もう39なんですよね、、
早いものであっという間の一年。
本当に辛かった一年。
そして、温かい人に囲まれた一年。
本当の意味での信心に出会えた一年でした。
悪夢のような出来事が始まったのは、一年前のこの日。
当時、結婚しようとした相手の方と自身の両親に合わせに。
祈って戦ってやっと出会えた相手でした。
それにいろんな意味で親孝行できるような方でした。
ところが、悪鬼入其身というのはこういうことなんだろうか。
普段から先生先生と言っていた人が、聞くに堪えないような発言を繰り返すようになったのは。
相手の年齢のこと。高齢から産まれる子供は奇形児が産まれる。離婚するに決まっている。相手にたぼらかせられている。マインドコントロールされている。自分(親)を彼女は愚弄している。育て方を間違えた。 これ以外にも多数傷つけるような発言をされました。
私のいないところで彼女に結婚はなかったことにとも言われました。
一般の人でも言わないような事を平気で言う。挙句の果てに、脅迫まがいのことまで。
誕生日が近づくにつれ、こういった発言を思いだし、精神的にも疲れ果て、毎月の通院、カウンセリングがどれだけ心のケアになったか。
日曜日は、地区座がありました。
活動報告の時に、詳しくはお話ししませんでしたが、自身が今通院していることを初めて公にして話ました。 なんでだろう。。
以前だったら、良いことばかりしか言わなかった。たぶん、親からそういう個人情報は話すなということを言われていたからだろう。でも、そのことにずっと違和感を感じていた。
そもそも、学会は病人、貧乏人の集まりと言われていたし、実際にそうだったんだろうと思う。でも、そこから自分は今こういう状況だけど、こうやって宿命転換しました、境涯革命しました!と変わっていく、それを見聞き、また体験することが大切なんだろうと思ってます。
親は人間関係に悩み、まだ解決してません。
先生が戸田先生から、組織は好きか?と聞かれた場面が人間革命にあります。嫌いだって答えた先生に、じゃぁ好きな組織にしたらいいじゃないか!とおっしゃっていた。
そこに大切な要点があるんだろうと思う。 残念ながら、親は組織から離れている。
人間関係に悩まされ、でも結果その解決ができてないから、、、結果的に、彼らが親にしたようなことと同じようなことを、私や彼女にやった。 でも、彼らと同じようにそれに気付いていない。いや、それ以上に、自分が正しい、いつか感謝されるときが来るとまで言ってのけた。
今はかわいそうだとかそこまで思えない。今は自身の
育ててもらった感謝はあります。沢山の苦労をしただろうと。
でも、本当に辛い時、本当に寄りかかりたいと思った時、それが自分にはできなかった。
信心というきれいごとだけですまされてしまったから。
自分の立場になって同苦(同苦ということ自体、相手の立場に立ってするものですが)、をしてくれる人がいなかった。 少なくとも家庭には。
だから、学園にはいる時、自分は自分の命が短くなってもいいから入りたいと願い、必死に勉強し、3度目で高校に入った。
そして、毎日に高校から帰宅するのが嫌で嫌でたまらなかった。やっと心から笑うことができ、切磋琢磨し、または辛い時に寄り添う親友ができ、そして先生の温かい慈愛に触れることができたから。
今、通院をしカウンセリングを受ける中で、自分の命を一ミリたりともおろそかにすることは謗法なんだよって教えられた。そして自他ともに幸せになる、という意味を理解できた。
認知行動療法というカウンセリングをして、生き方を変えることを学んでいます。
自分の心の奥底にある3歳の自分、この自分をこれまでどれだけ抑圧し、苛めぬいてきたか。 理不尽なこと、嫌な事に対して我慢するのではなく、嫌なものは嫌だとはっきりと言ってもいいんだ、辛いことも辛いって言っていいんだ、そして理不尽なことに対しては怒っていいんだ(これは相手を目の前にしてやるのではなくて、自分ひとりでなんですけどね (笑))。
⇒これをダダコネ療法というらしい。
こうやって3歳の自分が快か不快か、不快なことに対しては、同苦してあげ、嫌だと駄々をこねる、こういう作業をするなかで自身の業を少しずつ少しずつ剥がしていくんだと。
たまたま誕生日前日にカウンセリングがあり、ここのところの不調を全てお話しして、医師からは、もっと3歳の自分を大事にしてあげなさいと言われました。
