久しぶりに怒りと呆れましたね、、、

某元議員、このタイミングで議員会館に部外者を泊めるって、、、、アホか。

まぁ、個人的何やろうがどうぞご勝手にです。

でも、支援している人間が裏でどれだけいるのか、もっと考えろって思う。

一旦、皆さん自力で選挙やってください、、、、。一人ひとりがどれだけ政策について誤解を解きながら説明しているか。立正安国の闘いですけどね、、でも、だからといって支援してもらうのが当たり前と思うなって。

 

前〇氏の勝つためには何でもやるって、、呆れるというかなんていうんでしょうかね、、、

理念も政策も何もない、そのあなたが政権とって何やるんですか??

勝つためって勝ったら何やるの??それがなきゃ政権取る意味がないよね。。

震災の時の原発対応のモタモタ、貴方たちがやったんですよね?

まぁ、そもそも先に離党した人たちも、今の民主の幹部も、政権当時何もできなかった人たちですからね。。

口だけ番長さんとその仲間たちは、劇場から退場してください。あなたたちが政治からいなくなればもっと日本良くなると思いますよ。。

 

そんな怒りと呆れたこの頃。

それでもこういうアホが当選するだもんね、、、、、。なんなんだろうか。。

 

 

 久しぶりにブログ更新です。

 

 法戦が終わり、また友好期間も終わりました。

 

 5月に通院先の先生からもう一度100万遍挑戦してみよう!というお話があり、毎日1時間チャレンジしています。ありのままで祈れるようになったのか、最近お題目をあげると心の底からふわっと凄く軽い感じになります。そして、小さいことですが一つずつ叶っていくことに凄くびっくりもしています。

 

 殆どの男子部の人が家庭訪問しても一度も会えなかった人に、その人に会って話をしたいと祈る中でたまたま行ったら会って話ができたこと。仕事の都合で会合に出れず、また家庭訪問しても殆ど居ない方にも会うことができ、胸襟を開いて話すことができたこと、、、等々。

 良く誓願の祈りという言葉を聞きます。でも、当初からそんな祈りをすることってすごく難しいと思うのです。 祈っている本人が心の底からそうしたい、そういう祈りができなければ、叶うものも叶わないのかなぁ?って。 

 先生の御指導で「ありのままの自分で」とあります。本当にそのままなんだろうって思うんです。ありのままの自分で、こうしたい、こうしないと嫌なんだ、、そんな自分の心の底で感じていることをそのまま祈る、これが凄く大事なんだろうって思います。

 今まで、こうでなければならない、こうあるべき、そんな自分の心がついていかない状況で理想像を追うような信心を学んできました。 でも、自分の心がついていかなければ、それは本当の願いではないですし、そう願っていないから叶わなかったんだろうって思います。

 

 最近、本部で、高校時代の同級生とたまたま会うことができました。

 また、翌日は、大学時代の同級生と数人で集まって話すこともできました。

 卒業してもう20年近く経つけれども、胸襟を開いて話すことができ、また元気を沢山もらいました。 大学時代の同級生は同じ寮で2年間過ごした仲間です。

 私自身の昨年の出来事を話した時に、いつでも連絡してこいよ!って言ってくれた何気ない一言、凄く嬉しかったです。 

 自分には、胸襟を開いて話すことができる友人が沢山いるんだなって。

 自分にとってこの友人達が本当の意味での家族代わりになっているのかなぁって凄く感じます。自分の居場所があるというか、心がほっとできる場所という意味で。

 

 また、来月、寮のメンバーで会おうって言う約束をしました。

 さぁ、また一日一日がんばろう!!

 

 最近、色々と挑戦することが増えてきました。

 体調のことを考え、ジムに通ってダイエットに(笑)

 そして、今まで音楽すら殆どやったことないけれども、、ヴァイオリンに挑戦してみようって思って、知り合いの友人に話をしたら、知っている人につなげてもらったりと。。

 なんだか楽しい毎日になってきたのかな、、

 

 色々とあってやっと一年が経ちました。

 この一年、親友、男子部、また周りの地域の方々のお蔭で、またここで出会った方のお蔭で生きてこれることができました。

 

 人生、大なり小なり、いろいろなことがあります。

 他の人にとっては、そうでなくても、自分にとっては大きく感じたり、辛く感じたりするのはおかしいのか、、、それは違うんだなって心の根底から理解できるようになった気がします。

 

