『夜、鳥たちが啼く』を公開初日、映画館で観た。オンライン試写も含めると2回目。推しの主演作だから観た、というだけでなく、観る理由は色々ある。当然、試写で観て良かったからもそうだし、城定秀夫監督作品だからでもあり、佐藤泰志作品の映画化だからでもある。わたしにとってはフックの多い作品なので、期待もひとしお、不安もひとしおであった。

佐藤泰志は映画に見出され近年再評価を受けた作家だ。函館のミニシアターからの発信で、函館市民による佐藤泰志原作の映画制作・プロデュースが行われ、2010年以降、函館を舞台にして5作がつくられてきた。出演者も綾野剛、菅田将暉、オダギリジョー、柄本佑、東出昌大など錚々たる面々で、評価も高いものばかりになった。
わたしが一等好きなのは昨年の『草の響き』で、映画好きの間では2021年のベスト10に上げる人も多く、そして東出昌大のベストアクトだと褒め称える声も多かった作品だ。わたしが観たのは今年に入ってから配信でだったけれども、居間の床に転がって慟哭するほどに刺さった作品だった。佐藤泰志本人が苦しんだであろう自律神経失調症、その同じ病にのたうつ者として、そして道民であり母親の故郷である函館に思い入れがある者として、受容体が多かったせいで、非常に刺激の強い忘れえぬ1本となった。
だから、今度は函館ではなく関東近郊を舞台に、プロデュース体制を変えて6作目をつくるというニュースだけでも個人的に注目に値するものだったのに、推しが主演をするとなれば銅鑼を打ち鳴らして近所を廻るレベルの一大事である。なんてこった。
しかも今年大注目の城定秀夫監督作品。なんてこった。『アルプススタンドのはしの方』でお名前を知ったというあるあるパターンだけれど、今年はじめの今泉力哉監督との脚本交換企画『愛なのに』&『猫は逃げた』以来、ちょっとファンである。わたしには「猫のかわいさが撮れている映画は絶対面白い」という判断基準があるのだが、城定監督はドンピシャだったのだ。そこから怒涛の公開ラッシュで今年大活躍の監督、直近では脚本参加の『よだかの片想い』も、映像化ならではの原作にないシーンがとても良かったので印象的だった。

えらい前置きが長くなってしまったけれども、そんなわけで『夜、鳥たちが啼く』は観るべき理由が多すぎて観る前は逆に期待が空回って浮ついた感覚だったし、観たら観たでどの角度から感想を語れば良いのか言葉に詰まって出てこないみたいな感じ、色々と大渋滞を起こしてしまった。まとめようとするからまとまらないのであって、開き直ってまとまらないままだらだらと取り敢えずの感想を垂れ流しておくことにする。

