沖縄メモ
【大正・昭和(1926)~】
県を襲うソテツ地獄下での経済的困窮の果てに、大正期からは自然発生的に社会運動が起こり始める。昭和初期に入り運動は一層組織的になるが、これは進学や出稼ぎで本土に出て行った学生や労働者が社会主義的思想を伝えたことも影響していた。大正十年(1921)には沖縄初のメーデーが開催された。これは本土に遅れることわずか一年である。以後、県内各地の製糖工場では争議が頻発する。
この沖縄経済の疲弊の現状と原因分析、対策を巡って県内外の識者を中心に議論がなされた一連の議論を沖縄救済論(議)という。論における疲弊原因の共通認識として挙げられるのは製糖産業に偏重するモノカルチャー経済、全国一律の法制度扱いに依る重荷、国庫補助金の低下、そして何よりも孤島苦である。「琉球現今の瀕死の窮状が其の根本原因を明治初年当時に於ける我が国の内治、外交及び植民政策の幼稚なりし結果の犠牲である」と日本政府の歴史的政策の誤りを指摘する論者もあった(新城朝功「瀕死の琉球」)。大正十五年(1926)、第五十一帝国議会は「沖縄県救済ニ関スル決議」を採択し5カ年間「産業助成費」を支出する決定をしたが、その内容も規模も直接生産者に届くにはほど遠いものであった。
昭和六年(1931)、沖縄経済救済策の一環として分遣隊・憲兵隊誘致のための「意見書」が提出された。沖縄は日清戦争直後に第六師団分遣隊が撤退して以降軍隊のいない全国でも稀有の県であった。しかし政府は南の小島への軍隊配備は無駄と考え、これが実現することはなかった。
【満州事変(1931)~敗戦】
中国奉天郊外での柳条湖事件を発端に満州事変が勃発し、日本は軍部独走により国際社会から孤立して戦争の道を進んだ。その一方で、未だソテツ地獄にあえぐ沖縄は「沖縄県振興15カ年計画」の最中、官民挙げて経済再建に取り組んでいた。当時の県民意識の状況を、「有識者をもって任ずる者にして英米ソ支の現状を知らず、青年訓練所生にして自己の村より出征者を出しながら無関心であり、第六師団の満州出動が何なのかを知らない」とする記述すらある(石井虎男「沖縄防備対策」)。昭和十六年(1941)の夏まで、沖縄に常駐部隊や軍事施設が設置されることはなく、これは全国唯一であった。琉球処分以来、政府や軍部は沖縄を一人前として認めず、郷土部隊も置かなかった。沖縄はそれほどまでに軍隊や戦争に無縁の、平和で貧しい僻地という認識を持たれていた。
その一方で、国民精神総動員運動は本土の開始と同時に県当局の主導で直ちに実施された。昭和十五年(1940)の大政翼賛会発足と合わせて、後進県沖縄は国策に統合・同化されていく。県内に於ける精動運動の特徴は明治以来のヤマト化、皇民化教育路線の延長線上で、県当局は「標準語励行運動」と「風俗改良運動」に力を入れるが、これを機に県内には「方言論争」が起こる。沖縄語そのものは蔑視され、方言使用は罪悪視する風潮がおこった。時の当局の県知事以下幹部ポストは本土出身者が占めており、彼らが沖縄固有の言葉や文化、風俗について十分な理解があったとも考え難い。
昭和十五年(1940)、長期化した日中戦争の末に政府は南進政策を始めた。県当局も早くから政策上の要としての沖縄県を認知しており、同調した。こうして軍官民の南方移民政策も推進された。これは孤島苦の歴史に苦しんできた県民にとっての精神的な希望となった。開戦後、戦局に対応して沖縄は航空基地拠点、戦略的な要地であるという大本営方針に基づく作戦準備要綱が策定された。その後サイパンが陥落すると沖縄は本土防衛の防波堤とする認識が広く共有された。サイパンの在留邦人は大半が沖縄出身者であったので、サイパン玉砕の情報は沖縄にも伝わった。一般住民が軍と運命を共にして集団自決に追い込まれたという悲報に「次は沖縄だ」と囁かれるようになった。
地上戦開始後の県行政は食糧確保と人口移動の二本に絞られたが県知事はじめ県庁幹部や専門職員はほとんどが本土出身者であったために、本土出張を名目として沖縄を離れたまま帰任しない者が続出し、県政は空白状態が続いた。