そして、それだけあなたがこれまで生きてきた中で、親から受けた傷というのは大きいんだよと。
こうでなければならない、こうあるべき、それは自分の気持ちから背反している時には、自身の本当の気持ちを押し殺して我慢させていることになる。こうなりたい、こうなっていきたい、という捉え方とは全く違う。
その先生のあるセミナーでの講演で「慈悲」についてこうありました。
★★★一番落ち込んでいる自分、一番惨めな境遇に苦しんでいる自分、また、一番不安がっている自分をこそ大きな心で包んであげる。温かい目で見守ってあげる。それが「悲しみを慈しむ心」すなわち「慈悲」であると。最悪の時に、自分をその慈悲の心で包む。そこに魂の勝利の姿がある。その生命で自分を包める人は、もう悲しみは単なる悲しみではない。慈悲の心に包まれたその悲しみは、そのままで、勇気に転ずるであろう。また、絶望は希望へと転じていくだろう。その生き方の中に本当の意味での人間の魂の勝利の生き方がある。そういう心で自分を包める人は、また、絶望に苦しんでいる人を我が事のように、温かい心で包んであげられるでしょう。 でも落ち込んだ自分を、こんな自分は情けないと嫌う人は、そこから立ち直った後で、同じように落ち込んだ人を見ると「かわいそうに」とは思うでしょうが、心の奥底では、「弱い人だな、自分に負けてだらしない人だな」と見るでしょう。自分を見る目が他の人を見る目なんです。したがって、最悪の自分を慈悲の心で「大好き!」と大きく包みながら、「偉大なんだ」と本当に尊敬できる人は、また、他の人をも尊敬できていくんです。
「御本尊」と言いますが、「本尊」というのは「根本尊敬(こんぽんそんぎょう)」を略した言い方ですね。この根本の「本」と、尊敬の「尊」で「本尊」ですね。
これは池田先生の指導ですが、「何を根本として尊敬するのか。それは自身の生命である」。自分の生命を根本として尊敬する。根本ですから、何かができるから尊敬するのでもなければ、大失敗をしたから尊敬できないのでもないのです。どんな境遇にあろうとも自身の生命の尊敬から出発する。これが御本尊を持(たも)つということです。これが大聖人の仏法なんですね。
★★★(一部抜粋)
苦労した人、それを乗り越えた人は、相手に対して優しくなれる。同苦できる。そういった意味で、人を結果的に傷つける人は例えその人が偉い人であろうと身内であろうと、その人の生命の尊厳を傷つけることに違いなく、また正しいか悪かで見た時には「悪」なんだろうと思います。
このブログを見る人にとっては親不孝とみられるかたもいるかもしれない。
親に感謝、それはわかっていることです。
少なくとも育ててもらったことへの感謝はあります。そしてそれを毎日祈ってます。ただ、それとこれとは違います。
正しき信心、本当の意味での信心という観点に立った時、明らかに間違っている。先生はどこまでも相手の仏性を信じ、励ましていく。それが先生のこれまでの御行動です。それに照らせば、明らかに反している行動です。
といっても、今の彼らにそれがわかるわけでもなく。
だから、自分はそうならない。そんな家庭を築きたくない。
相手をどこまでも信じ、また包み込んでいける家庭でありたい。
自分と違う考えの人を理解しようとせず、見下すような人でありたくない。
正しい仏法の観点で物事を見極められ、自身を卑下するような苦しみをしている人を温かく包み込んでいける自分でありたい。
一昨日の会合後、とある婦人部に呼び止められ話をすることができた。
その方に、これまでのことを話をして、温かく、何かあったらいつでも家においでといってくださった。これが本当の温かさなんだろうなぁって思いつい涙してしまった。
家族として心を開いてぶつかったり、または温かく包み込んでもらったことがないから。。
色々やってくれたんだろうであろうけど、子供の立場からしたら、温かみを全く感じなかった。やってあげたそういう風にしか感じられなかったから。
本当の意味での家族の温かさを少し感じられました。
ツラツラト思いを書いてしまったけど、環境は違えど同じように苦しんでいる人は沢山いるんだろうな。。
今は、カウンセリングを通して、自分の生き方、境涯を少しでも変えていきたい。
また、自分の願を叶えていきたい。
自分が幸せにならなければ人も幸せにできないですよね。
自行化他ですから。。。
今日一日、少しでも陰鬱した気分でなく、温かい明るい気持ちでいられますように・・・・・。