2日目
朝ご飯はバイキング。まずまず合格点。私たちには珍しい料理も(お祝いの席で出される汁物)あり、卵料理も調理方法が違うものを3種類並べていた。
案内をしてくれるTさんから電話
「思いのほか早く着いてしまって、もう、前に来てます」とのこと。あわててチェックアウトをして、初対面のTさんに挨拶をする。
20万キロ乗ってます、この車は。Tという姓は私たちの所では、石を投げれば当たる姓なので、みんな名前で呼んでます。石巻までは40キロあります。」・・・そんな遠いところから迎えに来てくださったのだ。・・・
というお話から始まって高速を走り矢本PA石巻ICと道を進め、いよいよ石巻市に入る 
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津波の被害を一番こうむった石巻市。瓦礫は取り除かれ、荒野となっていた。この工場の従業員は全員助かったそうだ。
津波から逃げた人たちの話を聞く。徒歩で高台に登った。置いてきた車は全部流された。車で逃げた人は信号の所で立ち往生してたくさんの人が亡くなったそうだ。今は片付いているけれど震災直後は・・・・・私たちがテレビで見たあの光景が浮かんでくる。でも、こんなに広いところが津波に一飲みされたのだ。再建されたところもあるが、残っている建物も取り壊すという話だ。イメージ 2
 
 
日和山から見た景色。卵形のドームは石ノ森章太郎館。ここにも津波は来た。この川は北上川。荒れ地の所はまだ復興が進んでないところだ。イメージ 5
 
 
桜はまだ咲いていた。青空と桜はよく似合う。四国の桜と、東北の桜2度の春を一時楽しんだ。(心は痛んだまま)
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                                          Tさんの職場があるという牡鹿半島を横目に万石浦を通り女川町を通り抜ける。入り江の隅々まで津波が襲い、被害の爪痕が見えた。大きな建物はまだひっくり返ったまま残されている。がれきの山が見え隠れするが、大分片づけられていた。
雄勝の役場で食事をする。海鮮どんぶり(かずのこ、うに、いくら、えび、ホタテなどはいっている)を食べ、雄勝の硯などイメージ 8   イメージ 7                               
 解体するのもお金がかかる。ほとんどの建物は解体される運命だ。
 
長面(ながつら)、釜谷を通り抜け尾崎へ行く。海だか川だかわからないがその近くに道路ができている。
「尾崎までは橋が落ちていたのでなかなか行くことができなかった。海になっているところには1000本以上もの松の木が生えていた景色のきれいなところだったのですが、沈んでしまって海になってしまった。元の畑地には砂がたまっているので取り除かないと作物はできない。お寺に逃げた人は助からなかった。小高い神社に逃げ込んだ人は助かったのですよ。カキの養殖をしているNさんの家は残っているように見えますが、住んではいけない地域になっていて、仕事に通ってきているんですよ。お墓も全部流されたから今基礎を作っています。」
道々、淡々と話してくれた内容が、悲しくて涙が自然にこぼれてきた。
カキの養殖をやっている尾崎のNさんがぷりぷりの牡蠣をご馳走してくれた。牡蠣の仕事をしていた人たちは明るい。(悲しみを秘めた明るさだろうか、今回出会った人たちはみんな明るくて親切だったが・・・)
広島の牡蠣と育て方がちがう。どんなに養殖をするかの説明を聞いていると、その傍らに新築かと思うような家があった。「完成してすぐに津波が来て、もう住めないのです」と話してくれた。牡蠣は11月には出荷できるとのことで愛媛から年末には注文しようと話した。その前に広がる湾の穏やかなこと。そんな悲劇があったとは思えない。イメージ 10イメージ 9
長面と尾崎、大昔の話。
馬が倒れたところで、頭があった方が長面、しっぽがあった所が尾崎という。
 
 
大川小学校のあった釜谷まで帰る。重機で湾の端を掘り起こしてる人がいた。あの人たちの家だったのかなーとつぶやくと「あの人たちは近くの知っている人です。」という返事が返ってきた。ここに来る人はみんな知り合いなのだろう。
      
子供たちがたくさん亡くなった大川小学校の前には慰霊碑が立ち、住民の被害にあって亡くなったたくさんの人の名前が書かれている慰霊碑が立っていた。お参りに来ている人がたくさんいた。「あのおじさんは毎日お参りに来ているんですよ。仮設住宅からかなりの距離があるのに。」
慰霊碑の前で祈る。小沢さんはお経をあげていた。慰霊碑などの写真は写せなかった。周りをトラックが走っている。イメージ 3イメージ 4
 慰霊碑が見える。
 
仮設住宅へ
Tさん宅を訪問する。奥様が待ちかねていたというように団地の前まで出迎えてくださった。
手仕事の好きなTMさんも来てくださった。お会いしたかったのでうれしかった。女同士話がいろいろ弾んだ。
『なくしたものは大きい、地域の人たちの繋がりが切れてしまった。こんなことを話したい、こんなことを聞きたいと思った時に「アーあの人はいないんだ」と、悲しくなる。そんな時は心が折れそうになる。泣いてしまう。』(さんの奥様の話)
次はIさんのお宅による。震災直後、支援物資の送り先だったIさん、Nさんの同級生だ。報告書の写真でははっきり見えなかったが奥様と、(おそらく)お嬢様にもお目にかかる。
消防団員だった息子さんをなくされている。
 
Tさんご夫妻が古川駅まで送ってくださった。列車が発車するまで見送ってくださった。
古川、仙台,郡山と新幹線に乗り、郡山から三春まで在来線(磐越東線)に乗る。
ここくらいからは全く分からないところなので緊張したが、三春駅で、T山さんご夫妻や、N島さんの顔を見てほっとする。
夜は、ミーテイング。T山ご夫妻、N島さんのご家族(奥さんとお母さん)、私たち3人、山荘のOYさんの顔合わせや自己紹介、どのようにして知り合ったかの話
OYさんはグリーンツーリズムをお世話したり、ラジオ深夜便でお話しされたり、いろいろ活動をされた人で東京から「ここがいい」と移り住んできた人たちだそうだ。だからお話も面白くたくさんの経験をされているので話が弾んだ。
 夜は寒かった。T山さんの言うとおり暖かいパジャマを持って行ってよかった。