敗戦後、戦没者遺族らに対する国の援護は行政分離されて米軍統治下におかれた沖縄にも例外的に「戦傷病者、戦没者遺家族等援護法」を適用して行われたが、これは本土に一年遅れる昭和二十七年(1952)であった。しかし援護法は本来対象が軍人・軍属であったため、一般住民へは「沖縄の特殊事情」という条件をつけることでその適用範囲を拡大していった。また、戦後処理最大の問題は、終戦後に返すという名目で旧日本軍に接収された土地が、いまなお国有地となっていて返還されていないことである。
【敗戦~現代】
昭和二十年(1945)八月十五日、沖縄では戦後初めての住民会議が開かれ、その後住民による政治機関設立のための「沖縄諮詢会」が組織された。諮詢会では琉球共和国建設に向けた大統領制や議院内閣制が真剣に検討されたが、これは後に頓挫する。翌年GHQは北緯30度以南を本土から切り離す「覚書」を発表してこの行政分離を正式に追認し、間もなくマッカーサーは沖縄分離を前提とした新憲法草案を日本政府に提示した。マッカーサー自身は、日本は米国案に反対しないであろうと予想していた。 更に翌年、対日講和の検討をはじめる中で沖縄返還論を支持する国務省に対して、統合参謀本部は反対の沖縄分離論を唱えた。軍部の分離論に根拠を与えたのはGHQから国務省に報告された「天皇メッセージ文書」で、天皇は合衆国の沖縄の軍事的占領を望んでいる旨が明記されていた。沖縄世論に反して本土では日本政府の要求と大衆運動のいずれも無かったことがも報告されている。
東西冷戦、中国革命政府の樹立、南北朝鮮の対立と極東情勢の緊張が高まる中でアメリカは日本の独立と引き換えに沖縄を分離することで反共の防波堤を構築しようとした。昭和二十五年(1950)の沖縄全島署名では、全有権者の72%が日本復帰を支持したが、政府はこれを黙殺した。その後も続く根強い沖縄世論と復帰運動に押されて昭和三十七年(1962)、ケネディ大統領は「沖縄新政策」の発表とともに琉球が日本本土の一部であることを認めた。これは施政権返還に前向きなポーズを示したうえで住民の不満を和らげ、日本の経済協力を受けながら基地を維持していくという「日米琉新時代」への転換となった。
昭和四十年(1965)年、ベトナム戦争における米軍の北爆開始とともにエスカレートする返還運動を恐れたアメリカは佐藤栄作首相の「祖国復帰実現こそが日本の戦後処理」という発言を借りながら住民感情をなだめた。
昭和四十六年(1971)遂に沖縄返還協定が結ばれ、日本政府は「核抜き、本土並み、1972年返還」と説明したが、残る核の疑惑と基地密度と機能からすると到底「本土並み」とは言えなかった。 そうして日本復帰が実現した翌年、日本国憲法はじめ、諸法令・諸制度が本土並みに適用された。政治・経済・教育・福祉、あらゆる分野で急激な「ヤマト化」が進んだ。
復帰後の問題は山積みであったが、直後に起きたニクソンショックによる為替差損をはじめとする一連の復帰ショックを政府は国の責任として認識して、沖縄振興開発特別措置法を可決した。長期の振興計画事業の中で、沖縄経済は基地依存型から公共事業依存型へと体質を変えていった。しかし復帰から40年近く経つ今日でも県民所得は依然全国平均の70数%に低迷し、財政依存度、完全失業率、製造業比率、いずれも数値は悪化している。国全体の経済構造がソフト産業志向的であることもあって、初期計画の工業誘致も実際は成功していない。
県を襲うソテツ地獄下での経済的困窮の果てに、大正期からは自然発生的に社会運動が起こり始める。昭和初期に入り運動は一層組織的になるが、これは進学や出稼ぎで本土に出て行った学生や労働者が社会主義的思想を伝えたことも影響していた。大正十年(1921)には沖縄初のメーデーが開催された。これは本土に遅れることわずか一年である。以後、県内各地の製糖工場では争議が頻発する。
この沖縄経済の疲弊の現状と原因分析、対策を巡って県内外の識者を中心に議論がなされた一連の議論を沖縄救済論(議)という。論における疲弊原因の共通認識として挙げられるのは製糖産業に偏重するモノカルチャー経済、全国一律の法制度扱いに依る重荷、国庫補助金の低下、そして何よりも孤島苦である。「琉球現今の瀕死の窮状が其の根本原因を明治初年当時に於ける我が国の内治、外交及び植民政策の幼稚なりし結果の犠牲である」と日本政府の歴史的政策の誤りを指摘する論者もあった(新城朝功「瀕死の琉球」)。大正十五年(1926)、第五十一帝国議会は「沖縄県救済ニ関スル決議」を採択し5カ年間「産業助成費」を支出する決定をしたが、その内容も規模も直接生産者に届くにはほど遠いものであった。
