿革から判ることを書いてみよう。皆さんも宇摩説を良く理解できていれば、沿革から幾つかは気付くものがあろう。楽しんでください。

 また、近井郷の場所とされる、イザリ松(誓いの松)の現状などの写真も次回は入れようと思う。


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