 そして、教育というものの重要性を改めて感じました。

 ガチガチに厳しく育てるのが決して正しいものではないと思うし、また反対に、いい子いい子で自分の本心に蓋をして生きるのも正しいものではないんだなって。

 多少、我が儘であっても、またその時道を外れてもいいんじゃないかな?って思うこの頃です。

 自分はまだ子供を育てたことがないので、分らないことだらけですが、、自分が育てられたようには絶対に育てない、そう思ってます。

 どれだけ子供の立場にたってあげられるか、なのかな。。

 子供の話を聞いてあげたり、また辛い時に一緒に共感してあげたり、また温かく包み込んで安心して生きれる、そんな教育をしてあげたいと思います。

 

 戸田先生の御指導で、自身が仏(南無妙法蓮華経)だと決めることだと、あります。

 仏の境涯とは、どんなことがあっても大丈夫、そう思える大安心のことなんだよ、とカウンセリングで繰り返し教わっています。

 大丈夫、と思えるからこそ、難があっても楽しい、難こそ誉れ、そういう境涯なんだよと。

 この信心を人に勧めるのは、こういう境涯になっていけるからですよね。

 それは、子供を育てることも同じなんだろうって思います。

 

 先日、親友の引越しを手伝いました。  

 業者が持って行けなかった荷物は、親友の両親の車を使ってもっていきました。

 たまたま、親友の父親にあったのですが、車に乗せた植木鉢とかで車が汚れてしまっていましたが、全然大丈夫だよ、人生なるようになるさ~って考えだから、と言っておられました。

 その言葉が自分には凄く心に残りました。

 こういう余裕は、一つの優しさなんだなぁって。

 

 自分は小さい頃から、育てて下さった方の繰り返しの発言を覚えています。

 「自分は彼らにこうしてあげたんだ」と。

 この発言の言い回しがずっと気にかかり、何がおかしいのか、やっとこの一年で気付きました。

 人に尽くすことは尊いことです。しかし、それは、ごくごく自然な気持ちでこの人のためにこうしてあげよう、こうしてあげたい、それが発露のはずだと思います。であるならば、こんな発言をでないだろうと。

 どこか上から目線で、どこか自然なものではないんですよね。

 こういう考え方だから様々なことが生じてきたんだろうって。いつ彼らが気付くかわからないですが・・・・。

 だから、どこか彼らのいうことが自分の心には突き刺さらないんですよね。

 池田先生の御指導や激励は、何故心に突き刺さるんだろう、そういつも思ってました。それは、きっとその立場の人のことを心から激励され、温かく包みこむからだろうと。

 

 先日、カウンセリングの際に、池田先生の御指導で親孝行の話がありますが、それと自分の今の彼らへの怒りの感情、許せないという感情がぬぐえず、悩んでいるということを正直に吐露しました。

 先生には、それでいいんだよといってもらい凄く楽になりました。 

 親孝行ってどういうことなのか、以前ブログにも書きましたが、3種類あると。

 下品の親孝行、中品の親孝行は、物を買ってあげる、親の言う通りにするです。

 でも、これは本当の意味での親孝行ではない、と。

 上品の親孝行とは、親に信心の正しさを教えてあげることなんだよと。

 私にとっての親孝行とは、本当の信心を教えることなんだと。

 そして、今まで私が受けた教育、昨年の出来事は、あなた自身を大きく大きく傷つけられてきたんだよと。だから、一年経っても傷がなかなか癒えないんだと。

 そして、自分自身でも自身を傷つける癖がついてしまっているんだとも言われました。

 

 どんな状況であっても池田先生は、私たちを信じる、とおっしゃってくださっています。

 師匠がそこまでおっしゃってくださっているのに自分自身が信じてあげられないことこそが謗法と同じなんだよと。

 自分という仏を信じられない、つまり不信なんだということなんでしょうね。

 5月、6月の大百蓮華の先生のご指導を読んで、まさにこのことなんだなぁって思い、またこのタイミングで掲載されたことに、自分にとって凄く意味があるんだなぁって思いました。

 

 良く、DVを受けた人は、また子供にDVをしていくという負の連鎖があると聞きます。

 きっと、自分もこういうことがなかったら同じことを自分が気付かずにしていたんでしょうね。

 毎日毎日、怒りや悲しみとの葛藤をしたり、なかなか傷が癒えないことに対する苦しみにもあえいでいたりしますが、でもそのありのままの姿を自分が受け入れ、温かく共感していくことは少しずつできるようになったと思います。

 