昭和六年(1931)、沖縄経済救済策の一環として分遣隊・憲兵隊誘致のための「意見書」が提出された。沖縄は日清戦争直後に第六師団分遣隊が撤退して以降軍隊のいない全国でも稀有の県であった。しかし政府は南の小島への軍隊配備は無駄と考え、これが実現することはなかった。
【満州事変(1931)~敗戦】
中国奉天郊外での柳条湖事件を発端に満州事変が勃発し、日本は軍部独走により国際社会から孤立して戦争の道を進んだ。その一方で、未だソテツ地獄にあえぐ沖縄は「沖縄県振興15カ年計画」の最中、官民挙げて経済再建に取り組んでいた。当時の県民意識の状況を、「有識者をもって任ずる者にして英米ソ支の現状を知らず、青年訓練所生にして自己の村より出征者を出しながら無関心であり、第六師団の満州出動が何なのかを知らない」とする記述すらある(石井虎男「沖縄防備対策」)。昭和十六年(1941)の夏まで、沖縄に常駐部隊や軍事施設が設置されることはなく、これは全国唯一であった。琉球処分以来、政府や軍部は沖縄を一人前として認めず、郷土部隊も置かなかった。沖縄はそれほどまでに軍隊や戦争に無縁の、平和で貧しい僻地という認識を持たれていた。
その一方で、国民精神総動員運動は本土の開始と同時に県当局の主導で直ちに実施された。昭和十五年(1940)の大政翼賛会発足と合わせて、後進県沖縄は国策に統合・同化されていく。県内に於ける精動運動の特徴は明治以来のヤマト化、皇民化教育路線の延長線上で、県当局は「標準語励行運動」と「風俗改良運動」に力を入れるが、これを機に県内には「方言論争」が起こる。沖縄語そのものは蔑視され、方言使用は罪悪視する風潮がおこった。時の当局の県知事以下幹部ポストは本土出身者が占めており、彼らが沖縄固有の言葉や文化、風俗について十分な理解があったとも考え難い。
昭和十五年(1940)、長期化した日中戦争の末に政府は南進政策を始めた。県当局も早くから政策上の要としての沖縄県を認知しており、同調した。こうして軍官民の南方移民政策も推進された。これは孤島苦の歴史に苦しんできた県民にとっての精神的な希望となった。開戦後、戦局に対応して沖縄は航空基地拠点、戦略的な要地であるという大本営方針に基づく作戦準備要綱が策定された。その後サイパンが陥落すると沖縄は本土防衛の防波堤とする認識が広く共有された。サイパンの在留邦人は大半が沖縄出身者であったので、サイパン玉砕の情報は沖縄にも伝わった。一般住民が軍と運命を共にして集団自決に追い込まれたという悲報に「次は沖縄だ」と囁かれるようになった。
地上戦開始後の県行政は食糧確保と人口移動の二本に絞られたが県知事はじめ県庁幹部や専門職員はほとんどが本土出身者であったために、本土出張を名目として沖縄を離れたまま帰任しない者が続出し、県政は空白状態が続いた。
敗戦後、戦没者遺族らに対する国の援護は行政分離されて米軍統治下におかれた沖縄にも例外的に「戦傷病者、戦没者遺家族等援護法」を適用して行われたが、これは本土に一年遅れる昭和二十七年(1952)であった。しかし援護法は本来対象が軍人・軍属であったため、一般住民へは「沖縄の特殊事情」という条件をつけることでその適用範囲を拡大していった。また、戦後処理最大の問題は、終戦後に返すという名目で旧日本軍に接収された土地が、いまなお国有地となっていて返還されていないことである。
【敗戦~現代】
昭和二十年(1945)八月十五日、沖縄では戦後初めての住民会議が開かれ、その後住民による政治機関設立のための「沖縄諮詢会」が組織された。諮詢会では琉球共和国建設に向けた大統領制や議院内閣制が真剣に検討されたが、これは後に頓挫する。翌年GHQは北緯30度以南を本土から切り離す「覚書」を発表してこの行政分離を正式に追認し、間もなくマッカーサーは沖縄分離を前提とした新憲法草案を日本政府に提示した。マッカーサー自身は、日本は米国案に反対しないであろうと予想していた。 更に翌年、対日講和の検討をはじめる中で沖縄返還論を支持する国務省に対して、統合参謀本部は反対の沖縄分離論を唱えた。軍部の分離論に根拠を与えたのはGHQから国務省に報告された「天皇メッセージ文書」で、天皇は合衆国の沖縄の軍事的占領を望んでいる旨が明記されていた。沖縄世論に反して本土では日本政府の要求と大衆運動のいずれも無かったことがも報告されている。
