RZ250の走り
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中沢

ばんばー中沢ですね エー蜂ネットは今後もつかえるかな?

あめばの日

隼買い取りバイク買い取りタコーズで

ライブドア:バイク

ライブドアは関係ありません
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機関等の初期の熱機関が発明され、それを当時の自転車を
ベースとする2輪車の形式に取り入れて、新しい移動手段を開
発しようとする試みがなされる様になった。 オートバイの原
型とされるものは、フランスのエンジニア・発明家のルイ-ギ
ヨーム・ペローが考案し、1868年に特許となった(当時の特許
期間は15年)。これは、蒸気機関エンジン搭載のオートバイで
あり、1873年のウィーン万博に出品された。内燃機関エンジン
搭載のオートバイの原型はダイムラー・モトーレン・ゲゼルシ
ャフト(現ダイムラー)社により、1885年に作られた。1903年
、現代のモペッドの原型となるオートバイをウイリアム・ハー
レーとアーサー・ダビッドソンが製造した(後にハーレーダビ
ッドソン社を創業)。第一次世界大戦中の進展を経て、1920年
代になると、現在のオートバイに似た一般的な構造が確立する
様になった。馬車よりも高機動・高性能であったオートバイは
社会に浸透し、その後第二次世界大戦において、側車を付けて
指揮官の移動手段としてや、偵察部隊などの機動部隊の装備と
して採用される事になる。

日本でははじめ、オートバイの利用は少なく、1910年頃に輸入
車が見られるようになった程度であった。従って国産化も遅れ
、1906年の島津楢蔵によるNS号が初の国産車であった。その後
、スミス・モーター、インデアン、ハーレーダビッドソン (ハ
ーレー)等の輸入が増え、1930年代には宮田製作所(現・宮田工
業)が「アサヒ号」を発売するなど、国産化も進んだ。輸入車
の中でも、ハーレーは三共によって陸王として国産化された。

第二次世界大戦終戦後工業に著しい打撃を受け、軍事産業が壊
滅した日本に於いては、それまで軍用機や軍用車を製造してい
た会社がこぞってオートバイを製造販売する様になった。特に
有名なのは、陸軍機で知られる中島飛行機を源流に持つ富士産
業(後の富士重工)のラビット、海軍機で知られる三菱を源流に
持つ中日本重工(財閥解体に伴う三菱重工の分社)のシルバーピ
ジョンというスクーターの両雄である。終戦直前には、陸王一
社のみがオートバイ製造を続けていた状態から、雨後の筍の様
にメーカが乱立したが、殆どのメーカが技術開発と市場競争で
遅れをとり次々脱落していった。中でも目黒製作所のメグロ、
東京発動機のトーハツは人気があり、メグロはメーカが倒れた
後もカワサキに技術が移転した。

現在でも続くメーカとしては、本田技研工業(ホンダ)が戦時中
汎用エンジンとして製造していたエンジンを自転車に取り付け
たのが同社に於ける最初のオートバイ事業であった事は有名な
話である(モペッド#日本における歴史参照)。このオートバ
イの系譜は長く、現在はカブの愛称で親しまれる。

日常の足として利用されてきたオートバイはやがて舞台をサー
キットに移し、レースに世界各国のオートバイメーカーが参加
した。精密加工を得意とする日本の企業は高回転高出力エンジ
ンである並列多気筒エンジンを搭載したオートバイで参戦した
。ホンダに続いて、ヤマハ、スズキ、カワサキもオートバイ製
造に参加し、各社切磋琢磨して年々高性能化、タイトルを日本
勢で塗りつぶし、市場における優位性を確保した。こうして日
本はオートバイ大国となる。

しかし、道路が舗装整備され、オート三輪を経て四輪自動車が
一般的な乗り物として普及すると、日本におけるオートバイ市
場は頭打ちとなり、カブのようなビジネスバイクを除いて趣味
の乗り物となり、オートバイの販売数は頭打ちになった。

1980年代前半になると、ヤマハが業界1位の座をホンダから奪
おうとして日本のみならずアメリカをも舞台にしてHY戦争(詳
細は項目参照)が起きた関係でラインナップが増えた裏でオー
トバイの価格が下落し、さらに1980年代後半からは好景気(バ
ブル景気)も重なり、90年代前半にかけて日本にバイクブーム
が訪れた。

しかしこの80年代バイクブームにより、暴走族(共同危険型、
違法競走型の別を問わず)が全国各地で増え、危険走行や爆音
、交通事故が社会問題となった。それによって三ない運動に代
表されるような「バイク=危険な乗り物・暴走族」という反バ
イク感情が高まり、バブル景気が過ぎた後はより実用性を求め
る社会に移ったこともあって急速にバイクブームも終息に向か
っていく。

その後、90年代になると東南アジアを中心とする発展途上国の
市場が拡大し、オートバイメーカーの活路は日本よりも世界を
対象としたマーケットにシフトしていく。

しかし、高い機動性はビジネスバイクや郵便、飲食店の宅配バ
イクという形で戦後間もない頃から社会に親しまれ、現在はバ
イク便など高速輸送にも使われる。救急車よりもより早く緊急
現場に駆けつけることが出来ることから救急バイクなども存在
する。警察の交通機動隊が使用する白バイも、オートバイの高
い機動性を利用するものである。自衛隊では斥候や連絡のため
に250ccのオフロードバイクを運用している。


[編集] 呼称
オートバイは、日本では他にバイクや単車等とも呼ばれる。「
単車」は、側車とも呼ばれるサイドカーと区別するために用い
られた言葉だったが、サイドカーが希少なものとなった後も単
車という言葉は生き残っており、オートバイ全体を指す言葉と
なっている。

オートバイという呼称は1920年代には既に用いられていた(2008
年現在も出版されている月刊誌「オートバイ」は1923年創刊で
ある)。この言葉は米語 autobike から作られた和製英語であ
り、英語圏では通用しない。英語圏では、motorcycle,
motorbike, autobicycle
と呼ばれるほか、moto や cycle という略称も使われる。英語
では、一般に「バイク(bike)」というと自転車(bicycle)を意
味する(ただしmotorbikeの短縮としてbikeを自動二輪車という
意味で使用することもある)。

