私たちはロボットじゃない。

完璧なんかじゃない。

いつも何処か、何かがかけていてそれを他の誰かや何かが補う。


誰にだって失敗や間違いはある。

“生”について語ったらきっと

「それっぽっちしか生きてない人間が語るな」

なんて言われそうだけれど……

私は今日(こんにち)までに、数え切れないほどの間違いと失敗を犯してきた。少し考えればきっと予測できていたものだってあっただろう。

同じ失敗や間違いでも、許されるものとそうでないものがある。

私はこれまでに後者をいくつ積み重ねてきたのだろう。

きっと自分が思い返したくないと記憶にフタをしているだけで、自分の身長よりもはるかに高く後者を積み上げてきてしまったんだと思う。


(大人と子どもの境界線は私にはわからないが、ここでは20歳未満を子どもという事にする)

私は未成年の期間、所謂子どもと呼ばれる時間を過ごした方が圧倒的に長い。

私が失敗や間違いを犯してしまった時、いつだって大きく頭を下げるのは上の人だ。

親や先生、バイトリーダー…etc…

“上の人”“下の人”というと、ヒトを区別ではなく差別しているようであまり使いたくはないのだが、ここでは少し許して欲しい。

下の人が失敗や間違いをすると上の人が謝る。

上の人が失敗や間違いをするとその人が謝る。

一見すると、当たり前のことなのかもしれない。

親や先生、バイトリーダー等にはそれなりに《責任》が伴う。

失敗や間違いを犯してしまっとき、犯した本人の信用が崩れてしまうのは理解ができる。

なのに、本人の信頼よりも上の人たちの信頼の方が崩れて言ってしまうのは何故か、私にはわからない。

私が責任をとる側のヒトになればわかることなのだろうか。


繰り返し言うが、誰にだって失敗や間違いはある。

上の人がどんなに優秀だったとしても土台(下の人)がしっかりしてなければ上手くいかない。

人間関係だけではなく、全てのことにおいて、土台はきっと重要なんだ。

責められる“べき”ヒトなんていない。

それなのに、上の人は責められ続ける。

何故それを誰も助けようとしないのか、手を差し伸べようとしないのか。

《上の人が責任を取る》とかいう一般論が当たり前だからなのか。日常茶飯事だからなのか…

私には到底理解し難い。


誰もがよく言葉にする“責任”の正体はなんなのか。