東西冷戦、中国革命政府の樹立、南北朝鮮の対立と極東情勢の緊張が高まる中でアメリカは日本の独立と引き換えに沖縄を分離することで反共の防波堤を構築しようとした。昭和二十五年(1950)の沖縄全島署名では、全有権者の72%が日本復帰を支持したが、政府はこれを黙殺した。その後も続く根強い沖縄世論と復帰運動に押されて昭和三十七年(1962)、ケネディ大統領は「沖縄新政策」の発表とともに琉球が日本本土の一部であることを認めた。これは施政権返還に前向きなポーズを示したうえで住民の不満を和らげ、日本の経済協力を受けながら基地を維持していくという「日米琉新時代」への転換となった。
昭和四十年(1965)年、ベトナム戦争における米軍の北爆開始とともにエスカレートする返還運動を恐れたアメリカは佐藤栄作首相の「祖国復帰実現こそが日本の戦後処理」という発言を借りながら住民感情をなだめた。
昭和四十六年(1971)遂に沖縄返還協定が結ばれ、日本政府は「核抜き、本土並み、1972年返還」と説明したが、残る核の疑惑と基地密度と機能からすると到底「本土並み」とは言えなかった。 そうして日本復帰が実現した翌年、日本国憲法はじめ、諸法令・諸制度が本土並みに適用された。政治・経済・教育・福祉、あらゆる分野で急激な「ヤマト化」が進んだ。
復帰後の問題は山積みであったが、直後に起きたニクソンショックによる為替差損をはじめとする一連の復帰ショックを政府は国の責任として認識して、沖縄振興開発特別措置法を可決した。長期の振興計画事業の中で、沖縄経済は基地依存型から公共事業依存型へと体質を変えていった。しかし復帰から40年近く経つ今日でも県民所得は依然全国平均の70数%に低迷し、財政依存度、完全失業率、製造業比率、いずれも数値は悪化している。国全体の経済構造がソフト産業志向的であることもあって、初期計画の工業誘致も実際は成功していない。
月下慕情
少しだけ気温が下がり、少しだけ湿り気が和らぐ。
そんな微妙な変化を逸早く察知する自分の肌。
過ごしやすい夜、見上げた空に浮かぶ月はいつもより心なしか眩しい。
心地よさのなかで逸る気持ちを抑えて、いまはただストイックに。
機能とバランス
watch dog functionはもはや前提の前提の前提という深い階層に進んでいる気がする。
成立要件としては絶対に必要だけど、informationの送信は単なるpublic agenda functionでしか無くなっている。市民とその社会のphaseがもう次に進んでいるから。それは同時に、watch dog functionを市民の階層にゆっくりと下ろしていることにもなる。じゃあismはどこにあるの?現場と市民は置かれている状況が異なるのは明らかだけど、時代を共有する中で本質的には繋がった一つのismを持つの?持てようが持てまいが、その時そこに生まれる意味って何だろう。反語的ではなく。
大切なのはおそらく、日本と日本人の実際の状況に則して次のismの定義と求められることを送信者である現場がはっきりと認識して、言語化しておくこと。実感がないままの連続性はおそらく歴史を停滞、あるいは後退させてしまう。
あれ?でも、watch dog functionとismを同じ箱のなかで扱うこと自体は単なる混同に過ぎないの?これは仕方ないよね?あくまでもプラグマティックに。
現場は理想と信念を持って主体的に。watch dog functionは足して100になるものを目指すのか、0と100になっていくのか。今は過渡期なのか、それとも「こういうもの」なのか。
もっと大きなことを考える為に小さなところを作り込む段階。
時間がかかるだとかを今は気にしない。エッセンスを見極めて、拾う。
東京お暑いです。とってもお暑い。室内にいても熱中症になりますので、温度管理と水分補給には気を遣いましょう!
あと4日ほどテストとレポートと格闘。8月あたまに、大隈塾合宿。
