*ドラマ・漫画ともに最終回までのネタバレ含まれます(原作コミックス派はご注意)


ドラマ版ホームルーム最高だったほんと最高だったあぁ語彙がない。これ、他の人はどうかわからんのですけど、フェミニストや抑圧を感じている女性にこそ刺さるドラマだったんじゃないのか?と思っている。少なくとも私にはそういう角度でぐっさり来ました。このドラマがどれだけの配慮をもって作られたか、これを男性監督が作ってくれたというだけで感謝でいっぱいになってしまうんだ


最終回を観て数日、未だに興奮冷めやらずなので、文字にして吐き出すかと。考察というほど体系立てておらず、あくまで私の目にはどんな物語として映ったのか、という感想です。


原作との違いとポリコレ


このドラマは、もーほんと「今時はコンプライアンスだポリコレだってやり辛くなったよなぁ」とか言い出す業界のお偉いさんが居たら(いきなり仮想敵をこしらえる)そういう人に観て欲しいよね!まあそういう人は大体何観ても響かないんでしょうけども。

原作から如何に改変したか、何の意図をもってどう変えたか、そこに物凄くメッセージが込められているし、ポリコレ全部クリアしてもこれだけ刺激的でスリリングなものが作れてしまうというひとつの証明になった。意識的にそこに挑戦した意気込みを感じたし、凄い意欲作だと思います。


私はもともと原作漫画に対しては今時流行りの作品だなぁという感想を抱いていた。映画やドラマをじっと集中して観られない人が増え、とにかく短くてわかりやすいモノが求められがちになり、視聴者や読者は丁寧な展開を「待てない」と言われている昨今。漫画についてもスマホでサクっと読むのが当たり前になってきて、結果、より刺激的なものをという方向性はエスカレートし、エロやグロをフックにして読者を釣ろうとするweb漫画の広告が厭というほど溢れている。

ホームルームもそんな需要に応える作品の一つであり、その路線でマーケティングされていたのは、『食糧人類』『生贄投票』とかと一緒にした「刺激・衝撃・惨劇マンガ試し読みパック」なんてタイトルの電子書籍が出ていたことからも間違い無いかと思う。

しかし衝撃の展開で釣っていく類似作の中でも、ストーカー男×ストーカー女の両片想いという基本コンセプトがまず新しいし(勉強不足なだけかもですが私の知る範囲では)そこにぶっこむ脇役達も全員エゴまみれ突進する恋心、身勝手な愛の押し付け合い。それをパワフルかつスピーディーに描く独自の表現、確かにとても面白い。う、上手い!と唸らされてしまう。

ただ、性暴力についてのリアリティの無さにやや我に返ってしまう部分はありましたね。これやられて幸子が気付かないわけないじゃんとか女の身体性にまつわるディテール無視して話を作れるのは作者は絶対男性だろうな〜って思ってた。(今調べたらやはり男性らしい)


そんな漫画をドラマ化するというので、まあどれだけ刺激的な映像に出来るかの挑戦になるんだろうなと思っていて、どうしたって原作の世界観は再現しきれないでしょうと正直期待はしておらなんだ。が。まさかこんな大胆なテーマ改変がなされるとは。


あ、先に念押ししておきたいのは原作をサゲる意図はないです。漫画には漫画の、ドラマにはドラマの、適したテーマや表現があり、今回はドラマ版がドラマとして私の好みだったという話。原作とはもはや話のジャンル自体が違う作品になっているので、例えばSFと恋愛モノの映画をどちらが優れているか同列では語れないように、漫画版とドラマ版も優劣はつけられない。ここで原作との相違を取り上げるのは、あくまでドラマという枠に合わせて適切な改変がなされたねという話です。


原作はストーカー男×ストーカー女の両片想いというコンセプトのサイコパスもの。衝撃の展開!をどんどん繰り広げて引っ張っていく話。あくまでも「変態」である個としてのラブリン、個としての幸子を描いている。だって衝撃の展開!を描くサイコパスものだから、読者の想像もつかないことをする衝撃的な「変態」でなければいけないし、読者が安全圏からそれを眺めて「ヤバーイ!」と言いつつ楽しめるようになってないといけない。


一方でドラマ版が提示するのは普遍的な「愛」の物語。「変態」だからではない、誰にでも起こり得る、愛の名の下に行われる色々な搾取について。それを愛だと思い込むことの悲劇について。私達の周囲に腐るほど転がっている、日常的に身の回りを行き交う「愛のふりをした何か」の話だ。