排気量が小さい(主に49ccから124cc程度まで)オートバイのこ
とを、警察関係や報道関係では「ミニバイク」と呼ぶことがあ
る。


[編集] 構造
駆動輪は、自動車では前輪駆動・後輪駆動・四輪駆動と分かれ
るが、オートバイにおける実用車のほとんどすべては、後輪駆
動である。歴史的事例では、キャブレターで有名なフランスの
ソレックス社のベロ・ソレックス(日本でもダイハツがライセ
ンス生産していた)が前輪駆動だった(後述のモペット同様の
自転車にエンジンを取り付けた構造で、前輪フォーク上部に50cc
エンジンを搭載していた)。また、星型5気筒エンジンを前輪
に搭載したメゴラというオートバイも存在した。実験的には、
前後二輪駆動の競技用オートバイが製造されたことがあるが、
極めて特異であった上に競技の公平性を失する可能性を秘めて
いたために、その後のレギュレーション改定で禁止されている
。また、通常のオートバイとは異なるが、自然公園のレンジャ
ーなどが足として使う特殊車両として、二輪駆動のオートバイ
が存在する[1]。


オートバイのサスペンション(ドゥカティ・ムルティストラー
ダの後輪側サスペンションユニット)自転車はサスペンション
が無いものが多いが、オートバイは車両重量が重く、高速で走
るために、操縦安定性を確保する目的もあってサスペンション
機構が有るのが一般的である(低速でしか走らない車種では受
ける衝撃が少ないために無い場合もある)。サスペンションは
、前輪がテレスコピック、後輪がスイングアームになっている
物が多い。

また、サスペンションが有ることによって快適なだけではなく
、高い速度を維持したままで走ることが出来るようになった。
それはサスペンションの無いオートバイで100km/hを出すより
も、サスペンションの有るオートバイで180km/hを出すほうが
楽な程である。そのため、サスペンション装備以前と以降のオ
ートバイは別物といっても過言ではない。

現在の一般的なオートバイの操作系は、ブレーキやスロットル
の加減速系統は右側に、クラッチレバーやシフトペダルの変速
系統は左側に付いている。かつての英国車や、英国車を真似た
ものなどにブレーキペダルが左側、シフトペダルが右側の車種
があった。

パワートレインは多種多様であり、一概にこれがオートバイの
パワートレインであると言える物はないが、代表するものとし
て、一つは無段変速機構そのもののVベルトによって最終段減
速と駆動輪への動力伝達を行うもので、簡易CVTともいえるも
の(一般にオートマチックトランスミッション(オートマチッ
ク、オートマ)・ATと称する)、もう一つは常時噛合シーケン
シャルトランスミッションからチェーンやプロペラシャフトま
たはベルトによる最終段減速と駆動輪への動力伝達を行うもの
(一般にマニュアル・MTと称する)の二つがあげられる。スク
ーターの多くは前者である。

フレーム形状はダイアモンド、(シングル)クレードル、ダブ
ルクレードル、モノコック、モノバックボーン、ツインスパー
など多彩であり、その車体の性格付けをするものであるが、多
くの場合において基本的な構造は、前輪を支えるフロントフォ
ークを高い位置から結び、車体中央下の低い位置で後輪を接続
しているスイングアームへと結ばれている。例外としてリアサ
スペンションを持たない(ホイールをリジッドマウントしてい
る)車種ではフレームと後輪が直結している(モペッドや、ス
ズキ・チョイノリ等、高速走行を狙わない車種やクラシックバ
イク等)。

買い取りいきますか?

尾張旭市なんですかこれは?
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小牧・長久手の戦いで10万の羽柴秀吉軍相手に互角以上の戦いをしたことから、戦国屈指の軍略家であり、関ヶ原の戦いでの相手への裏工作からして、謀略にも長けているといえる。江戸幕府・開府に始まる江戸時代は264年にわたって続き、日本に長い太平の世をもたらした。家康は「江戸幕府の始祖」として称えられ、今も日光東照宮をはじめ全国に東照大権現(とうしょうだいごんげん)として祀られている。


[編集] 略歴

徳川家の家紋戦国時代に三河国岡崎に岡崎城主松平広忠の子、幼名竹千代として生まれる。当時の松平氏は弱小であり、広忠は仕えていた今川義元に息子を人質として差し出す事となった。一時、家臣の裏切りにより織田氏の人質となるが、最終的には当初の予定通り竹千代は今川氏に送られた。

竹千代は今川の元で人質として忍従の日々を過ごすが、桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られた後、松平は今川より離れて織田信長の盟友(事実上は臣下)として版図を広げていく事となる。やがて、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、その混乱に乗じさらに勢力を広げた。

豊臣秀吉との小牧・長久手の戦いを経て秀吉に従った。秀吉の元で、家康は最大の領地を得る事となり、豊臣政権の五大老筆頭に列せられる。秀吉の死後は関ヶ原の戦いで勝利し、朝廷から征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府(江戸幕府・徳川幕府と呼ぶ)を開く。

家康の生誕地は、三河岡崎だが、生涯を通じて、静岡県(駿府、浜松)を本城あるいは生活の拠点としている期間が長く、尾張の織田信長のもとで人質として過ごすなど、三河岡崎にいたのは、幼少期及び桶狭間後10年と、意外にも短い。そのため、三河土着の松平(徳川)家歴代当主や三河譜代の家臣とは違う、広い見識を持っていた。そのこともあり、晩年の家臣団には、本多正信、天海、大久保長安、茶屋四郎次郎など、外交・内政・謀略に長けた異能の人物が集まり、三河以来の武功派は活躍の場を失い徐々に遠ざけられた。


