先日、ブログで触れました八瀬童子。なんと京都文化博物館で展覧会やってました。


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歴代天皇からの綸旨とよばれる書簡などが重要文化財に指定されていたんですね



後醍醐天皇が、比叡山に逃れる際に警護した功績から、数百年の間、赦免地として税免除の特権を天皇から直接認められ、御輿を担ぐ任まで与えらる、という特別扱いっぷり



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八瀬童子についての詳しいことは以前にもご紹介した東京都知事の猪瀬直樹氏の著作『天皇の影法師』に収録されています。


謎や…面白すぎる。



でもマニアックすぎる。



長い歴史の中で様々な権利を守る為に苦心する八瀬の人々の様子が見える、展示内容です



噛み砕いていうと、八瀬の人々、けっこうワイルドなんです。隣村との境界争いに限らず、なんと延暦寺ともケンカします。


その争いごとに効力を発揮するのが天皇からの綸旨。



明治以降大きく変化した日本の国家観。戦後の歴史教育のあり方など180度発想を変えないと、血の気の多い山里民のケンカと利権獲得の歴史みたいに誤解されますね。
武家社会になって幕府が日本を統一支配して天皇に政治的権力はなかった、という考え方も今は昔。



では、八瀬の人々がそこまでして守ろうとしたものは何なのか?



田畑の少ない山里で自分たちの生活基盤の確保というだけでは言い表せない何かがそこにあるだろう、と思います。



推測ですが、八瀬の地が京都から日本海へ抜ける交通の要所で、御所や貴族の邸宅が左京に寄っていたのと関連あるかなー、実際に後醍醐天皇は八瀬から京都を脱出したわけで



八瀬の人々がその道というか、権利というか、守り続けたのにはそれは今の「日本人」にはとうてい理解不能な天皇に対する宗教観があったんだと思います、がそれは難しい話なんで…

結局彼らの長い守りは明治以降だんだん薄れていくわけで



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●京都清水焼 やまなか雅陶
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