 人をどれだけ大事にできるか、それは他人だけでなく家族にも言えることですよね、、、、。

 決して、自分の苦しみに蓋をするような、そんな家庭ではなく、ありのままで、安心するような家庭でありたい、、、ですね。

 色々あるかもしれませんが、、、 

  

 

 

  

 

 

 

 

 様々なことが起きたこの一年。

 今凄く思うのは、信心とは自発的な気持ちでやるものだと思う。

 こうあるべきだ、こうでなければならない、先生がこうしているんだから弟子のあなたもそうでなければならない、こんな考え方を教わってきた信心。

 だから、自発的と思っていた、いや思い込んできた、自身の気持ちを押し殺してきたそんな生き方だったと思います。

 桜梅桃李、という言葉、簡単な意味です。

 ですが、その簡単な意味ですら表面的なところでした理解できてませんでした。

 桜梅桃李、と言いながら、白か黒か、そういう見方をしていて、黒であるものに対して、見下したり、自分は違うんだ、そういう差別的な見方をしていたなぁと今、カウンセリング等々を通してわかるようになってきました。

 家にいたころ、彼らの発言にずっと違和感を感じてきました。

 近年では、保育園に通えない親の叫びが問題になった件について、理解できないと発言。

 そして、普通、保育園になんていれないで家で育てるべきで、そんな発言すること自体自分には理解できないと。。

 それぞれ家庭にはそれぞれの問題があり、保育園もその問題解決する一つの場所だと私は思う。結局、自分の考えは全て正しい、間違っていない、だからこそ、ほかの考えを許容する力が欠けていることから、この発言がでてきたんだろうと、感じます。

 自分はこうしてあげた、常に上から目線であり、またこうしてあげたという考え自体が、相手のためにという観点ではないのだなってすごく感じてました。

 私自身も相手の為にとやったことに対して、相手がなんら反応やらないとき、なんで!という気持が起きたりしてきました。ある時、先輩に、相手が本当に求めていないことをあなたがやってあげた、というのは自分本位の観点であり、またおせっかいにもなるんだよと言われたことがあります。その時、あまり素直に受け入れることができなかったけれど、この一年色々なことが起こり受け入れられる自分になれたんだなぁって思います。

 今でもはっきり覚えていることがあります。

 彼女との結婚に反対した彼らの発言で、「反対したことについて、いつか私たちに感謝する日がくる」と。

 はっきり言いたい。絶対有り得ませんと!

 その発言自体があまりに傲慢で自己中心的なものであるか。

 

 この一件で、多くの方と縁することができました。

 その方々と接すると今まで思っていなかったような人としての温かさ、学会の温かさを感じることができ、自分もこうでありたいと思うようになりました。

 今までは自分は間違っていないんだとある意味傲慢な考え方だったんだろうと思います。そして自分の考え方と違う人に対して、その考え方を認めるような気持であっても、どこか自分は違うと親たちと同じような考え方でいました。

 病気になり、またカウンセリングを受けるようになった今は、人それぞれ違う生き方に対して、そういう生き方も全て意味があるんだよなって心から思えるようになりました。

 

 先日、友人夫婦の御姉妹の話を聞きました。

 小さい頃は学会活動に励んでいたけれども、ある時をきっかけに信心から離れ、反対し出した。でも最近色々なことがあり、お題目を三唱するようになったと。

 そこから、優しい表情に変わったと。。

 (すみません、かなり簡単にはしょりました)。

 きっとその方は、素直な気持ちでお題目をあげたからこそ、一瞬にして境涯革命できたんだろうなぁって。

 また、その周囲の家族もぶつかることはあったんだろうと思うけれど、でも温かく見守ってきたことが、一つの因なんだろうって思うんですよね。

 

 昨日の記事に、靴を揃えない自由、という内容のことがかかれていました。

 普通は、靴を揃えなさいというのは本来ですよね。しかし、靴を揃えない自由という、観点から物事を見れる、それこそが本来の人を温かく包み込む慈悲の精神なんだろうって思いました。 

 続けて、ある壮年の話も。信心から離れている壮年に対して、失職をきっかけに親がお題目あげようと声を掛け、お題目をあげるようになり、就職が決まったと(こちらもざっくり内容ですみません)。

 

 カウンセリングでは、良く教師と生徒という関係で説明をうけます。

 できる生徒とできない生徒がいるとする。できる生徒には当然褒める。でもできない生徒に対して、教師はどう接するのか?