[編集] 生涯

[編集] 忍従の日々
三河国の土豪である松平氏第8代当主・松平広忠の長男(嫡男)として、天文11年(1542年)12月26日の寅の刻(午前四時ごろ)、岡崎城で生まれる。母は水野忠政の娘・於大(伝通院)で、幼名は竹千代(たけちよ)と称した。

2歳の時、水野忠政の没後水野家当主となった水野信元(於大の兄)が織田信秀についたため、今川方の庇護を受けていた父は泣く於大を離縁した。そのため家康は幼くして母と生き別れになった。

6歳の時、父・広忠は尾張国の織田信秀に対抗するため駿河の今川義元に帰属し、竹千代は今川義元のもとへ人質として駿河国府中へ送られるところであったが、途中立ち寄った田原城城主で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張・織田信秀の元へ送られた。尾張では2年を過ごし、信長とはここで知り合った。その間に父・広忠は死去し(岩松八弥に殺された、病死など、種々の説がある)、岡崎は義元の派遣した城代により支配された。

竹千代は今川方に捕えられた信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって駿府へ移された。『東照宮御実紀』には、少将宮町という所に家康を置いたと記載されている。同書には駿府在住時の詳細の記述はなく、元服・結婚・祖先の墓参りのため三河国帰参、初陣と続く。

一方、元文時代に成立し、徳川吉宗に提出された家康の伝記である『武徳編年集成』では、竹千代が住んでいたのは「宮カ崎」とされている。

三河岡崎城の墓参りのための帰参のエピソードで、岡崎城の本丸は今川の城代が置かれていたため、二の丸に入った。そこで、鳥居忠吉が、倉庫に兵糧米・金銭を備蓄し、義元が三河を横領し、松平勢が、今川の先鋒として多数討死、捨て石になっている事情を説明、家康は感涙したという。古老の御家人は、祖父清康君によく似ていると感嘆したという。

駿府の義元の下で元服し、義元から偏諱を賜り次郎三郎元信と名乗り、義元の姪・関口親永の娘・(通称築山殿)を娶った。名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらって蔵人佐元康と改めている。永禄元年(1558年)には織田方に寝返った寺部城主鈴木日向守を松平重吉らとともに攻め、これが初陣となった。


[編集] 清洲同盟から三河国平定へ
永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた際、今川本隊とは別働で、前線の大高城(尾張国)にあった元康は、大高城から撤退。今川軍が放棄した三河の岡崎城に入ると、祖父・清康の代で確立した三河支配権の回復を志し、今川家から自立する。藤波畷の戦いなどに勝利して、西三河の諸城を攻略した。永禄5年(1562年)には、義元の後を継いだ今川氏真と断交して信長と同盟を結び(清洲同盟)、翌年には義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた。

西三河を平定したかに見えた頃、三河一向一揆が勃発するも、家康は苦心の末に鎮圧に成功した。こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進めた。東三河の戸田氏や西郷氏といった諸豪を抱き込みながらも、軍勢を東へ進めて鵜殿氏のような敵対勢力を排除していった。三河への対応に遅れる今川氏との間で、宝飯郡を主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年(1566年)までには東三河・奥三河(三河北部)を平定し、三河国を統一した。この年、朝廷から従五位下、三河守の叙任を受け、徳川に改姓した。この改姓に伴い、新田氏系統の源氏であることも公認させた。

永禄11年(1568年)には今川氏真を駿府から追放した武田信玄と手を結んだ。同年末からは、今川領であった遠江国に侵攻し、曳馬城を攻め落とした。遠江で越年したまま軍を退かずに、駿府から逃れてきた氏真を匿う掛川城を攻囲。籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江の大半を攻略した。元亀元年(1570年)、本城を岡崎から遠江国の曳馬に移し、浜松城を築いた。

永禄11年(1568年)、信長が、松永久秀らによって暗殺された室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛の途につくと、家康も信長へ援軍を派遣した。後年、足利義昭は、天下の実権をめぐり信長との間に対立を深め、反信長包囲網を形成したとき、家康にも副将軍への就任を要請し、協力を求めた。しかし家康はこれを黙殺し、朝倉義景・浅井長政の連合軍との姉川の戦いに参戦し、信長を助けた。


[編集] 武田家との戦い
家康は今川領分割に際して、武田信玄と大井川を境に東の駿河を武田領、西の遠江を徳川領とする協定を結んで友好関係を結んでいた。しかし領土拡大の野望に燃える信玄は一方的に協定を破棄し永禄11年(1569年)、重臣の秋山信友に一軍を預けて信濃から遠江に侵攻させた。これは徳川勢の抵抗、並びに北条氏康から牽制を受け失敗したが、これを契機に武田信玄と徳川家康は敵対関係となった。

元亀3年(1572年)10月3日、武田信玄はついに上洛を開始し、まずは徳川領である遠江、三河に向けて侵攻を開始した。これに対して家康は盟友・織田信長に援軍を要請するが、織田軍も当時は浅井長政、朝倉義景、石山本願寺と抗争状態にあり、さらには美濃岩村城までを武田軍に攻撃され援軍を送ることができず、徳川勢は単独で武田勢と戦うこととなる。10月13日、2万2,000人の大軍を率いて伊那谷から遠江に侵攻してきた信玄本隊と戦うために、家康は天竜川を渡って見附にまで進出した。しかし信玄の巧妙な用兵、並びに兵力の差により大敗し、本多忠勝の奮戦により何とか浜松まで帰還した(一言坂の戦い)。


