日本とトルコの外交関係樹立から8月6日で100周年を迎えた。
ギュンケン駐日トルコ大使は、「トルコ人から見た日本は特別な存在だ」と語っている。
それは、
1890年軍艦が和歌山県串本町で遭難したが、住民が69人の乗務員を救出した。それとロシアにいじめられていたトルコが日露戦争の勝利によりこのトルコの人々の「親日」を決定づけたという。私もトルコには一週間ほど各地を旅行したが、どこも日本人とみれば暖かくもてなしてくれたことを思い出す。
この串本町での遭難は有名な話らしいが、改めて調べて見た。下記の通りらしい。
イラン・イラク戦争のさなか、イランに取り残された200人以上の在留邦人をトルコが救援機を出して脱出させたことは記憶に新しいし、また東日本大震災と28年のトルコ・シリア大地震の際には、双方が救助チームを派遣した。「両国民はこの100年、困難な時にお互いにそばに寄り添ってきた」と大使は述べた。
確かにトルコは日本人に対して友好的だと思った。私がトルコに旅行した時も、日本人だと税関がフリーだったし、トルコ人の通訳の流暢な日本語に驚いたが、彼は日本には行ったことがなく、トルコで日本語を学んだそうだ。それだけ日本語熱が大きいと言うことらしい。
日本とトルコの絆をつないだ物語
1890年、エルトゥールル号の悲劇
トルコから日本へ、親善使節団派遣
19世紀末、ヨーロッパ列強との不平等条約に苦しんでいたオスマン・トルコ帝国皇帝アブドゥルハミト2世は、明治維新後同様の立場にあった日本との平等条約締結の促進と、明治20年の小松宮彰仁親王殿下のトルコ訪問に対する返礼などの目的で、親善使節団の派遣を計画しました。親善使節団の特使には、エミン・オスマン海軍少将(日本への航海中に提督「パシャ」となり、オスマン・パシャと呼ばれた)が任命され、使節団座乗艦としてフリゲート艦エルトゥールル号が選ばれました。
明治22年7月14日、イスタンブールの港を出港したエルトゥールル号は、スエズ運河を抜け、途中各地のイスラム教国に教主国としての威厳を示しながら寄港、明治23年6月7日に横浜港に到着しました。
オスマン海軍少将一行は、明治天皇に謁見し、アブドゥルハミト2世皇帝より託されたトルコ最高勲章および種々の贈り物を天皇に捧呈し、併せて両国の修好という皇帝の意を天皇に伝えました。これに対し、明治天皇は、使節に勲章を授け、饗宴を賜いました。
台風の季節、帰国の途へ
使節団一行は東京に3か月滞在、その間官民を挙げての歓迎を受け、明治23年9月15日、横浜港を出港、帰国の途につきました。日本国当局は、9月が台風の季節であり、またエルトゥールル号が建造後26年を経た木造船であることから、出発前に修理を行うよう勧めましたが、オスマン少将は帰途が遅れないようにと、予定通り同日出港しました。
エルトゥールル号の遭難
横浜港を出た翌日の9月16日、エルトゥールル号は串本町大島樫野崎沖を航海していましたが、同海域において折からの台風に遭遇、猛烈な波浪と強風のために航行の自由を失い、次第に樫野崎に寄せられ、古より船乗りたちにおそれられた船甲羅岩礁に激突しました。
船体破損部から流入した海水が機関の爆発を引き起こし、オスマン海軍少将以下587名が殉職、生存者わずかに69名という大海難事故となりました。
不眠不休の救助活動
この遭難に際し、当時の大島島民は不眠不休で生存者の救助、介護、また殉難者の遺体捜索、引き上げにあたり、日本全国からも多くの義金、物資が遭難将士のために寄せられました。
69名の生存者は神戸で治療を受けた後、同年10月5日、比叡、金剛の2隻の日本海軍の軍艦により帰国の途につき、翌明治24年1月2日、無事イスタンブールに入港、トルコ国民の心からの感謝に迎えられました。
1985年、トルコ共和国の 恩返し
「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を無差別に攻撃する」
しかし、日本からの救援機は来ない。
イラン・イラク戦争が続いていた1985年3月17日、イラクのサダム・フセイン大統領が「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を無差別に攻撃する」という声明を発表しました。イランに住んでいた日本人は、慌てて首都テヘランの空港に向かい出国を試みましたが、どの飛行機も満席で搭乗することができませんでした。
世界各国は自国民を救出するために救援機を出しましたが、日本からの救援機の派遣は、航行の安全が確保できないとの理由から見送られ、空港にいた日本人は途方に暮れていました。
そんな時、救いの手を差し伸べてくれたのがトルコ共和国です。トルコから駆けつけた救援機2機により、日本人215名全員がイランを脱出することに成功しました。タイムリミットのわずか1時間前のことでした。
当時、テヘランには多くのトルコ人も在住していましたが、航空機を日本人に提供し、トルコ人は陸路で避難をしたそうです。
「私たちはエルトゥールル号の借りを返しただけです」
なぜトルコの航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミもわからずにいましたが、後に駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は当時、次のように語られました。「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史の教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」