 なんでできないんだ?と責めたり、見下したりするのか。それとも、大丈夫だよ、今できなくても心配しなくていいんだよと温かく包み込むのか。

 この仏法は当然後者ですよね。

 しかし、私の生きてきた環境は、ある意味前者でした。 これは、単なる教師、生徒という関係ではなく、親子の関係も同じ。また更にいえば、自分自身の心の中でも同じなんですよね。

 良くカウンセリングでは、大人の自分、3歳の自分という二つの自分がいるんだよって言われます。 大人の自分、それは社会的な立場、常識、建前、そういったもの。3歳の自分は、自由奔放で、嫌なものは嫌、辛いことは辛いという、本音の自分。 そしてこの3歳の自分こそが、何の人為も加えられていない、本来のまま、ありのままの自分、つまり無作三身であり、仏であると。

 良い状況というのは大人の自分と3歳の自分がバランスがとられている状況。

 しかし、不安定な状況は、大人の自分が3歳の自分を抑圧し、否定すること(そしてこれこそが謗法につながる)。

 つまり、教師と生徒という関係では、できない生徒を責め否定することと同じ。

 大事なのは、出来ない時、一番辛い時に、その辛いことを受け入れ、温かく包み込んであげることだと。それこそがこの仏法の精神なんだと教えられました。

 先生は、どんな状況でも、私たちを信じると言ってくださっています。この慈悲の精神が学会精神であるんだろうって思います。

 だから、嫌々やっていても意味がないと思いますし、そういう観点から、唱題時間の長短は関係ないということに繋がっているんだろうなぁって思います。

 以前は、唱題も1時間、2時間あげないとダメだと思っていました。でも、医師からは無理す流必要はないんだよって。もちろん長時間あげられることにこしたことはない。

 けれど、今、あなたにとって一番大事なのは、3歳の自分を大事にすることなんだよと。

 医師にかかってもう少しで1年経とうとします。 なかなか思い通りにできない自分がいたりして、まだそれを責める自分がいて、もどかしい状況だったりもします。

 でも、そんな自分を認めてあげて、大丈夫と安心させていけるように少しずつなってきたのかな?そう思います。

 医師からも、それだけ時間がかかるというのはあなた自身が何十年も傷ついてきたからなんだよ、また昨年のことがそれだけ大きな傷となっているからなんだよ、だから時間が必要なんだから、そう温かく言ってもらい、安心させていただいています。

 先日のカウンセリングでは、あなたは結婚のこと、また折伏のことで10時間唱題を何回もやってきたんだから、だからこそ大きな苦難が起きたんだし、でも絶対に大丈夫と言ってくださったことが凄く凄く安心に繋がりました。

 

 人がどうとか関係ない、自分がどうか、だ。

 こう、ある方に言われたことがありました。

 進学にしろ、結婚にしろ、物事の判断がつくのであれば、自分で決めたことを実行し、その結果についても良くても悪くてもどう自分が捉えるのか?なんだろうと思います。

 仏法には全て無駄がない、というのはこういうことなんでしょう。

 そして、その判断を尊重し、温かく見守ってあげ、時に励ましたり、また例え良くない結果になったとしても一緒に共感する、これが本当の信心の姿なんだろうって思います。

  

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 誕生日無事過ぎました。

 本当は喜ばしい?ことというか、おめでとうって言われるとちょっとは嬉しいと思うのですが、この日を迎える前後は本当に辛い状況でした。

 

 ブログに対して温かいコメントやメールをくださった方々ありがとうございます

 きっと内容からしたら、親としての立場の方が読まれたらきっと、何を言っているんだろうとか、そう思われた方もいるかも知れませんし、不快に思われた方もいるかもしれません。

 

 ただ、私も生きている一人の人間として、心の叫びです。

 特定の人を批判している感じにどうしてもなっていますが、、、、すみません。

 

 ある先生のご指導を読んで、優しさについてこうありました。

 

 ~優しさとは、損・得を度外視した友情です。人が苦しんでいれば、苦しんでいるほど、その人に愛情を持つ。「立ち上がらせてあげよう」という勇気の心を与える。人の不幸を、不幸として見つめつつ、苦しみをわかろうとする。分かちあおうとする。そのなかで、自分も成長していく。相手も強くなっていく。優しさとは、よい意味での“励ましの道場”です。大切なことは、相手に同情する――あわれむ――ということではなくて、「わかってあげる」ということです。「理解」することです。人間は、自分のことを「わかってくれている人がいる」、それだけで生きる力がわいてくるものです。~

 