「三方原戦役像」三方原で武田軍に敗れた後に描かせた肖像画家康は、信玄本隊と同時に侵攻する武田軍別働隊が踏み荒らす三河方面への防備を固められないばかりか、この戦いを契機として武田・徳川の優劣は確定してしまう。そして12月19日には、浜松の北方を固める遠江の要衝であった二俣城が陥落した(二俣城の戦い)。そのような中で、ようやく織田方から援軍として佐久間信盛、平手汎秀率いる3,000人が送られてきた。12月20日、三河方面からの別働隊が合流した信玄の本隊は、天竜川の西岸を南下して浜松城下に近づいた。しかし長期戦を嫌う信玄は、浜松城を悠然と無視して、三河に侵攻するかのように武田軍を転進させた。これに対して家康は信長の援将・佐久間信盛らが籠城戦を唱えるのに対して、
断固として反対して武田軍を追撃。12月22日、徳川軍8,000人、織田軍3,000人で武田軍3万人に挑んだ(三方ヶ原の戦い、三方ヶ原は現在の静岡県浜松市内)。だが、その結果、徳川方は鳥居忠広、成瀬正義や、二俣城の戦いで開城の恥辱をすすごうとした中根正照、青木貞治といった家臣をはじめ1,000人以上の死傷者を出し、織田方でも平手汎秀といった援軍の将が討ち獲られるなど徳川・織田連合軍は大惨敗を喫した。夏目吉信に代表される身代わりに助けられて、命からがら浜松城に逃げ帰った家康自身も馬上で脱糞した、とさえ言われている。このとき、浜松城まで追撃された家康は「空城計」を用いた。この計によって城の様子を怪しんだ武田信玄は城内侵攻をためらい、撤収を決断したとされている。なお、こ
の時の家康の苦渋に満ちた表情を写した肖像画(しかみ像)が残っており、これは自身の戒めのために描かせたものと伝えられる。

武田信玄は、浜名湖北岸で越年して三河へ進軍した。元亀4年(1573年)2月16日には三河東部の野田城を開城降伏させ、城主菅沼定盈の身柄を拘束した。ところがその後、信玄は発病。徳川軍を相手に勝ち続けていた武田軍は突如として西進を止めたばかりか、野田城から長篠城まで退き、1か月ほど沈黙する。そこで信玄の回復を待っていたが、容態は快方に進まないために西進作戦を断念、武田軍は甲斐へ帰還した。そして4月12日、武田信玄は帰還途中の信濃駒場で死去した。4か月間、徳川領で戦勝を続けていた武田軍の突然の撤退は、家康に信玄死去の疑念を抱かせた。5月6日、その生死を確認するため家康は武田領である駿河の岡部に放火し、5月13日には長篠城を攻めるなどしている。そしてこれら一連の行動で
武田軍の抵抗がほとんどなかったことから信玄の死去を確信した家康は、武田方に与していた奥三河の豪族で山家三方衆の一角である奥平貞能・貞昌親子らを調略し、徳川へ再属させた。奪回した長篠城には奥平勢を配し、武田軍の再侵攻に備えさせている。

天正2年(1574年)5月、武田信玄の後を継いだ武田勝頼が率いる2万5,000人の大軍が、遠江高天神城を侵攻した。これに対して家康は単独で迎撃することができず、信長に援軍を要請したが、信長の援軍が到着する前に高天神城を奪われた。

天正3年(1575年)5月には、1万5,000人の大軍を率いる武田勝頼に三河長篠城を攻められた。これに対して長篠城主・奥平貞昌が率いる500の将兵は善戦し、援軍の到来まで耐え抜いた。そして、5月21日に行われた後詰決戦では、織田・徳川連合軍は武田軍に大勝した(長篠の戦い)。戦功に対する褒美として、奥平貞昌は(信長の偏諱を賜り)信昌と改名した。家康も名刀大般若長光を授けて賞した。(その上、翌年には長女・亀姫を遣わし、正室とさせている。)

この戦いで武田軍は山県昌景、馬場信春を初め、多くの有力武将を失って壊滅し、武田と徳川の優劣は逆転した。同年、家康は信玄に奪われていた二俣城を奪還した。

天正7年(1579年)、信長から、正室・築山殿と長男・松平信康に対し、武田勝頼への内通疑惑がかけられた。家康は信長に対し抗弁の使者を立てたが、信長からの要求は、信康の切腹であった。家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先し、正室を殺害し、嫡男に切腹させた。この事件は信長が嫡男・織田信忠より優れた資質を持つ信康に危機感を覚えたためという説もあるが、近年では家康と信康が対立したためで、信長には了承を求めただけ(信康の正室が信長の娘であるため)、という説も強くなってきている。

天正9年(1581年)3月23日、家康は武田勝頼によって奪われていた高天神城を奪回した。

天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿である木曽義昌が織田信長に寝返ってきたことにより、武田征伐が開始された。信長は嫡男・織田信忠を総大将にして木曽口から、金森長近を飛騨口から、北条氏直を関東口から、そして家康には駿河口からそれぞれ武田領に向かって侵攻させた。これに対して、すでに連年の戦争による財政難などで民心が離反していた武田軍には組織的な抵抗力がなく、木曽から攻め込んだ織田軍はあっという間に伊那城、松尾城を落とした。徳川軍も駿河に侵攻して蘆田信蕃(依田信蕃)の田中城を成瀬正一らの説得により大久保忠世が引き取り、さらには勝頼の姉婿である穴山信君を調略によって寝返らせるなどして駿河を占領した。これに対して勝頼にはもはや対抗する力はなく、
最後は味方だったはずの小山田信茂にまで裏切られて、3月11日に勝頼は甲斐東部の天目山・田野において自害し、武田家は滅亡した。

家康はこの戦功により、信長から駿河一国を与えられた。


[編集] 本能寺の変
天正10年(1582年)5月、駿河拝領の礼のため、降伏した穴山信君とともに信長の居城・安土城を訪れた。

6月2日、堺で遊覧中に京都で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数だったので、極めて危険な状態となり狼狽し信長の後を追おうとするほどであった。このとき、本多忠勝に説得され、家康は服部半蔵の進言を受け伊賀越えを決行し、加太越を経て伊勢国から海路三河にかろうじて戻った(神君伊賀越え)。