まずはとにかく脚本が良かった。原作からの翻案が見事に機能していたと思う。
原作は25才の若い男が子連れの女とくっつく過程、微妙な関係で交わす会話の妙を愉しむようなシンプルな短編だ。それを少しだけ年齢を上げ、うまく生きられない苦しみと、傷を舐め合うというモチーフを導入し、映画1本分に膨らませている。
慎一は作家という設定になり、書くことはできず、人にはへつらい、彼女との関係に破綻をきたし、堪えきれない破壊衝動を抱えたまま人生に行き詰まっている。そして裕子は、原作だと、どこか適当なところのある慎一につけこんで押し掛けた奔放な女というイメージが強いが、映画ではしっかり自立した生真面目な母親の性格が強い。だからこそ、独り寝ができずに男を漁りに行くという行動のギャップが際立っている。
原作からの一番の変更点は、慎一の元カノが、仲裁に入ろうとした裕子の夫とデキてしまったゆえに、裕子が離婚に至っているというところだろう。この変更が人物像のアップデートを可能にして、原作の平成元年の空気を感じさせるようなふたりを令和の世に生きるふたりに変貌せしめていた。慎一が裕子に親切にするのは、自分が元カノとうまくやれていれば裕子は離婚していないという引け目があるからかもしれないし、被害者としての仲間意識のようなものかもしれず、その点映画内では一切語られないながらも「知人に母屋を使わせる」というシチュエーションの説得力が増している。
微妙な関係で交わす会話の妙という原作のメインプロットは活かしつつも、より佐藤泰志作品らしく、生きることの悩みも喜びも等しく温かい目で見つめるような、痛みを描きつつもその奥で光るものを掬い上げるような、素晴らしい物語になっていた。青い夜の底、過去を引き摺り疲れ果てたふたりが、プレハブという鳥籠の中で身を寄せ合う。そして昼の光のもとでアキラが笑い、そこにある幸福を享受していいのだと、光を浴びていて良いのだと、映画は人生を肯定する。
俳優の演技も素晴らしかった、当然それはある、けれどもやっぱり素直で真っ直ぐに沁みてくる脚本が秀逸だったなぁとまずは思う。パンフで城定監督が「高田さんはそこに『だるまさんがころんだ』を入れて、あの遊びに意味付けもしない。あざとさがない、すごくいい脚本だと思います」と仰っていて、まさにそういうことだなぁと思ったが、小難しく暗喩を散りばめるでもなく、めちゃくちゃ素直に人と人の触れ合いの幸福を描き、それでもたっぷりと余韻が香って長く残る。観ていて心地良く、映画を観る幸せを感じられる映画だ。
はっきりとわかる暗喩・象徴は、クラゲに刺された傷がなかなか癒えないというのが心の傷を表しているのと、夜に啼く鳥の声が心の叫びや抑えきれない衝動を表しているくらいではないだろうか?それ以外のものはみな、そこに意味を読み取ることができるかもしれないけど意味なんてないかもしれない、くらいのスタンスで配置されているように感じる。ただただそこに在る幸福をあるがまま受け容れようとする慎一達と同じく。私の理解が及ばないだけかもしれないけれど、どちらかというと意味などなくただそこに在る、そんな気がするのだ。
「だるまさんがころんだ」も、3人の距離を縮めてくれた遊びだけれど、それ以上の価値付けはなく、最後に裕子が母屋に入る前に唱えてみても慎一は振り向かない。運命的に通じ合ってるわけでも何でもないふたり。ただ、弱った時、そこにいただけの相手。身体は重ねたけれどもそれ以上は何も起こらず、関係にわかりやすい名前はつかぬままに映画は終わる。ゴールインはせず、破滅もなければ、カタルシスもない。けれどそれこそがまさしく日常というものであり、わたしたちの日々であり、生きるということではないだろうか。原作から色々と変えているのに、市井の人の営みを描いた佐藤泰志らしい映画になっているというのは、やはり高田亮でなければできなかった脚本なんじゃないのかなと、完璧さに唸ってしまう。

とにかく裕子の人物像が良かった。子供がご馳走になったら千円札を返すとかめちゃくちゃリアルじゃないですか?あと仕事、非正規雇用だな〜というリアリティラインが絶妙。時給まで想像つくわ。こういう時ドラマとかだとコネでありついた接客業とかありがちじゃないですか…そうじゃなくて派遣で、事務で、しかもいずれなくなりそうな仕事っていう不安定さの醸し出し方、ほんと凄い脚本だなと。そういう経済的基盤の不安定さと将来への不安、それを踏まえての気丈な態度、しっかりした母親であろうと気を張っている様子、からの歪み。めちゃくちゃリアリティ感じる人物像でした。
で、それを松本まりかさんが演じるのがもう最高で。甘い声とかアンニュイな雰囲気とかいわゆる色っぽいと見られがちな要素を持ち合わせている女性ほどめちゃくちゃしっかりしてる、しゃきしゃきしてるとか世間ではありがちだと思うんですけど(自衛でそうならざるを得ないのかもしれないしわたしが偶々そういう人を見かけることが多かっただけかもしれないしわからないけど)そういう精神的に自立した大人の女性でありながら、ふとした瞬間に消え入りそうな儚さもあって、ほんとリアルさと繊細さがたまらないです。裕子〜!ウチにも住んでくれ!(応援うちわ)

あとアキラくん役の森優理斗さんはいわゆる天才というやつでいらっしゃる…?あ、そうですか、天才子役ですか…やっぱりね…?本当に演技とは思えない“幸福”がそこにあって、それは現場の雰囲気や俳優同士の関係性が成し得たもので、それをそのまま映し取った演出や撮影の技なのかもしれないけど、それにしたって凄すぎるでしょう。子役を子役と認識して「あー子役頑張ってるなぁ」と思うだけで映画への没入感は損なわれてしまう、それが微塵もなかったので。母と新しい男が楽しそうに会話しているのが意味などわからなくともただ嬉しい子供の顔つき、素晴らしい演技だった。アキラ…愛しいな…おいちゃんとも一緒に遊んでくれんか…