 傷つき苦しんでいる自身に対して、多くの方がわかってくれているということは、御指導にある通り、生きる勇気や力がわいてきます。

 自分は間違ってないんだな、大丈夫なんだって。

 自分なんか、自分なんて、って思う命。

 それは自身の仏の生命を卑下していることに繋がっているんですよね。

 十界互具ですから、色んな命があります。でも、ありのままの命でいて良いんだ、成仏できるんだ、という観点からしたら、どんな状況であっても大丈夫なんだよ、そう言われている感じがします。

 「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐ させ給へ」

 まさにこの通りですよね。苦しいと思ってはいけない、のではなく、苦しい時はその苦しいということを受け止めていく。温かく包み込んでいく。それが創価の精神だと私は思います。

 そしてそれは相手だけでなく自分自身に対しても。

 

 もう2月も終わりです。

 少しずつ少しずつですが、前進していきたいですね。

 今年こそ幸せを掴もう。。

 

 皆さんも、風邪、インフルエンザ、花粉症には気を付けて下さいね。

 一日一日、皆さんにとって良い一日でありますように。

 

 

 

 もう39なんですよね、、

 早いものであっという間の一年。

 本当に辛かった一年。

 そして、温かい人に囲まれた一年。

 本当の意味での信心に出会えた一年でした。

 

 悪夢のような出来事が始まったのは、一年前のこの日。

 当時、結婚しようとした相手の方と自身の両親に合わせに。

 

 祈って戦ってやっと出会えた相手でした。 

 それにいろんな意味で親孝行できるような方でした。

 

 ところが、悪鬼入其身というのはこういうことなんだろうか。

 普段から先生先生と言っていた人が、聞くに堪えないような発言を繰り返すようになったのは。

 相手の年齢のこと。高齢から産まれる子供は奇形児が産まれる。離婚するに決まっている。相手にたぼらかせられている。マインドコントロールされている。自分(親)を彼女は愚弄している。育て方を間違えた。  これ以外にも多数傷つけるような発言をされました。

 私のいないところで彼女に結婚はなかったことにとも言われました。

  

 一般の人でも言わないような事を平気で言う。挙句の果てに、脅迫まがいのことまで。

 

 誕生日が近づくにつれ、こういった発言を思いだし、精神的にも疲れ果て、毎月の通院、カウンセリングがどれだけ心のケアになったか。

 日曜日は、地区座がありました。

 活動報告の時に、詳しくはお話ししませんでしたが、自身が今通院していることを初めて公にして話ました。 なんでだろう。。

 以前だったら、良いことばかりしか言わなかった。たぶん、親からそういう個人情報は話すなということを言われていたからだろう。でも、そのことにずっと違和感を感じていた。

 そもそも、学会は病人、貧乏人の集まりと言われていたし、実際にそうだったんだろうと思う。でも、そこから自分は今こういう状況だけど、こうやって宿命転換しました、境涯革命しました!と変わっていく、それを見聞き、また体験することが大切なんだろうと思ってます。

 親は人間関係に悩み、まだ解決してません。

 先生が戸田先生から、組織は好きか?と聞かれた場面が人間革命にあります。嫌いだって答えた先生に、じゃぁ好きな組織にしたらいいじゃないか!とおっしゃっていた。

 そこに大切な要点があるんだろうと思う。 残念ながら、親は組織から離れている。

 人間関係に悩まされ、でも結果その解決ができてないから、、、結果的に、彼らが親にしたようなことと同じようなことを、私や彼女にやった。 でも、彼らと同じようにそれに気付いていない。いや、それ以上に、自分が正しい、いつか感謝されるときが来るとまで言ってのけた。

 今はかわいそうだとかそこまで思えない。今は自身の

 

 育ててもらった感謝はあります。沢山の苦労をしただろうと。

 でも、本当に辛い時、本当に寄りかかりたいと思った時、それが自分にはできなかった。

 信心というきれいごとだけですまされてしまったから。

 自分の立場になって同苦(同苦ということ自体、相手の立場に立ってするものですが)、をしてくれる人がいなかった。 少なくとも家庭には。

 だから、学園にはいる時、自分は自分の命が短くなってもいいから入りたいと願い、必死に勉強し、3度目で高校に入った。

 そして、毎日に高校から帰宅するのが嫌で嫌でたまらなかった。やっと心から笑うことができ、切磋琢磨し、または辛い時に寄り添う親友ができ、そして先生の温かい慈愛に触れることができたから。

 

 今、通院をしカウンセリングを受ける中で、自分の命を一ミリたりともおろそかにすることは謗法なんだよって教えられた。そして自他ともに幸せになる、という意味を理解できた。

