矢的竜のひこね発掘

矢的竜のひこね発掘

ご当地在住の作家が彦根の今昔を掘り起こします。

「最後の殉死」を書いたのは二昔も前のことだ。何人かの編集者に読んでもらったが、誰もが「長すぎる」と評し、特に印旛沼干拓の経緯をもっと簡略にした方が良い、という点で共通していた。

 

  納得できなかった。佐倉藩は十一万石と認定されているものの実収は八万石程度しかなく、老中並の地位にいた父・正盛に寄せられる各方面からの付け届け(賄賂)により、財政赤字を補填してきたというのが実態だった。

 

 その父が殉死した後を継いだ正信には、賄賂に頼る道はない。しかも年貢を上げる策に出て、百姓一揆を招き、佐倉惣五郎一家の処刑という最悪の結果を引き起こし、暗愚な藩主の汚名を被った。

 

 その結果、耕地を増やすしかない、との結論に至った。いわば背水の陣で印旛沼の干拓に乗り出した訳だ。ところが関東ロームの特徴か、一旦掘削すると地盤が脆弱となり土地改良工事は困難を極めるいわくつきの土壌だった。

 そうした悪条件下での干拓作業の実態を簡略に書いて、読者に伝わるか? 正信の挫折感に感情移入してもらえるか?

 

 結局、編集者との妥協に至らず出版は叶わなかった。その本をなんとか出版することができて、胸のつかえが取れた。

 

 予備知識として、もう一つお伝えしておきたいのは、権力の座を争う熾烈な争いだ。長子相続を原則とする徳川15代の中で5代綱吉、8代吉宗、15代慶喜の就任の裏にはキナ臭い事情が漂っている。

 

 吉宗は四男であり紀州藩主になれる可能性も低かったが、兄が相次いで死んだことで藩主になった。さらに徳川7代将軍家継が8歳で死に家康の直系が絶えたことで御三家から将軍を選ぶことになったが、有力候補の二人が次々に亡くなり、8代将軍の座に就いた。

 

 綱吉も有力候補の二人が都合よく死んでくれたので将軍の座を射止めたが、天皇家から将軍を迎えようと画策する動きもあったようで、決してすんなりと運んだわけではない。正史には書かれていない裏工作があったとしても不思議ではない。そのあたりも絡めて「最後の殉死」は書いてみた。

 

(表紙:左から表・背・裏表紙)

 

 余談だが先日、商工会議所主催の「CANVA 無料講習会」が開かれた。先着申し込み15人で締め切りとなっていたので、内心「10人程度かな? 女子学生や若い人ばかりで最高齢の参加者になるかも・・・」などと思いながら参加した。

 

 ところが当日は定員はるかにオーバーの満席で男女ほぼ同数、年齢層もさまざま。隣席は同年齢の男性でホッとした。

 

 2時間程度の講習会で高度なテクニックが身につく訳もないが、前の二作に比べると少しはスッキリした表紙になったかな、と思っている。

 

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