慎一に対しては、うわっモラハラDV野郎じゃん!というところから入るも、元カノが反撃するシーンでその憤りがしゅっと萎む。あの「主婦になりたいな〜」のシーンの緊張感たるや、実際にごりごりと音が聞こえた気がします、慎一のプライドや尊厳が削れる音。可哀想なモラハラ被害者かと思いきや、最も効果的な方法で相手を傷付けにかかる元カノの姿が恐ろしくて。
もちろん、彼女もそれだけ腹を立てていたのだろうけれど。まぁ慎一の度を越した悋気、オマエという呼び方、不機嫌さで相手をコントロールしようとする態度、完全にモラハラなので、まぁよく言えば「甘えが出ちゃってる」「自信のなさの裏返し」とかなんでしょうが、そんなことは知らん〜はよ別れなされ〜!としか。もう傷付けあうために一緒にいるだけじゃん。
互いへのリスペクトがなくなってる関係性はもう終わりです。あの店長襲撃事件がなかったとしても、実質終わってしまっているふたりなんだよなぁと。家という場所で食事を摂りながらのあのシーンの寒々しさ、母屋が心理的安全圏ではなくなってしまってプレハブに引き篭り、彼女が去った後も戻りたがらない慎一の気持ちはよくわかります。記憶は場所に宿りますからね。
そんなこんなで愚かなふたりは踏切であちらとこちらに分かれ、慎一がぐしゃぐしゃの泣き顔を見せる。ついに決壊した、みたいな顔の歪め方、あぁ、やまださん流石です、その演技好きです。みじめだね、人生の中にどうしてこんな瞬間が来てしまうんだろうね、というどうしようもなさが身に染みる。彼女は立ち去る。うん、付き合いきれんよな。踏切を使って物理的にも精神的にも完全に断裂したことを見せる流れ、素直で好きでした。その分、かおがみたくないがまんできない、の置き手紙はなくても良かったくらい。で、彼女の去った部屋で酒をあおる慎一。冷蔵庫はちゃんと閉めろ!と気を揉むわたし。慎一のどうしようもないみっともなさが憐憫を誘う。つらいよね。あなただって好きでこんなことしでかしたんじゃないよね。慎一は、いや、わたしたちは、どうして生きてるだけでゴリゴリ尊厳を削られないといけないんだろう。大事にしてもらえれば、きっと誰かを大事にすることもできるのに。人は弱いなぁと思う。弱くて愚かで、そして1人では生きられない。
ここからの、先輩の家でもてなされた時にすでにちょっと裕子を意識していた感じ、小説を読んでくれて、他のも読んでみたいと、つまり慎一のことを知りたいと言ってくれて、まともに扱ってくれてる感じが、他の人間との対比でもあるし、後々こうなるよなぁという説得力でもあるし、僅かな緊張を孕みつつ少しくすぐったくなるような空気感が上手い。
そして裕子が離婚届に判を捺しに行った時にまさかの慎一の元カノがふてぶてしく同席していた場面、サスペンスフルでめちゃくちゃ面白かった。初回はオンライン試写を家で観ていたので、でぇええええええ!???と思わず声が出た。しかし恋の相談をしてたらくっついちゃうとか世の中には掃いて捨てるほどごろごろ転がってるあるあるなわけで。巧みな脚本ですね。ここで一気に元カノへの反感が煽られ、慎一と裕子を応援する気持ちが芽生えてくるようにできている。

わたしは、慎一がアキラと仲良くしていてもそれを鵜呑みにできないっていうか、まず責任持たずに猫可愛がりすることは比較的誰でもできることだし、そして子供と対等な目線で相対して信頼を得るのは素晴らしいことだけど親としてなさねばならないこととは相反するものだし(実際に裕子に色々言われる)、子供に優しくできるから良い人〜という問題じゃないってことは、プリンターを破壊しているところをアキラに見られたシーンが表していると思った。なんだかんだ言っても、取り繕えない暴力性を慎一は抱えているのだ。それを偶発的であっても子供に見せてしまうなんて、やっぱり慎一はダメな大人だ。
けれど、それでもやっぱり慎一は優しい面を持っていて、原作だと裕子に「(行きずりの男と寝るの)おかしい?」と訊かれて首を振りつつ「ただ、とっかえひっかえだと疲れないか?」と言ってあげるシーンがわたしは大好きなのだけれど、否定せずに気遣う、そういう風に言葉を選べる人なんだっていう慎一の魅力が1番よく出てるところだと思って。映画だと裕子の「どうかしてるよね」という自嘲に慎一は「今だけだよ」と答える。確かに母親としちゃどうかしてるけど、誰だって一時的におかしくなることはあるし、そうなったっていいんだよとでも言うように。モラル規範は強まり、けれど逸脱も許す。ここも時代感が出てるというか、なんとも今っぽい改変だなと思う。