 認知行動療法というカウンセリングをして、生き方を変えることを学んでいます。

 自分の心の奥底にある3歳の自分、この自分をこれまでどれだけ抑圧し、苛めぬいてきたか。 理不尽なこと、嫌な事に対して我慢するのではなく、嫌なものは嫌だとはっきりと言ってもいいんだ、辛いことも辛いって言っていいんだ、そして理不尽なことに対しては怒っていいんだ(これは相手を目の前にしてやるのではなくて、自分ひとりでなんですけどね (笑))。

 ⇒これをダダコネ療法というらしい。

 こうやって3歳の自分が快か不快か、不快なことに対しては、同苦してあげ、嫌だと駄々をこねる、こういう作業をするなかで自身の業を少しずつ少しずつ剥がしていくんだと。

 たまたま誕生日前日にカウンセリングがあり、ここのところの不調を全てお話しして、医師からは、もっと3歳の自分を大事にしてあげなさいと言われました。

 そして、それだけあなたがこれまで生きてきた中で、親から受けた傷というのは大きいんだよと。

 こうでなければならない、こうあるべき、それは自分の気持ちから背反している時には、自身の本当の気持ちを押し殺して我慢させていることになる。こうなりたい、こうなっていきたい、という捉え方とは全く違う。

  

 その先生のあるセミナーでの講演で「慈悲」についてこうありました。

 ★★★一番落ち込んでいる自分、一番惨めな境遇に苦しんでいる自分、また、一番不安がっている自分をこそ大きな心で包んであげる。温かい目で見守ってあげる。それが「悲しみを慈しむ心」すなわち「慈悲」であると。最悪の時に、自分をその慈悲の心で包む。そこに魂の勝利の姿がある。その生命で自分を包める人は、もう悲しみは単なる悲しみではない。慈悲の心に包まれたその悲しみは、そのままで、勇気に転ずるであろう。また、絶望は希望へと転じていくだろう。その生き方の中に本当の意味での人間の魂の勝利の生き方がある。そういう心で自分を包める人は、また、絶望に苦しんでいる人を我が事のように、温かい心で包んであげられるでしょう。 でも落ち込んだ自分を、こんな自分は情けないと嫌う人は、そこから立ち直った後で、同じように落ち込んだ人を見ると「かわいそうに」とは思うでしょうが、心の奥底では、「弱い人だな、自分に負けてだらしない人だな」と見るでしょう。自分を見る目が他の人を見る目なんです。したがって、最悪の自分を慈悲の心で「大好き!」と大きく包みながら、「偉大なんだ」と本当に尊敬できる人は、また、他の人をも尊敬できていくんです。   

「御本尊」と言いますが、「本尊」というのは「根本尊敬(こんぽんそんぎょう)」を略した言い方ですね。この根本の「本」と、尊敬の「尊」で「本尊」ですね。

これは池田先生の指導ですが、「何を根本として尊敬するのか。それは自身の生命である」。自分の生命を根本として尊敬する。根本ですから、何かができるから尊敬するのでもなければ、大失敗をしたから尊敬できないのでもないのです。どんな境遇にあろうとも自身の生命の尊敬から出発する。これが御本尊を持(たも)つということです。これが大聖人の仏法なんですね。

★★★(一部抜粋)

 

 苦労した人、それを乗り越えた人は、相手に対して優しくなれる。同苦できる。そういった意味で、人を結果的に傷つける人は例えその人が偉い人であろうと身内であろうと、その人の生命の尊厳を傷つけることに違いなく、また正しいか悪かで見た時には「悪」なんだろうと思います。

 このブログを見る人にとっては親不孝とみられるかたもいるかもしれない。

 親に感謝、それはわかっていることです。

 少なくとも育ててもらったことへの感謝はあります。そしてそれを毎日祈ってます。ただ、それとこれとは違います。 

 正しき信心、本当の意味での信心という観点に立った時、明らかに間違っている。先生はどこまでも相手の仏性を信じ、励ましていく。それが先生のこれまでの御行動です。それに照らせば、明らかに反している行動です。 

 といっても、今の彼らにそれがわかるわけでもなく。

 

 だから、自分はそうならない。そんな家庭を築きたくない。

 相手をどこまでも信じ、また包み込んでいける家庭でありたい。

 自分と違う考えの人を理解しようとせず、見下すような人でありたくない。

 正しい仏法の観点で物事を見極められ、自身を卑下するような苦しみをしている人を温かく包み込んでいける自分でありたい。

 