ラブリンの心理、やっていることは、現実に多くの男性が犯している過ちだし、ラブリンの母や幸子や椎名先生やマルの犯した過ちは、多くの女性が経験しているものでもある。視聴者は他人事として観ることを許されない。


なので物語のテーマは完全に変わったし、それに合わせた細やかな改変が、このセンセーショナルなストーリーにしてポリティカルコレクトネスを実現させるという離れ業を成した。

まずラブリンが美術教師になっていて、幸子の天然な美しさを聖女のように崇めて愛でる方向にしているので、幸子がレイプされていない。ゆあと森の関係にしろ、女子高生が性暴力の被害に遭うことを上手く(説得力を持たせて)回避している。ストーリーだけでなく映像としても、若い二十歳以下の女優さんたちの身体を性的に描写していない。眠れる幸子は「着衣のマハ」だし(むしろ裸のマハじゃないんだ?と色々想像させる)ゆあの足舐めのシーンもマネキンの足にしていた。未成年者への性的愛撫のシーンでありながらそれを映像には一切映していないという巧みな造りになっている。たくさんでてくるメタファーにいちいち驚いて感心してしまった。

そしてタケのB専設定をなくしたため、マルが外見に関してとやかく言われたり不美人だと扱われるシーンは全くない。ゆあがマルを罵倒する時も「こんな奴」という表現になっているけど自然。ブスだのデブだのそんな言葉やそれを匂わせるネタを盛り込まなくとも、集団の中のポジションというのは描けるものなのだ。

ラブリンの行為は最後まで美化されず、ちゃんと醜く描かれていた。「俺は○○してやった」と尊大に自分の行為を愛だと主張する彼は、唾を飛ばして「俺が」「俺は」「俺だって」と喚く彼は、子供相手にマウントを取ろうとする彼は、何処までも自分のことばかりの哀れで卑小な存在だった。

一方でマルやタケは、相手を想い、自らの欲求を抑え「言葉で同意を取って寄り添う」ということを覚えた。

大人になった幸子は、同僚教師の「いい男見つけたんじゃないのか」という言葉に「それ、アウトですよ」と言えるようになっている。


搾取をちゃんと搾取として描くこと、差別表現を当たり前の風景として描くような古い価値観の再生産をしないこと、これがポリティカルコレクトネス!お陰様で観ていて引っ掛かりを覚えることが全くなく、ストーリーに没入することができた。いや嘘、「すごい!」と感心してしまって逆に没入できないこともありましたけども。製作側の配慮と視点を感じてとても心地良かった。これが新しいスタンダードになって欲しいものです。


ヒーローになれない男達


此処からはラブリンの行為を女性差別と絡めて一般化して話します。


なお、ドラマの中では男性から女性への搾取に限らず、性別問わずに「愛のフリをした何か」を描いていたと思います。保健医の椎名先生からラブリンへの欲求なんかもそうですし。ただ、「ヒーローになりたい男」を主人公に据えた以上は男側のそれをメインに取り扱ってると思うし、その呪縛から抜け出すタケの扱いはラブリンに対比させての第二の主人公たるものだったので、やはり主軸はアンチ・ヒロイズムだったと思います。


ラブリンは、母親から虐待を受けて「ヒーローであれ」と叩き込まれた。母親の自死へのショックも加わり、価値観が歪んでしまったという筋書きです。母親もおそらくDV被害者で、救われない我が身の辛さを息子に向けてしまっていたであろうことが示唆されています。

可哀想なラブリン。けれど、そんな悲劇が降り掛からなくたって、現実には同じような価値観の男性が沢山いるのです。認知を歪ませるママンの呪縛は、この社会が男性に強いている価値観そのものです。

ラブリンが象徴するものは、現代社会において理想のヒーローになりきれない男性の抱える苦しみ、そこから来るミソジニーであり、それを意識的に投射していると窺い知れるのが、視聴者としてとても嬉しいことでした。


男はヒーローに憧れるものです。ラブリンだけではありません。タケにも「世界中が敵にまわっても俺はお前を守る」的な台詞がありましたよね。「男らしさ」という規範の上で、もっと言うと家父長制の中で、多くの男性がヒロイズムに酔ってその価値観を共有し、そこから逸脱することに怯えている。


では、ヒーローになるためにはどうすれば良いか。実際に文句のつけようのない偉業を成し遂げている人は置いといて、突出したものを持たない大多数の男性が、ヒーローになるためには。