その後、家康は明智光秀を討つために軍勢を集めて尾張にまで進軍したが、このとき中国から大返しした羽柴秀吉(豊臣秀吉)によって光秀が討たれたことを知った。

一方、信長の領土となっていた武田遺領の甲斐と信濃で一揆が起こった。さらに越後の上杉景勝、相模の北条氏直も侵攻の気配を見せたため、信濃の森長可と毛利秀頼は領地を捨てて逃亡し、上野の滝川一益は北条氏直と戦って惨敗し、尾張に撤退した。甲斐の領主・河尻秀隆に至っては、武田家の税法や慣習を認めず、一方で大規模な武田の残党狩りを行い、領民や旧武田浪人から恨みを買っていたため、信長の死を契機として一揆が発生し、攻め殺されてしまった(ただし家康が影で煽動したという説もある)。このため、甲斐・信濃・上野は領主のいない空白地帯となり、家康は武田遺臣の岡部正綱や依田信蕃、甲斐の辺境武士団である武川衆らを先鋒として甲斐に派遣し、自らも8,000の軍勢を率いて、甲斐に
攻め入った(天正壬午の乱)。

一方、甲斐と信濃が空白地帯となったのを見た相模の北条氏直も、叔父・北条氏規や北条氏照ら5万5,000人の軍勢を率いて碓氷峠を越えて信濃に侵攻した。北条軍は、越後から北信濃に侵攻していた上杉景勝軍と川中島で対峙した後に、北信4郡を上杉に割譲することで和睦し、南下した。次いで甲斐へ侵攻中だった徳川軍と甲斐新府城、若神子で対陣。ここに徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈したが、徳川方の依田信蕃の調略を受けて徳川方に寝返った真田昌幸らの執拗なゲリラ戦法の前に戦意を喪失した北条方は、板部岡江雪斎を使者として家康に和睦を求めた。和睦の条件は、上野を北条が、甲斐・信濃を徳川がそれぞれ領有し、家康の次女・督姫が北条氏直に嫁ぐというものであった。こうして、家康は北条
氏と縁戚・同盟関係を結び、同時に甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5か国を領有する大大名へとのし上がったのである。


[編集] 秀吉との戦い
信長死後の天正11年(1583年)、織田家筆頭家老であった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破った羽柴秀吉が台頭する。これに不満を覚えた信長の次男・織田信雄は、家康と手を結んだ。そして徳川・織田連合軍は天正12年(1584年)3月、尾張小牧において羽柴軍と対峙した。このとき、羽柴軍の兵力は10万、徳川・織田連合軍は5万であった。家康は兵力的に不利であったが、秀吉が小牧に到着する前の3月17日、秀吉軍の武将・森長可率いる軍勢を酒井忠次に命じて撃破させた(羽黒の戦い)。

4月5日に秀吉率いる羽柴軍主力は犬山城に入り徳川軍と対峙したが、秀吉は家康の武略を恐れて動かず戦線は膠着状態に陥った。4月7日、秀吉方の武将・森長可とその岳父である池田恒興が「中入り」によって三河岡崎城を奇襲すべく、別動隊を率いて出陣した。しかし家康は別働隊の動きを捕捉し、逆に自ら羽柴別働隊に奇襲をかけて殲滅し、敵の総大将・羽柴秀次を敗走させ、恒興と長可、池田元助(恒興の嫡男)らを討ち取った(小牧・長久手の戦い)。

これを機に、秀吉は家康を正攻法で打ち破ることは困難と判断し、家康の味方である伊勢の織田信雄を攻めた。信雄軍には単独で羽柴軍と対抗できる力はなく、11月11日、秀吉と単独講和してしまった。家康は小牧・長久手の戦いの大義名分を「信長の遺児である信雄を助けて、秀吉を討つ」としていたため、信雄が秀吉と講和したことで名分を失った家康は撤退を余儀なくされた。そして12月12日、秀吉との講和として、次男の於義丸(後の結城秀康)を秀吉の養子(人質)とすることで大坂に送った。

天正13年(1585年)に入ると、紀伊雑賀党や土佐の長宗我部元親、越中の佐々成政など、前年の小牧・長久手の戦いで家康に味方した勢力は、秀吉によってことごとく討伐された。このため秀吉との対立で不利になった家康は、相模の北条氏直との同盟関係を強化するため、上野の沼田領を割譲する約束を出した。ところが、沼田を支配していた信濃上田城主・真田昌幸はこれに応じず、家康から離反して越後の上杉景勝に寝返った。これに対して家康は、大久保忠世や鳥居元忠を大将とした1万の軍勢を真田攻めに派遣したが、昌幸の巧妙な戦術の前に大敗を喫し、さらに上杉の援軍が来たこともあって、撤兵を余儀なくされた。

また、この頃になると徳川家中は、酒井忠次・本多忠勝ら反秀吉の強硬派と、石川数正ら秀吉支持派の穏健派が対立し、分裂の危機にあった。そして11月13日、数正が徳川家から出奔して秀吉に寝返り、家康は窮地に陥っていった。この事件で徳川家の軍事機密が筒抜けになったことから、軍制を武田信玄を見習ったものに改革していった。

天正14年(1586年)4月23日、秀吉からの臣従要求を拒み続ける家康に対して、秀吉は妹の朝日姫を正室として差し出した。当時、家康には正室がいなかったためである。5月14日、家康と朝日姫は結婚するが、家康はなおも臣従しようとしなかった。しかし10月18日、秀吉が生母・大政所までも人質として岡崎城に送ってきたため、遂に家康は秀吉に臣従することを決意する。10月20日に岡崎を出立し、10月26日に大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が家康に秘かに会いに来て、改めて臣従を求めた。こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、10月27日、大坂城にて秀吉に謁見し(諸大名の前で)秀吉に臣従することを表明した。


[編集] 豊臣家臣時代
天正14年(1586年)11月1日、家康は京都に赴き、11月5日に正三位に叙任される。11月11日には三河に帰還し、11月12日には大政所を秀吉のもとへ送り返している。12月4日、家康は居城を浜松城から駿府城へ移した。