 一昨日の会合後、とある婦人部に呼び止められ話をすることができた。

 その方に、これまでのことを話をして、温かく、何かあったらいつでも家においでといってくださった。これが本当の温かさなんだろうなぁって思いつい涙してしまった。

 家族として心を開いてぶつかったり、または温かく包み込んでもらったことがないから。。

 色々やってくれたんだろうであろうけど、子供の立場からしたら、温かみを全く感じなかった。やってあげたそういう風にしか感じられなかったから。

 本当の意味での家族の温かさを少し感じられました。

  

 ツラツラト思いを書いてしまったけど、環境は違えど同じように苦しんでいる人は沢山いるんだろうな。。 

 

 今は、カウンセリングを通して、自分の生き方、境涯を少しでも変えていきたい。

 また、自分の願を叶えていきたい。

 自分が幸せにならなければ人も幸せにできないですよね。

 自行化他ですから。。。

 

 今日一日、少しでも陰鬱した気分でなく、温かい明るい気持ちでいられますように・・・・・。

 

 

 

 

 

 

たかがネット。
相手もしらない、素性もわからない、たかがネット、ブログかもしれない。
けれど、そのブログを読んで元気づけられたり、勇気づけられたりすることも事実。
 
落ち込んでいて、たまたま読んだブログ。
でも、そのたまたまでどれだけ元気づけられただろう。
 
実際に会っている友人、先輩等々。励ましてくれる。それもありがたい。
でも、仕事をしている中で、また家庭を持っている人もいる中で、そう簡単に会って話ができないこともある。
 そういう中で辛いと思う心の叫びを自分の中で抑え込みながら、毎日お題目を少しながらでも一生懸命あげて、それ以上落ちないようにしている。
 そこに、ブログにある内容に涙し(こらえてますが)、「そうだ!その通り!」と自身の可能性にもう一度火をともす作業ができる、ありがたいなぁって思います。
 
 病魔と闘っている人もいる。
 家庭で苦しんでいる人もいる。
 あるいは、元気に頑張っている人もいる。
 そういった人、一人一人の想いがブログには込められているんだろうと思う。
 だからこそ、その一言一言に、元気をもらえるのかな。。
 
 だから、たかがブログ、、、、されどブログなのかな。
 いつか自分もこんなに元気になった、幸せになった、そう胸を張れる日が来るように。
 
 あるブログにて誕生日直前に憂鬱とした気分を少し払拭させてもらいました。 
 ちょうど一年前、私が苦しむきっかけとなった日が誕生日でしたので。。
 今年は元気にその日を越えていきたいなぁと思うこの頃。
 
  
 
 
 
 
 

 

 明けましておめでとうございます。

 今年は、これまでの正月よりもアクティブに過ごしました。

 

 年末は、葉加瀬太郎のコンサートに行って感動してきました。

 まだ事故でむち打ちになったところが凝っていたりしたので、整骨院に大晦日まで通院。

 

 年始は、正月から結婚されて家庭を持っている方にゆっくりとしていただければと終日新年勤行会の役員をさせていただく一日で新年を開始することができました。 

 若い男子部の人が、お供えのレプリカのリンゴとグレープを本物とずっと思い込んでいて、腹を抱えて大爆笑でした。。

 

 会話は、、、こんな感じです。

 若手男子部「このリンゴって本物ですか??」 

 某先輩男子部「そうそう、このリンゴ本物だよ。千疋屋で1個2000円で買ってきたんだよ」 

 若手男子部「へぇ~、凄いっすね。それにしてもこのリンゴのてかり具合すごいですね!!どれも同じくらいてかってますよ」

 某先輩男子部「凄いでしょ!これ年末に磨いたんだよ」

 若手男子部「まじっすか、、すげ~。このグレープもそうなんですか?」

 某先輩男子部「そうなの、このグレープも同じくらい高いんだよ。磨いてあるからてかっているでしょ?」

 若手男子部「これもなんですねぇ~。このリンゴとグレープ合わせたら僕の家賃よりも高くなります!」

 

 最後片付けるまで、レプリカと気付きませんでした。。

 おかげで呼吸困難になるくらい笑い転げさせていただきました。。

 純粋な若手男子部です。。

 

 2日は、ロシアの近隣国に赴任している親友が関西に帰国しているので、日帰りであってきました。ランチをしに新幹線での往復。。。

 とても喜んでくれてよかったです。

 行こうか悩みましたけど、友達が喜んでくれるなら、と思い行ってきました。

 帰りの新幹線は当然、指定席など取れないので自由席でと思ってましたが、当日の朝に緑の窓口で行きの指定席を買ったついでに、帰りの新幹線の指定席の空きがないか聞いたら、数席空いているとのこと。

