はじめに

 昨年の下のブログで、スサノオがこの時になって、「大神」と書いている事を指摘している。史学は無視しているが、イザナギもイザナミと離別の後、禊して、大神になっている。つまり、働きが良いと大神に出世するのである。

 つまり、古事記で活躍すると、大神に出世する。ここに、明らかな能力主義の社会の出世の話が残されているが、史学は気付かないのか、無視している。また、後にある、明らかに格下げの話もあるが、これも同様に無視である。

卑弥呼の謎を解く(47) 古事記38
http://kabu003himiko.iza.ne.jp/blog/entry/56688/
宮つくり

 記憶では、この次のブログで、都牟刈の剣を返上して、新しい都牟刈の剣がスサノオに降ろされた。そこで、宮を作り、人々の情報を集め(クミドに起こし)て、この地の任命を行ったのである。つまり、新しいツムガリの剣を持った行為である。

 神話時代は、明らかに能力主義であり、日本では、2000年も前に、身分に関係無く出世することが出来たのある。このため、人々は高天原(お上・天)を信頼していた。この継承が、「日本人のお上任せ」なのである。

 今は、信頼に足るお上ではない。ここを指摘して革命を図るのが左翼である。しっかりした日本人と日本社会の認識を持って、時代に合わせて正確な判断が必要である。とにかく、今は「お上任せ、報道任せ」の時代ではない

 スサノオの大神就任は、天照大神の国固めに作られた「太鼓台」を悪用して、人々に難題を吹っかけていた地域の主の退治であり、これを成したスサノオが、この地域の主になったことを示すものだ。

  現解釈(前回再録)

 故、ここをもちて、その速須佐之男命、宮可造作(みやつくるべき)地(ところ)を、出雲の国に求(ま)ぎたまひき。ここに、須賀の地に到りまして、詔(の)りたまひしく、「吾此の地に来て、我が心すがすがし。」とのりたまひて、其地(そこ)に宮を作りて坐(ま)しき。故、其地は、今に「須賀」と言う。

 この大神(* ここで初めて大神)初めて「須賀の宮」を作りたまひし時、其の地より雲立ちのぼり騰(のぼ)りぃ。ここに、御歌を作(よ)みたまひき。其の歌は、

  夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾
  (やくもたつ いづもやへがき  つまごみに
            夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁
            やへがきつくる  そのやへがきを)

 ここに、其の足那椎神を喚(よ)びて、告言、汝は我が宮の首(おびと)任(た)れ」と、告(の)りたまひき。また、名を負(おほ)せて、稲田の宮主、須賀の八耳(やつみみ)の神と号(なづ)けたまひき。


 ここにも、椎・宮主、八耳神に出世。これは、国々の階級を示す一つである。なお、主はウシ(大人)とも呼ばれた。倭人伝にも「大人」の記録が残る。以上のように、国々(国津神)にも階級があったことが判る。


  古事記歌謡1

 古事記歌謡1の、「ヤクモタツ、イヅモヤヘガキ、、」は有名な歌だ。しかし、「八雲立つ」のは、歌の宮作りの地では見えないのだ。だから、史学語義では、出雲の枕詞と説明している。

 もくもくと立ち上がる雲は入道雲である。入道雲の下は雨雲であり、その上に立ち昇る雲など見えようはずが無い。つまり、この歌は、スサノオが何時も出雲の地に沸き立つ入道雲を見る地に居た記憶の歌なのである。

 法皇山脈にある水波峰(加賀山)から見下ろす、燧灘の先に、煤煙などで見えにくくなった今でも中国地方が見える。その中国地方の向こう側(つまり、日本海側、出雲地方)に、入道雲が湧くのが見える。

 スサノオは宇摩郡に居て、中国地方の向こう側に湧き出る入道雲(白く輝き盛り上がる雲)を見ていたのであり、その八雲立つ地に来て、ここに宮作りをするに当たって、「あの、八雲立つ地に宮を作る」と、思い出したのだ。

 ヤヘガキは、八重の垣で立派な宮を表すものだろう。もう一つ、宇摩説では、スサノオが平野の開拓を始めたと解いている。スサノオの状況では、各地で問題も出たり、訪問などもあって、落ち着いた自分の家を持てなかった様に思う。

 働きづめであったスサノオは、初めて落ち着ける場所を得たのである。しかも、新妻と宮と大神の地位を得たのである。そして、自分の判断で地域の人事を行い、大地域の大(王)を実感した。ごくろうさん!スサノオ、と言った所である。

  スサノオの平野開拓

 スサノオの妻は、「櫛稲田比売」という。「奇し稲田の姫」は、豊穣の神でもあろう。先には、大宜都比売との関係も残るし、宇摩ではウカノミタマ(穀物の神)と同時に祭祀されている。

 つまり、スサノオは何時も穀物の神とペアなのである。ここに、スサノオの隠された実態があると宇摩説では考える。しかも、今回のように、稲田の姫となれば、これまでの「山田」、「猿田」などと違って、平地の田であろう。

 何度か書いたが、簡単に稲作をまとめると、
最初の宇摩志阿斯可備比古遅神の稲作初期の田、「山田」など。
二期の猿田彦の「猿田」などで、この時代は「葦原中国」とも呼ばれた。
三期がスサノオの始めた平野の稲作である。

 天照大神の再生で話したように、この頃になると、鉄器も技術者も行き渡って、スサノオへの不平不満は減り、感謝もされるようになってきていたのだろう。スサノオは全ての点で、満足していた時期であろう。

 ただ、古事記はスサノオを出雲の神にしたまま移動を告げないが、私は、大神になって何年か後には、高天原に帰っていたと思う。これは、後の記録で話すことになる。それほど、スサノオの功績は大きかったものと思う。

 以上、駆け足だが、今年の方が詳しいと思う。


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