大国主の来た根の国の場所1

 先に言ったように、メモを失っていたのだが、思い出した部分があるので、先に書いておこうと思う。また、この比定が正当と思われる歌が、万葉集に残る。これらは次回に書く事にする。

 歌の内容からは、大国主の歌か、木梨軽皇子の歌のようだが、私は大国主の歌の方が相応しいと思っている。つまり、この歌は、新婚であるらしい妻(妹)を思う歌が多い。ここに、物語ではj省かれた話が残る。さて、どのような状況か?次回を、、。

  はじめに

 前回に次回は次の原文に進むと書いたのだが、その後に、メモの内の幾つかを思い出した。一つは、「蕪先(かぶらさき)」という地名があること。また、意味深な「入野(いりの)」の地名もある。

 カブラサキは、放たれた鏑矢の突いた先、入野は、ここから、カブラ矢を求めて野に入った地ではないかと、思われるのである。これに、呼応するのが、先に言った万葉集の歌だ。

 また、先の解説では、焼津(全体的)の話になって、スサノオと、大国主のこの場面のネズミの説明しなかったことに気付いた。この古事記の話のネズミは、根に住む人で変わりが無いが、自発的な援助ではないと思う。

 今回の話は大国主の試験体験だから、スサノオかスセリビメの指示に従った、ネズミが居たものと、私は解釈している。話だけでは理解できても、実際に遭遇すると慌てるものだから、実体験が必要なのである。

 また、オオクニヌシの試練が古事記の残るから、大国主が試練を受けて合格したと、各地に伝わって、神楽などで伝承していたと見てよいだろう。こうして大国主が伝えられて居たということは、この制度では一番若く合格したのであろう。

 また、実際に起こった焼津は、この史実が地名に残る。では、全国に知られたスサノオと大国主の場所は時間の闇に消えたのか?どうも、残っていたらしい。いわば、各地で知られた名所と言う状況であったと考えられる。

 つまり、人々に知られていたから、名所となり、万葉集に残る歌があるのだろう。万葉集も、誰の歌として有名になっていたのか、再調査、分類が必要であろう。江戸時代に判っていた地域さえ、明治以後に、奈良や京都に変えられたものがある。

 これらが、メモのあったことをも出だしたので、書き進めてきたが、実はもっと多くメモしていた。これらも、思い出す時に追加して行く事にしよう。

  スサノオと大国主の根の国は出雲か?

 現在の解釈では、スサノオが出雲に定着した解釈のようだが、天下った神は、現在の転任と同じく転勤する。高天原の組織は全国に多くて、特殊な例を省いて、定着する事は無かった。だから、全国各地に同じ神が祭祀されているのだ。

 スサノオも、出雲の成功を見た後、稲作指導で各地をしている内に、門下生ができる。先にも書いたが、指導を続ける内に、稲作に関する指導者が育つのだ。そうすると、スサノオが各地を訪問する必要が無くなる。

 それに、スサノオの推進した平野部水田が各地で成功を始めると、スサノオの人々の人気が高まろう。また、各地で開発していてスサノオの所在不明だと不便である。このために、当時の中心地であった高天原の近くに戻っていたと見ている。

 スサノオは年老いてくると功労者として、イザナギと同じ待遇で、高天原に居たようだ。これを思わせるのは、スサノオが、高天原の最初の気性の激しかったスサノオとも、出雲の聡明なスサノオとも違っている。

 この話のスサノオは稲作の成功で再び高天原に戻った頃で、元気一杯のスサノオではなく、話のスサノオは年寄りの行動だと私は思う。ここでも、当然のように、蛇・ムカデ・蜂の部屋に泊めたし、鏑矢を取りに入った野に、当然のように火を放った。

 これは、長い経験から得た当然の知恵の伝授であろう。この話が淡々と進んだ事から、このように感じるし、この後、自分の家に呼び入れる。これは、高天原の一角に作られた高床式の本当の住居であろう。このときの様子も年寄り思わせる。

 さて、以上のように、大国主の話は、スサノオが体験してよく起こることを選んだのであろう。こうなってくると、最初に全国の若者は高天原の演劇団に入って就業して、優秀な者は、今度は高天原で採取試験を受ける。 こうした制度があったようだ。

  大国主の試練の話は竪穴住居だ

 宇摩説では、「原生林の茂る平野部を根の国」と呼んだとといている。つまり、全国各地の平野部が根の国である。ネは根、寝などの字があるように、下の部分であり、暗いから、寝る地域とも言えたのだろう。

 この話は、室(竪穴式住居)の話であり、高天原の高床式の話ではない。だから、この試練は、宇摩平野から法皇山脈を南に越えた高天原ではなく、山を降りた宇摩平野(根の国)であったらしい。(カグツチの話でも宇摩平野を根の国とした)

 根の国の試練だから、面影を残す宇摩平野で試練を与えたと見られる。これは、この頃の全国の平均的生活に近い野原や、竪穴住居などが使われたためであろう。この鳴鏑の矢までは、竪穴住居の話になっている。

 以上で今回は終わる、次回は、万葉集や一茶など、この地の不思議と、万葉集の歌の内容などを紹介する。今日の話の記録に残る補足である。


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