天皇の伊予湯行幸

 昨日、天皇の伊予訪問は、4~5度と書いたが、その後、「伊予国風土記」によって確認したので、正確なものを載せておく。

  1、 景行天皇・大后、八坂入媛
  2、 仲哀天皇・大后、息長帯姫
  3、 上宮、聖徳太子(皇子)
  4、 舒明天皇・皇后
  5、 斉明天皇・天智天皇・天武天皇

 以上の5度になっています。
 宇摩説を最初から読んでいる人は知っていると思うが、瀬戸内海では宇摩の地(ヒウチナダ、燧灘)が特異な地域に成っていて、関西から瀬戸内海を船で下る(実際は上げ潮で燧灘に来る)と、燧灘で四国の東西から流れ込んだ満ち潮がぶつかる。

 ぶつかり合った潮流は広がった四国側に流れる。つまり、天皇の行幸一団の船は、否応無く、上げ潮の最終地、宇摩郡に着いて、引き潮まで「潮待ち」をすることになるのだ。上手く行っても数時間、段取り悪いと五時間余りになる。

 しかも、この時間によっては、夜になって船出が出来ない。つまり、宇摩に宿泊となる。4~5時間もあると、カガヤマに上ってこれる時間である。したがって、先の舒明天皇の歌は、宇摩郡のカガヤマの可能性が高いのである。

  潮待ちで宇摩の地を踏んだ天皇

 宇摩郡は西からの満ち潮と東からの満ち潮がぶつかるから、否応無く宇摩の地に降りる。だから、景行天皇・仲哀天皇・舒明天皇・天智天皇・天武天皇の5天皇が宇摩に地に足跡を残した事は間違いない。

 5代の天皇が来た地は全国でも稀であろう。宇摩と天皇家の関係では、この外に、同母の妹と仲良くなって、皇太子から落とされ、伊予に流された、木梨軽皇子の陵墓が宮内庁の参考陵墓である。

 伊予の湯に行幸した数は、紀伊半島の室の湯より多い。もちろん、九州の温泉地でもない。

  大国主と伊予とスクナビコナ

 伊予の風土記を見直していて、大国主(大穴持命)が記録でも伊予に関係があったことを思い出した。

 大穴持命が、見て悔い恥じて、スクナビコナの命を活かそうと思い、大分(おおきた)の速見の湯を、下樋(したひ)より持ち渡り来て、スクナビコナを漬し、浴(あみ)ししかば、暫くありて、活き起き立ち、、」とある。

 この話の起こりの部分が無いので、宇摩説では取り上げてないが、伊予にも道後の湯があるのに、別府の湯を運んだという、気になる話である。

 また、このスクナビコナは、淡路島で粟柄に弾かれて、常世の国に渡ったなどもある。つまり、道後と淡路の中心地が燧灘で、宇摩郡に着く、この二人は、宇摩に無縁ではなかったことが明確である。

 なお、この二人の出会いの話は後に出るので、この辺で終わる。

  伊予の特殊性

 以上のように、宇摩郡は記録の上からも、独自の地域なのだが、古代史で注目した人は無い。

 もう一つ書いておこう。持統天皇の頃に、総領の役職が全国に四箇所にあった。筑紫・周防・吉備・伊予である。この中で、異常に無視されているのが、言うまでも無いが伊予である。鋳銭司も全国3箇所で一つは伊予にあった。

 伊予総領は四国支配だから、通行を考えて、四国の中央部に居を構えただろう。この関係だろう思われる「伊予軍印(各地の軍団印より古い古印)」が残る。この伊予は伊予総領と言われた四国の意味であろう。

 そろそろ、時間が来たのでこの辺で終わる。総領・鋳銭司は別項で書く。

 なお、昨日、ココログに「カガヤマと村山神社」アルバムがあると書いたが、見直すと、アルバムにはなってなかった。失礼してしまった。数日中にそれぞれの名で作る。出来たら、その時にブログで知らせます。お手数掛けましたが、よろしく


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