第一回のイワト隠れ  

 宇摩説の第一回として書いた、「卑弥呼の謎を解く(古事記編2)」に、イワト隠れの解釈が(41)と、(42)に書いてある。基本的には余り変わらない。参照されたい。

卑弥呼の謎を解く(41) 古事記32
http://kabu003himiko.iza.ne.jp/blog/entry/50693/
岩戸前の即位式準備、最終

卑弥呼の謎を解く(42) 古事記33
http://kabu003himiko.iza.ne.jp/blog/entry/51589/
大神の疑念、明るくなる

 ここで、これ等は芝居であることを書いている。古事記は、芝居にして全国に伝えられた内容が、村芝居や神楽などに残り、これを記録に変えたものです。そして、今もこの元となった神楽などが、各地に残っています。

 お神楽の、オカメ・ヒョットコが、神話のイザナミとカグツチと説明したように、芸能は史実を人々に判りよく伝えた名残なのであり、高天原や各地で起こったことが、芝居として残っていたのである。


  現在解釈(採録)

 此の種種(くさぐさ)の物は、布刀玉(ふとだま)命が、布刀御幣(ふとみてぐら)を取り持ちて登りて、天児屋(やね)の命は、布刀詔戸(ふとのりと)を言祷(ことほぎ)白(もを)して、天手力男(たぢからお)神は、戸の掖(わき)に隠れ立ちて、

 天宇受売
命は、天香山(かぐやま)の天の日影を、手次(たすき)に繋(か)けて、天の真拆(まさき)を鬘(かづら)として、天の香山の小竹(ささば)を手草(たぐさ)に結ひて、

 天の石屋戸(いはやと)に汗気(おき=桶)伏せて、踏登杼呂許志(ふみとどろこし)、神懸(かんがかり)なして、胸乳(むなも)を掛き出で、裳緒(もひも)を番登(ほと)に忍(おし)垂れき。ここに、高天原動(とよ)みて、八百萬神共(とも)に咲(わらい)き。

 是に、天照大御神、怪しと以為(おも)ほして、天石屋戸を細めに開きて、内より(の)りたまいしく、「因吾隠坐(われこもります)に因りて、天の原は自ずから闇(くら)く、また、葦原の中国(なかつくに)も、皆闇けむと以為(おもう)を、何由以(なにのゆえにか)、天の宇受売は楽(あそび)をし、また、八百萬(やほろづ)の神も諸(もろもろ)咲(わら)へる。」とのりたまひき。

 ここに、天宇受売白(まお)ししく、「汝命(いましみこと)に益して、貴き神坐(います)。故(かれ)、歓喜咲楽(喜び、笑い、あそぶぞ)。
如此言之間(かくまをすま)に、天児屋命、布刀玉命、指出其の鏡を差し出して、示奉天照大御神に示(み)せ、奉る時、

 天照大御神、兪<(シンニュウを掛ける。大げさにする。)。いよよ>思奇(あやしとおも)ほして、稍(やや)戸より出(い)でて、臨坐(のぞみ)ます時、其の隠れ立てりし天の手力男神、取其御手を取り引き出(いだ)す。
即ち、布刀玉命、尻久米(しりくめ)縄を以って、控度御後方みしりへ)に控度(ひきわた)して、白言(もうし)しく、従此以内(これよりうち)に、不得還入(かえりいりそ)」ともおしき。

 故(かれ)、天照大御神出坐(いでまし)し時、高天の原、及葦原中国も、自(おのづか)ら照り明(あか)りき。

 ここに、八百萬神共に議(はか)りて、速須佐能男の命に、負千位置戸(ちくらのおきど)を負(おほ)せ、また鬚を切り、手足の爪を抜かしめて、神夜良比夜良比岐(かむやらひにやらひき)。

  宇摩説の解釈

 この部分の表面上の解釈には余り、異論は無い。ただ、宇摩説では、高天原で行われた、天照大神の任命式であるとしている。仏教で生まれ変わりと言う後継者が居るが、日本では生まれ変わりの認識とは似ているが違うようだ。

 代が変わっても、同じ働きをする人(神)だから、同じだととの認識だった。つまり、総理は人が代わっても総理であるように、同じ天照大神とする。だから、再登場になるのであろう。

 倭人伝で、卑弥呼の年齢が「巳長大」とある。年を取っていた事もあろうが、一人とは限らない。人々は同じと認識してたから、百年でも生きたように言ったのだろう。後の話だが、この後の天照大神は、高御産巣日神と同時に出座し、援助の様子が判る。

 大神は高御産巣日を通じて、指示を出している。同じ立場になって、同じ呼び名でも、倭人伝によれば後継者は13歳である。補佐も必要であろう。この史実がそのまま芝居で残っていたと思われる。

 このように、高天原の状況は国々に知らされていた。これによって、イザナギ、イザナミの全国行脚で行った、高天原の様子を知らせる芝居(芸能)は、天照大神の時代も続いていたと判る。

  任命式の場所(石屋戸の場所)

 記述を細かく見れば、天照大神がイワヤから、覗いた後、鏡を見せられて、怪訝に思った「天照大神が戸より出た」とあります。その後、大神の手を取った手力男の神が、「引き出した」とあります。

 何故か二度も出ています。これは、最初に出た場所と、引き出された場所が違うとすれば、よく理解できます。つまり、天照大神は石屋戸から出られた。そこで、手力男が、手を取り、上の広場に案内(引き出)した、と言うことでしょう。

 でないと、天照大神の意思に反して手を握り、石屋戸から強引に引き出しのでは、不遜の行為になります。しかし、イワトの前から、八百萬神の居る広場へ、急な平坂を守護して(手を取り)導いたのなら、家臣の当然の行為になります。

 各地の芝居では、これほど細かい出座は無かったかも判りませんが、先に書いた宇摩の大元神社の巨石が、天照大神のイワトだとすれば、この二重に出てきた記録が生きてくるのです。

 だから、私は、この石屋戸隠れも、イザナギ・イザナミの最後の舞台だった場所と同じ所(舞台装置)で演じられたのだろうと、解釈しています。

  任命式の様子

 上の広場に八百萬神が集い、宴会をして、広場の端に一直線に群がって、下の様子を見ている中で、始まったのでしょう。また、宇受女の舞は上の広場であったように思われます。だから天照大神には戸から覗いたくらいでは見えません。それで、出てきたのでしょう。

 絵本では、戸の先に宴会の場面がありますが、この状態だと、出るまでも無く見えます。聞く必要も無いでしょう。

 また、鏡を覗いたのは、斜め上の様子が写されるのかと思ったものでしょう。
 また、天照大神と宇受女は声を掛け合って、鏡は別の神が差し出しています。
 なお、日本書紀の場面も検討して矛盾が無かったことを記憶しています。

 これらは、天照大神の居たイワトの場所と、ウズメの居た場所が違うという事を示しています。そして、大元神社の状況を知って、初めて、全てに矛盾無く解けることが判ります。

 こうして、宇摩説では、イワト隠れの通知も、この場所でされたとしています。
このような芝居が各地の神々を集めて行われ、知らされたのです。
もちろん、土産は先に作った鏡と農具であったことは、間違いないでしょう。

この後、人々にも知らせるために、一座が作られて、各地に知らせて回ったものと思います。私は、年に一度はこれ等の旅回り一座が、弥生時代からあったと思っています。

 以上で、イワト隠れを終わります。なお、先の中峰の広場の逆の写真(つまり、人々が端に立ったであろう場所)や、下からの写真、周囲の写真などが出てくると、乗せることにします。出来れば、大国主の話までに出れば良いのですが、、。


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