天正15年(1587年)8月、家康は再び上洛し、8月8日に従二位、権大納言に叙任される。秀吉から羽柴姓も与えられた。その後、家康は後北条氏と縁戚関係にあった経緯から、氏政の弟で旧友の氏規を上京させるなど秀吉と氏直の仲介役も務めたが、氏直は秀吉に臣従することに応じず、天正18年(1590年)、秀吉による小田原征伐が始まる。家康も豊臣軍の一員として出陣し、ここに秀吉による天下統一が成った。なお、これに先立って天正17年(1589年)7月から翌年にかけて「五ヶ国総検地」と称せられる大規模な検地を断行する。これは想定される北条氏討伐に対する準備であると同時に軍事的に勝利を収めながらも最終的に屈服に追い込まれた対秀吉戦の教訓から領内の徹底した実情把握を目指したものである。この
検地は直後の移封によってその成果を生かすことはなかったが、新領地の関東統治に生かされることになった。

その後、家康は秀吉の命令で、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国から、北条氏の旧領である武蔵・伊豆・相模・上野・下野・上総・下総の7か国に移封された。これは150万石から250万石への加増であるが、徳川氏にとっては縁の深い三河の土地を失い、さらに当時の関東が北条氏の残党など、なおも不穏な動きがあったことを考えると、家康にとっては苦難であったと思われる。だが、家康はこの命令に従って関東に移り、江戸城を居城とした。

関東の統治に際して家康は有力な家臣を重要な支城に配置するとともに、100万石余といわれる直轄地には大久保長安や伊奈忠次、長谷川長綱、彦坂元正・向井正綱、成瀬正一・日下部定好ら、有能な家臣を代官などに抜擢することによって難なく統治され、関東は大きく発展を遂げることとなる。

【家康によって配された有力家臣たち】

上野国
箕輪(後に高崎) 12万石 井伊直政
館林 10万石 榊原康政
厩橋 3.3万石 平岩親吉
白井 3.3万石 本多康重(ただし、1.3万石は父広孝分とされる)
宮崎(小幡) 3万石  奥平信昌
藤岡 3万石  松平康貞
大胡 2万石  牧野康成
吉井 2万石  菅沼定利
総社 1.2万石 諏訪頼水(頼忠説もある)
那波 1万石  松平家乗
沼田 2.7万石 真田信幸
下野国
皆川 1万石  皆川広照
下総国
矢作 4万石  鳥居元忠
臼井 3万石  酒井家次
関宿 2万石  松平康元
古河 3.3万石 本多康重
山崎 1.2万石 岡部長盛(康綱説もある)
蘆戸(阿知戸) 1万石  木曾義昌
守谷 1万石  菅沼定政
多古 1万石  保科正光
佐倉 1万石  三浦義次(久能宗能説もある)
岩富 1万石  北条氏勝
武蔵国
岩付(岩槻) 2万石  高力清長
騎西(寄西) 2万石  松平康重
河越 1万石  酒井重忠
小室 1万石  伊奈忠次
松山 1万石  松平家広
忍  1万石  松平家忠
羽生 1万石  大久保忠隣(2万石とも)
深谷 1万石  松平康忠
東方 1万石  戸田康長
本庄 1万石  小笠原信嶺
阿保 1万石  菅沼定盈
八幡山 1万石  松平清宗
上総国
大多喜 10万石 本多忠勝
久留里 3万石  大須賀忠政
佐貫 2万石  内藤家長
鳴戸(成東) 2万石  石川康通
相模国
小田原 4.5万石  大久保忠世
甘縄 1万石  本多正信
伊豆国
韮山 1万石  内藤信成

文禄元年(1592年)より、秀吉の命により朝鮮出兵が開始されるが、家康は渡海することなく名護屋城に在陣することだけで許された。『常山紀談』には、本多正信の「殿は渡海なされますか」との問いに家康が「箱根を誰に守らせるのか」と答えたエピソードを残している。しかし実際に渡海せずに済んだのは、小田原攻めと奥州攻めでの先鋒を務めたための優遇措置との見方もある。が、「際限りなき軍役」といって苦しんだ朝鮮出兵で徳川軍が渡海を免れたために、家康は兵力と財力の消耗を免れ、自国を固めることができた[1]。しかし、渡海しなかったのは家康だけが特別なのではなく、一部の例外を除くと東国大名は名護屋残留であった。

文禄4年(1595年)7月に「秀次事件」が発生した。豊臣政権を揺るがす大事件を受けて、秀吉は諸大名に上洛を命じ、事態の沈静化を図った。家康も秀吉の命で上洛したが、これ以降家康は、開発途上の居城・江戸城よりも、伏見城に滞在する期間が長くなった。豊臣政権内に占める家康の比重が高まっていったのは明らかだが、家康自身も政権の中枢に身を置くことにより、中央政権の政治システムを直接学ぶことになった[2]。

慶長3年(1598年)より秀吉が病に倒れると、秀吉は後継者である豊臣秀頼の体制を磐石にするため、7月に五大老・五奉行の制度を定め、五大老のひとりに家康を任命した。そして8月、秀吉は死去した。


[編集] 覇権奪取にむけて

関ヶ原古戦場秀吉の死後、家康は「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という秀吉の遺言により専横の兆しを見せ始める。さらに秀吉の生前である文禄4年(1595年)8月に禁止されていた大名同士の婚儀なども行って、巧みに味方を増やし始めた。その婚儀の内容は次の通りである(ちなみに婚姻した娘は、全て家康の養女とした)。