何故自分のことを書くのか、その答えとして「終わらせたいから」には涙が出た。わたしたちは人生がたった一度きりであることに抗うかのように小説を書いたり読んだりする。慎一は過去と決着をつけたくて闘い続けているけれど、闘ってるつもりでもただ過去に囚われているだけなのかもしれなくて、書いたら本当に終わらせられるかなんてわからなくて、そしてそれを自分で理解していても、どうしても書かずにはいられないんだろう。作家だから。言葉を紡ぐ生き物だから。あの悲哀に胸打たれ、青い夜の底で光を求めて手を伸ばすようだなと思って涙が出たから、やまださんがインタビューで「言ってみたら悲しいトーンになった」という話をしてくれているのは凄く嬉しい。あのセリフ大好きです。

ラブシーンも良かったですね、わたしすっごい素直に「気持ちよさそうでいいなぁ〜」って思った。料理を見て「わぁ美味しそう」って思うのと同じような感覚で、セックスを見て「わぁ気持ち良さそう」って。これ粘膜が蕩けるようなめちゃくちゃ気持ちいいやつだ〜、羨ましいなって。映画のラブシーンで観客からこんな感想が出てくるってちょっと凄くないですか。それだけ「つくりもの」だと意識させず、身も心もぴったりきた瞬間の求めあいなんだという描写ができてるってことで、素晴らしいシーンですよね本当。インティマシーコーディネーターさんの話が聴きたいんですけどインタビューとか全然なくて…何か読み逃してたら教えてください…

映画のメインとも言える、慎一と裕子が取った「結婚もしてないのに家庭内別居」については、平成元年に原作が出た時のようなキャッチーさはもうないだろう。原作のそれは明らかに、結婚をしないというところに重点が置かれていた。でも今の時代だと既存の婚姻制度について絶対だという感覚はもうないだろうし、結婚しないことについて親を納得させなきゃとかの感覚も真正面から描くには古臭い。結婚してどうあるべきかも、結婚するかしないかも、多様なものだと見做される時代になっている。内縁の夫?子供虐待する実の親よりいいじゃん!ってなもんかもしれない。だから原作が狙ったものとはまた微妙にズレた形で、先の約束をせずに関係を続けよう、生活も半同居のままにしておこう、それは世間体が悪く座りの悪いおかしなことかもしれないけど愚行権を行使しよう、という意味合いにおいて、「結婚もしてないのに家庭内別居」というキャッチコピーはふんわりと機能している。

結婚とはなにか。パートナーシップを結ぶことであり、性愛の在るところであり、繁殖場所でもある。ということになっている。それらの機能を一緒くたにして「結婚」というパッケージングをするから色んな問題が起きるのだと思う。わたしはそういうのからもう“降りた”人間なので、配偶者との間にあるのはパートナーシップだけだ。尊敬と親愛で結ばれた人間と、生活しやすくなるための相互扶助の約束をする、それが私にとっての結婚である。そういう人間から見て、慎一と裕子の関係はあまりにも普通というか、結婚しないのなんかまずいの?母屋で一緒に暮らさないのが何か?別にいいじゃんって感じ過ぎて、もう少し抵抗があったほうが正しく映画の意図を受け取れたんじゃないかと残念になるくらいで。家庭内別居?寝室別にする夫婦と変わんないだろ今時普通だよ!忙し過ぎて同じ屋根の下ほとんど顔合わせてない夫婦だって今時普通だよ!みたいな笑

慎一と裕子が新たに定めた関係は、ゆくゆくは同じ寝ぐらの“巣”になるのかもしれないし、いずれ飛び立つまでの止まり木に過ぎないのかもしれない。どちらにしろ、鳥はもう啼かない。鳥籠に閉じ込められておかしくなってそれでも生きていると叫ぶように夜中に啼く鳥は、もういない。いつ終わるかわからないこの贅沢な時間を味わい尽くそう。そして映画の中のその贅沢な時間を味わうために、わたしもまた何度か劇場へ足を運ぼうと思う。


関わった全ての関係者の皆様、何度でも見られる豊かな映画を有難うございます。