はじめに

 前回、解説をしていて、八上比売の残した子、木俣の神、またの名、御井の神に記憶があったので、今回まで、伸ばすことにした。書いている内に、多くのことが出てきたので、万葉で書くか、古事記で書くか迷ってしまった。

 また、天智天皇衣掛けの岩も、写真は在ったのだが、先に一度乗せていた。天皇の歌も万葉集に多く残るので、これらを読み直して、宇摩と思われるものを紹介すれば、万葉集になるので、これも迷っている。

 まだ、万葉集の天智天皇の歌に当たってないので、時間を作って、調べ直して、万葉集の方で紹介しようと思う。衣掛けの岩が残るように、宇摩に来ていたことは間違いなさそうなので、宇摩で詠んだ歌も残っているだろう。

  天智天皇衣掛け岩(写真)

 この写真を見て、最初の頃に載せたように思う。この意思は、「さざれ石」と呼ばれる石のようで、地域に自然にある石とは違う。

 そして、写真で、この岩が、井守(いのかみ)神社に在ることを思い出した。この神社が、井戸に関係することは、社名から明らかである。そこで、調べると、次のような記録があった。

  井守神社の沿革

 井守神社、旧中村、村社(津根郷)
 主祭神、大山積命・高オカミ・大雷。配神、水波能女神。
  天暦6年、現在地に奉遷して御井の神を合祀して、井守大明神と称える。
  これより、近井郷の名も起こると言う。

  住吉の出湯にて「天智帝湯座衣掛け岩」などの伝承もあったが、白鳳12年、冷水となり、その後、清泉として名がある。
 
 古歌 千早振る 井守の神の 岩清水 曇りなき世の 鏡となるらん(頼直)

  宇摩説の見方

  沿革の、天暦6年は、953年になる。この時まで、御井神社(?)・井守神社があって、御井の神を祭祀していた事が判る。また、現在地に移って来たとは、この御井神社の地に移ってきたのであろう。

 主祭神に入れて無いが、社名によっても、この地が御井の神の社であったことが判る。そして、この地の何処かで、温泉があり、天智天皇が入浴したことになろう。

 温泉が冷戦になった伝承は、別の所にあるので、何らかの力が及んだことが伺えるのだ。また、先に書いた入野と中村は隣り合った村であり、共に縁故の有りそうな地である。

 この状況からして、八上比売と、その子、御井の神の縁故で作られていた神社であろう。それが、上記のように、合祀されて、御井の神は、合祀すると普通は、相殿などに祭祀されるのだが、消えたのではないか。

 御井の神が境内社などになっているのかもしれないが、この状況では母の八上比売とされる女神は、この神社に本名で残っていた可能性が高いのであり、先に言った木の国のオオヤビコの娘であったか確認できたであろう。

 とにかく、大国主が入野に居て、八上比売と、子の御井の神は、井守神社の地に居たのであろう。広大な地域である。これを見ても、ここに来た八比売の親の力が大きかったと推測できる。

 つまり、宇摩郡には、高天原や、スサノオ・大国主などの伝承や神社が残るので、変更のために、その後の天皇の行幸になったと言えるだろう

 土居町は神話と天皇家との関係が多いので、神社の沿革が変わった可能性が多い。これらは、もう一社書いておきたいし、先に触れた、「誓いの松」も書く予定なので、しばらく、宇摩郡全域などの神社の傾向なども残しておこう。

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