伊達政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝。
松平康元(家康の甥)の娘と福島正之(福島正則の養子)。
蜂須賀至鎮(蜂須賀家政の世子)と小笠原秀政の娘。
水野忠重(家康の従兄弟)の娘と加藤清正。
保科正直の娘と黒田長政(黒田如水の嫡男)。
さらに家康は、細川忠興や島津義弘、増田長盛らの屋敷にも頻繁に訪問して、多数派工作を行った。こうした政権運営をめぐって、大老・前田利家や五奉行の石田三成らは憤激し、慶長4年(1599年)1月19日、家康に対して三中老の堀尾吉晴らを問罪使として派遣した。ところが家康は、吉晴らを恫喝して追い返したと言われている。もっとも、2月2日、家康は前田利家らと対立する不利を悟って、誓書を交わして和解した。しかし、閏3月3日に利家が病死すると、豊臣政権下で家康と互角に渡り合えるだけの勢力を持った人物はいなくなった。

利家が死去すると、福島正則や加藤清正らが石田三成を襲撃する事件が発生した。これは豊臣政権下における福島ら武断派と、石田ら文治派による対立が表面化したものである。家康は武断派諸将を慰撫してその支持を集めるとともに、三成を奉行職から解任して、佐和山城で蟄居させた。

9月7日、家康は大坂に入り、三成の大坂屋敷を宿所とした。9月9日に登城して豊臣秀頼に対し、重陽の節句における祝意を述べた。そしてそのまま大坂に居座って、政務を執り続けた。9月12日には三成の兄・石田正澄の大坂屋敷に移り、9月28日には大坂城西の丸に居座って、大坂で政務を執り続けた。

さらに家康はこの頃、豊臣政権下における諸大名の切り崩し工作も行なった。9月9日に登城した際、前田利長(前田利家の嫡男)・浅野長政・大野治長・土方雄久の4名が家康の暗殺計画を企んだとして、10月2日に長政を甲斐府中で隠居の上、蟄居させ、治長は下総結城の結城秀康に、雄久は常陸水戸の佐竹義宣のもとへ追放とした。さらに利長に対しては加賀征伐を強行しようとしたが、利長が生母の芳春院(まつ)を江戸に人質として差し出したことで、征伐を取りやめた。しかし、これを機に前田氏は完全に家康の支配下に組み込まれた。家康の暗殺計画は、家康を大坂から追い出し兵を挙げようとする三成らの事実無根の謀略であったとも言われている。

さらに家康は多数派工作も行なった。

対馬の宗義智に1万石を加増。
遠江浜松12万石の堀尾吉晴に、越前府中5万石を加増。
美濃金山7万石の森忠政を、信濃川中島13万7,000石に加増移封。
丹後宮津の細川忠興に、豊後杵築6万石を加増。
薩摩・大隅の島津氏に、5万石を加増。

[編集] 関ヶ原の戦い
詳細は関ヶ原の戦いを参照

慶長5年(1600年)3月、家康は越後の堀秀治、出羽の最上義光らから、会津の上杉景勝に軍備を増強するという不穏な動きがあるという知らせを受けた。3月11日には、上杉氏の家臣で津川城城代を務め、さらに家康とも懇意にあった藤田信吉が会津から出奔し、江戸の徳川秀忠のもとへ、「上杉氏に叛意あり」と訴えるという事件も起きた。

これに対して家康は4月1日、伊奈昭綱を正使として景勝のもとへ問罪使として派遣した。ところが景勝の重臣・直江兼続は「直江状」という有名な挑戦状を返書として送ったことから、家康は激怒し、景勝に叛意があることは明確であるとして、5月3日、上杉討伐を宣言した。このとき、前田玄以や長束正家、増田長盛ら三奉行と堀尾吉晴・中村一氏・生駒親正らが征伐の中止を訴えたが、家康は無視して征伐を強行した。6月2日には、家康直属の関東の諸大名に陣触れを出し、6月6日には諸大名を大坂西の丸に集めて軍議を開いた。6月8日には後陽成天皇から出馬慰労として晒布が下賜された。6月15日には秀頼から黄金2万両、兵糧米2万石を下賜され、ここに朝廷・豊臣氏から、家康の上杉征伐は、「豊臣氏の忠臣であ
る家康が、謀反人の景勝を討つ」という義戦となったのである。

6月16日、家康は大坂城京橋口より、軍勢を率いて上杉征伐に出征した。同日の夕刻には伏見城に入った。ところが6月23日には浜松、6月24日には島田、6月25日には駿府、6月26日には三島、6月27日には小田原、6月28日には藤沢、6月29日には鎌倉、7月1日には金沢、7月2日には江戸という、遅々たる進軍を行っている。

この出兵には、家康に反感を持つ石田三成らの挙兵を待っていたとの見方もある。実際に、7月、石田三成は大谷吉継とともに挙兵。7月17日には家康によって占領されていた西の丸を奪い返し、増田長盛、長束正家ら奉行衆を説得するとともに毛利輝元を総大将として擁立した。さらに家康の弾劾状を諸大名に対して公布した。7月18日には家康の命令で伏見城を守っていた鳥居元忠を攻め、8月1日に元忠は討ち取られ、伏見城は落城した。さらに三成ら西軍は伊勢、美濃方面に進出した。

これに対して家康は7月24日の下野小山の陣において、伏見城の鳥居元忠が発した使者の報告により、三成の挙兵を知った。

家康は、上杉征伐に従軍していた諸大名の大半を集め、「秀頼公に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として、上方に反転すると告げた。これに対し、福島正則ら三成に反感を持つ武断派の大名らは家康に味方すると告げ、ここに家康の東軍が結成されたのである(小山評定) 。

東軍は、家康の徳川直属軍と福島らの軍勢、合わせて10万ほどで編成されていた。そのうち、一隊は徳川秀忠を総大将として宇都宮から中山道を、家康は残りの軍勢を率いて東海道から上方に向かうこととなる。一方で家康は江戸城に1か月ほど留まり、160通近い書状を諸大名に回送している。これは、三成が大坂城と秀頼を事実上擁立していることが伝わったため(小山評定の段階では三成の単独挙兵として伝わっていた)、彼らが三成のもとへ駆けつけることを恐れたためである。

8月10日、福島正則ら東軍は尾張清洲城に入る。8月21日には西軍の勢力下にあった美濃に侵攻し、8月23日、西軍の織田秀信が守る岐阜城を落とした。このとき、家康は信長の嫡孫であるとして、秀信の命を助けている。

