バイアスバスター日本史講座

バイアスバスター日本史講座

バイアスがわれわれの判断を狂わせる最大の原因……。
バイアスを退治して、みんなで賢くなろう。
和製シャーロック・ホームズ祖父江一郎のバイアスバスター日本史講座。

バイアスバスター日本史講座(331)

重要事項書き抜き戦国史《165》

ストーリーで読み解く桶狭間合戦《55》

信長はどのようにしてつくられたのか(その三十一)

 

 中条流平法が持平から甲斐氏、朝倉氏へ渡った本当の理由がようやく見えるようになって参りました。ただし、甲斐将久や朝倉教景が持平のために骨を折ることで義教の怒りを買う恐れが多分にありましたから、持平と教景、将久が早くから平法中条流の師匠と弟子の関係にあったとみなしませんと、単なる美談で終わってしまい、ご都合主義に堕してしまう恐れが生じます。弟子としての立場から中条流宗家と師匠の苦境を救うことは利害損得を超えた判断基準ですから、蓋然性は高いといえます。

 中条持平を師匠と敬い、身の危険をも顧みないで忠実であろうとする師弟の姿が、赤松満祐には実に魅力的で、世の中が行くべき道を示すものとして目に映った、と、そのように考えると、どのようなことになりましょうか。怨恨だけではおのれの身の破滅に直結する「義教暗殺計画」を決行できなかったと考えますと、満祐に義教暗殺の機会と手段を思いつくきっかけを与えたのは、実は結城合戦だったことになります。

 さて。

 甲斐将久が代表する恰好で持平から受け継いだ平法中条流は、彼の手で甲斐八郎左衛門敏光(将久の子)、朝倉景孝(英林孝景の誤記)、大橋勘解由左衛門尉に伝授されます。しかるのち、文明十三(一四八一)年七月二十六日に英林孝景が亡くなったとき、平法中条流は大橋勘解由左衛門とその弟子山崎昌巖から、さらに富田九郎左衛門長家へと伝わるのですが、長家が一乗谷に開いた富田道場から富田勢源、名人越後と呼ばれた富田重政らの剣豪を輩出するに至ります。

 しかしながら、天下布武の規範に結びつくのはそっちの流れではなく、時期としては英林孝景が存命中のことになりますから、関連しそうな出来事となりますと、蓮如による文明三(一四七一)年の吉崎御坊開山のほかにはあり得ないことがわかります。

 蓮如が対外的な基本方針としたのが王法為本主義でした。社会から切り離した仏門では仏教が基本だが「世の中では正しい王道が基本」とするのが蓮如の唱えた王法為本です。仏教界の現状を見聞きしてきた蓮如の目には、仏教界も世の中も放置できないまで歪み切ったものでた。その際たる存在が「万人恐怖」と恐れられた足利義教です。自分が修行した比叡山延暦寺の末寺青蓮院の門跡が還俗して足利将軍となって現れると、仏門にあったときとは似ても似つかない我欲をむき出しにした権力の亡者であった事実が、いつまでも脳裏を離れなかったものと思われます。

 義教の狂態ぶりはこれまでにも言及して参りましたが、弟の義承を天台座主として送り込むことで比叡山延暦寺の取り込みを策したときのことは、延暦寺の末寺青蓮院で義教に師事して学んだ蓮如には忘れようとしても忘れられない悪夢でした。義教の思惑にもかかわらず、案に相違して永享五(一四三三)年、延暦寺山徒から幕府山門奉行飯尾為種の不正を告発される事態に直面します。義教は満済や管領細川持之に強く勧められ、仕方なく為種を配流することで事態を収拾します。ところが、山徒たちは勝訴したことで勢いづいて訴訟に加わらなかった園城寺を焼き討ちしたため、義教は激怒してみずから兵を率いて比叡山を包囲する事態に立ち至りました。驚いた延暦寺が降伏し和睦を申し出たことで事が収まったかに見えたのですが、永享六年、延暦寺が鎌倉公方足利持氏と通謀して義教を呪詛していると聞くと、義教は近江守護京極持高に命じて寺領を没収させる挙に出ます。延暦寺は対抗して神輿を京に送り込み、示威行動を繰り広げる騒動に発展、対立が激化の一途をたどりました。そのため間に入って融和策を図ろうとしてきた細川持之をばじめ幕府閣老五人が揃って「比叡山赦免に同意が得られなければ、われらは屋敷を焼いて領国に引き揚げる」といいだす始末。義教はようやく折れて和睦に同意するのですが、その後も幾多の経緯を経て、延暦寺が送った山門使節四人の首が刎ねられるなど、義教の執拗で横暴な振る舞いがつづくに及んで、山徒みずから根本中堂に火を放ち抗議の憤死を遂げる事態となったものです。

 蓮如の目から見ると、義教も叡山側も「どっちもどっち」に見えたはずです。そういう目で見ていくと、中条持平と甲斐将久、朝倉教景の師弟関係こそこれからの世の中の向かう方角を照らす灯でした。だからこそ赤松満祐もわが身を犠牲にして「義教暗殺」の自殺行為に走ったわけです。そうした彼らの生きざまに時代精神を感じ取った蓮如が目指したのが越前国であったということは、偶然のようでありながら、避けようのない必然の力が働いたとみるのが自然でしょう。

 それはさておき。

 義教も叡山側も「どっちもどっち」に見えたとは申しながら、山徒がみずから根本中堂に火をかけるといった自傷行為は、明らかに世の中への警鐘です。中条持平と甲斐将久、朝倉教景の師弟関係こそこれからの世の中が向かうべき方角を照らす灯でしたから、赤松満祐もわが身を犠牲にして「義教暗殺」の自殺行為に走ったわけです。しかしながら、警鐘のみ響いて行く手を照らす灯という肝腎要の出来事は知る人ぞ知るのみ。ところが、知る人の一人蓮如のほかに、知る人がもう一人おりました。それがのちに蓮如にわが分身と認められ、下間蓮崇を名乗る安毛心源だったのです。心源は義教が満祐に暗殺された直後に、一向宗和田本覚寺に小僧として雇われています。偶然の一致とするよりも、心源が志願して一向宗和田道場の本覚寺の小僧を志願したといったところでしょうか。

 蓮崇の出現は天下布武のストーリーに少なからぬ影響を与えます。彼を幹としてそこに光を当てるだけで、思いもよらない枝葉が忽然と現れて、数々の失われたはずの出来事を掘り起こします。天下布武のストーリーでは主役でも脇役でもないわけですが、触媒として小道具的に果たした役割は特筆ものといえます。

 どういうことかと申しますと、蓮如の天下布武を念頭に置く体制づくりに蓮崇は不可欠の人材だったという点では立派に登場人物視が可能なのですが、それらをぶち壊しにしたという点により重きを置くと、説明としては登場人物とみなすよりも小道具として扱うのがふさわしいというようなことになりましょうか。

 しかしながら、世の中の行く手を照らす明かりという意味合いから申しますと、天下布武を担うにふさわしい有資格者に求められる資質が「武勇・情愛・慈悲」であり、それが規範として明記されていることを知る者が、蓮如・蓮崇の師弟だけだったというはずがなく、そうした資質の発露というべき事案の当事者たちが綺羅星のごとく存在することを忘れてはならないわけですが、当座は蓮崇にスポットライトを当て、蓮如との出会いに言及していくことに致します。

 

                     《毎週月曜日午前零時に更新します》