 ギリギリセーフで指定席に乗ることができました。

 これって福運?? ここで福運使ってしまっては。。。

 

 3日は、わが母校の箱根駅伝の応援に。

 初めて行ってきました。

 青山学院をはじめ、最後の大学まで応援しましたが、、、早いですね。。

 あっという間。

 シード権は残念でしたが、でも堂々の12位、凄いですね。

 往路は先生のお誕生日の日でもありましたが、9位。

 一時は上位に食い込む成績。

 すごいなぁって思います。

 

 途中何があっても諦めないで前に進み続けることが大事なんですよね。

 箱根駅伝は、全部で10区間。10人の襷をつなぐ。

 人生で考えると、一つの区間を1年とみたら、数十区間。

 どんな一年であろうと、生き続ければ次の年に襷が繋がります。

 途中、様々な障害やトラブルがあっても諦めずに前に進み続ければ、必ずゴールに辿り着きます。

 そしてその襷は、自分だけでなく、途中様々なことがあって亡くなった人の分でもあるんですよね。亡くなった人の分まで生き抜くこと、それが最大の供養になるのかなと思います。

 亡くなった人は、自分の胸の中で生き続けますから。

 自分らしく、自分にしかできない使命を全うしていこう、その一念でもがきながら、1ミリでも1センチでも前に進もうとする姿勢が尊いことなんだろうと思います。

 

 今年は、難を乗り越える信心から、幸福を掴む信心の一年にしていこうと思います。

 自分にとって最高のパートナーと一緒に広宣流布をしていきたいですね。

 

 

 

 

 一年間ありがとうございました。

 様々な闘いの一年でした。

 一番の身内が信じられなくなった時、孤独ではなかった。

 沢山の人に支えてもらいました。

 

 いつか、自分も同じように苦しんでいる人がいたら励ましていきたいです。

 

 来年は、難を乗り越える信心に加え、幸福を掴む信心でありたいと思います。

 そして、絶対勝利の信心で。

 

 どんなことにも負けない、冬は必ず春となるという御文の通りに。

 先生が教えてくださっている正しい信心をしっかりとしていきたい、そう思います。

 たとえどんな人であっても信じぬく、暖かく抱擁していくことがこの信心です。

 それができない人はどうであれ、間違っている。

  

 結局そういう人は、周囲から孤立し、相手にされなくなる。

 実際にそうなっている姿を目にしています。

 

 正しいことを正しいということは間違ってない。

 けれども、相手のことを考えながら、または環境を考えながら、伝えていくことが大事だと先生は海外指導でおっしゃっていた。

 自分がすべて正しいと思っている、そのこと自体が我見であり、傲慢ではないだろうか。

 すべての事象を意味があるものと捉え、それを乗り越えていくことが信心。

 すべて相手のせいにして自分は間違っていない、そう信じることは非常に危険なんだなと思いました。

 

 さぁ、来年。

 皆さんにとって良い一年になりますように。

 そして、幸多き一年になりますように。

 

 一年間お世話になりました。

 ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 本日は仕事納めです。

 なんというかあっという間ですね、一年。

 

 体調のこともあり、年末年始は一人(といっても友人たちと)で過ごすつもりです。

 年始は、会合の役員をさせていただくつもりです。

 

 今年は難を乗り越える信心でした。

 まだ格闘中ですが、、、

 

 来年は、幸福をつかむ信心。絶対勝利の信心。で行きたいと思ってます。

 どんなことがあろうと理不尽なことに対しては、屈しない強い自分でありたいです。

 そして自分を大事にしたいですね。。

 自分を苛めてきた人生だったので。

 

 先日もカウンセリングで良くなってきてるって言っていただいたし。

 たまたま先生のお子さんが来られていたりしてお話しする機会がありましたが、一家和楽というのはこういうことなんだなぁって思いました。

 

 結婚し、子供ができたら、自分のような苦しみを味あわせたくないし、また相手の方を本当に大事にしたいなって思います。

 信心していようがいまいが、、、、相手のことを愛することってのは変わらないと思うし。

 感謝とか気持ちとか、そういうのがちゃんと伝わるような関係でありたいと思います。

 人間らしい関係。。

 

 そして、一年間皆さんありがとうございました。 

 無事故で良い年末年始過ごして下さいね!

 

 まだブログ更新する、、かも?しれませんが、、