9月1日、家康は江戸城から出陣し、9月14日に美濃に着陣した。同日、前哨戦として三成の家臣・島左近と宇喜多秀家の家臣・明石全登が奇襲をかけてきた。それに対して東軍の中村一栄、有馬豊氏らが迎撃するが敗れ、中村一栄の家臣・野一色頼母が戦死してしまった(杭瀬川の戦い)。

9月15日午前8時、美濃関ヶ原において遂に東西両軍による決戦が繰り広げられた(関ヶ原の戦い)。当初は三成ら西軍が圧倒的に有利であった。これに対して午後0時、家康は不利な戦況を打開すべく、鉄砲隊長の布施孫兵衛に命じて、松尾山の小早川秀秋に対して鉄砲を撃ちかけさせた。これを機に秀秋は西軍を裏切って東軍に味方することを決意し、小早川軍は西軍の大谷吉継隊に襲いかかった。これに対して大谷隊も奮戦したが、さらに脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠らの寝返りもあって西軍は総崩れとなり、東軍が形勢逆転した。戦いの最終盤では、敵中突破の退却戦に挑んだ島津義弘軍が本陣目前にまで猛攻して来るという非常に恐ろしい経験もしたが、関ヶ原の戦いは家康率いる東軍の勝利に終
わった。

家康は9月18日、三成の居城・佐和山城を落として近江に進出し、9月21日には戦場から逃亡していた三成を捕縛し、10月1日には六条河原で処刑した。そして大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し、それらから奪った所領のうち、自分の領地を250万石から400万石に増やした。秀頼、淀殿に対しては「女、子供の預かり知らぬところ」とお咎めなしで領地もそのままだったが、家康の論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地(豊臣家の直轄地)は西軍の大名領もろとも失われた。その結果として豊臣氏を摂津・河内・和泉65万石の一大名の身分に落とし、家康が実質上の天下人として君臨したのである。


[編集] 征夷大将軍
関ヶ原の戦後処理を終わらせた慶長6年(1601年)3月23日、家康は大坂城西の丸を豊臣氏に明け渡して、伏見城に入ってなおも政務を執った。そしていよいよ、征夷大将軍として幕府を開くために、徳川氏の系図の改姓も行なった。「将軍になれるのは清和源氏」という慣例があったため、家康は、神龍院梵舜に命じて徳川家の系図を源氏の源義家に通じるように整備させた。

なお、近年の研究(笠谷和比古、煎本増夫ら)によると、家康が本姓が源氏だと公称したのはこれよりはるか前の天正16年(1588年)であるという。後陽成天皇の聚楽第行幸に際して提出した誓紙に家康が「大納言源家康」と署名しているためである。他に天正19年(1591年)、家康が相模国の寺社に出した朱印状にも「大納言源朝臣家康」と記された書判もあり、これらのことから笠谷らは「豊臣政権下で家康は既に源氏の公称を許されていた」と述べている。なお、家康は松平姓から(勅許を得て)徳川姓に改姓した際には本姓は藤原氏と公称していた。また実際には清和源氏の出自でなくとも将軍職への就任には問題がないので将軍になれるのは清和源氏でなければならないというのは江戸期に作られた俗説とする
説がある。
慶長8年(1603年)2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城に派遣した。そしてここで六種八通の宣旨が下し、家康を征夷大将軍、淳和・奨学両院別当、右大臣に任命した。征夷大将軍への任官に伴い、源氏長者ほかの官職を与えられる栄誉は、足利義満から始まった慣例である。

3月21日、家康は二条城で正式な将軍宣下を受け、3月25日には参内して将軍拝賀の礼を述べた。ただし、朝廷から正式な将軍宣下が行われたのは3月27日であり、この日をもって正式に江戸幕府が開かれたと見てよい。

家康は秀吉の死から4年半で、豊臣氏の五大老から武家の棟梁としての地位を手に入れ、名実ともに豊臣家を上回る地位を確立した。幕府開府に当たって武家諸法度や禁中並公家諸法度の制定、各制度の整備を行い、武家の統制及び朝廷の掌握に向けた法度を定めた。朝廷を掌握すれば豊臣家が大義名分の上で形勢挽回する道はなく、天下統一の後においても、朝廷を支配下に入れることは、その後の謀叛の予防やあらゆる政治的な優位を確立する上で重要であった。


[編集] 大御所政治
慶長10年(1605年)4月16日、家康は将軍職を辞するとともに朝廷に三男・徳川秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川家が世襲していくこと」を天下に示した。同時に家康は、秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請したが、淀殿が激怒して拒絶する。結局、家康が六男・松平忠輝を大坂城に派遣したことで、事は収まった。このことで、豊臣家の権威は大きく傷ついた。

慶長12年(1607年)に駿府城に移って、江戸の将軍・秀忠に対して大御所として実権を掌握し続けて二元政治をとりつつ、幕府の制度作りに勤めた(大御所政治と呼ばれる)。ただし、二元政治といっても、実際は家康・秀忠の対立も多く、また徳川家臣による権力闘争も少なくなかった。慶長17年(1612年)の岡本大八事件、慶長18年(1613年)の大久保長安事件などが、それを如実に示している。

慶長16年(1611年)、二条城にて豊臣秀頼と会見したいと要望した。主筋を自任する豊臣家はこれを拒絶する方向でいたが、将軍秀忠は秀頼の岳父である関係で、あくまで「岳父への挨拶」という名目で上洛を要請し、ついには秀頼を上洛させることに成功した。この会見により、天下の衆目に「家康が日本の主君である事」を示したとするのが一般的な見解であるが、秀頼の権威や脅威が無視できないものであることを改めて家康が実感させられたとする見解もある。

新年会1月1日

今年もどうぞ

よろしくお願いいたします

太らないようにがんばりましょう

元気にもりもりの一年にしてくださいませ

よろしくお願いいいたします