そもそもここでいうヒーローとは己で規定できるものではありません。思うに、他者に讃えられて初めて、英雄は英雄となるのではないかと思います。誰も知らないところで英雄的行為を働いても英雄にはなれない。「彼はヒーローだ」という称賛を得ることで、ヒーローはヒーローたりえるのではないか。男性の考えるヒーローとは、「男として合格」という、他者による判定をクリアした人物です。(ラブリンの場合はトラウマによってそれが内面化され、ママンからの承認を求め続けていました)

そう考えると、ヒーローになるために必要なのものは他者、最低限、悪か弱者です。どちらも、ヒーローが「悪を倒す」あるいは「弱者を救う」時に、ヒーローをヒーローだと規定してくれる(自分より上の存在だと認知してくれる)観客の役割を兼ねています。

けど現実でそうそう悪なんていません。いたとしても立ち向かう勇気なんてないのです、ラブリンが不良グループの暴力の前では怯えた子供に戻ってしまうように。そういう時にそれでもヒーローになりたい男はどうするか。そう、弱者を手に入れようとします。周りの女をか弱いヒロインに仕立てようとするわけです。(もちろんホモソーシャルな集団の内部で「男らしくない」男性を弾圧しようとする傾向もありますが、それも男性と女性の関係性をどう考えているかが基盤にあります)


か弱いヒロインを求める男たち。ここで問題になるのは、彼らが(もちろん全員ではありませんが一定数の男性が)主眼に置いているのは、女性の抱える問題を解決して救うことではなく、「女性を救える俺」の優位性を確認し万能感に浸ることにあるという点です。


ラブリンが手に入れた「幸子」は、母親に見捨てられた薄幸の美少女でした。ラブリンは夜な夜な彼女の住居に侵入し、眠っている幸子の「無力さ」を堪能します。深い眠りに落ちて何も抵抗できない幸子は「無力な女性」という記号です。ただでさえ母に出奔され可哀想な状況にある彼女を、更に眠りの淵に追いやり、完全なる無抵抗の状態にして愛でているのです。

ラブリンは己が「美」に献身しているかの如く詭弁を弄しますが、そもそも家庭訪問して幸子の境遇を知るまで興味を持っていなかった彼は、幸子の外見に惹かれた訳ではない。彼の考える美しさとは、従順さ・主張のなさ・物言わず耐える姿なのでしょう、熱心に世話をしていた花々のような、簡単に手折れる存在として。


ラブリンは幸子を聖女のように崇めていると見せかけて、彼女の無力さを愛している。その無力さをもって、相対的に自分の力を確認することに酔っているのです。

他の女性を「加工物」と嫌悪するのは、彼を脅かす存在であるからでしょう。彼は主張しない無力な女性しか愛せない。そしてそれは、相手の幸せを願うものではない、愛のふりをした搾取です。「桜井は不幸でないといけない」と自ら言っていたように。自分の優秀さを感じさせてくれる、気持ちよくさせてくれる、哀れで無力なヒロイン。それがラブリンの欲したものであり、実際に多くの男性が陥ってしまうミソジニー(女性蔑視・憎悪)でもあります。


彼らが好きなのは、尊敬できる素敵な女性ではなく、女性に尊敬の目で見られる「スゴイ俺」です。自分です。だから本質的なところでは女を下の存在として馬鹿にしてかかっている。(好きなタイプを「守ってあげたくなるような子」とか言っちゃう男はモラハラ予備軍だから若い子はマジで気をつけてくれよな!!!)(私怨)そしてコントロール下に置けない女性のことを憎く感じてしまう。「無条件に男を敬うべき女のくせに、俺を不当に扱っている」と、劣等感を怒りに転化させてしまう。

ヒーローたれという理想像と現実の自分との乖離に苦しんだ男性は、その鬱屈を女性に向けがちだということです。

タケが幸子を殴ったのもそうでしたね。女をコントロールしたい、女を従わせられない男は劣っているという考えが、幸子を殴らせた。あれは「不良仲間の前で」「女に言うことを聞かせる」ことが重要だったわけです。ヒーローの呪縛と根は同じく、家父長制における男らしさの強制にあります。


男とは無条件に女子供から敬われているものである(そうでない男は失格である)というデフォルトで社会の枠組みを作ってしまったのが家父長制なわけですけれども、現実にそうはいかないから男性が苦しんでいる。フェミニズムが女性を解放しようとする一方で、男性は生きづらさを訴え始めた。そう感じるのは、それまで自分で自分を保てない皺寄せを女性に負わせていたという証左に他ならないと思うのですが、女性に「もう男の踏み台にはならない」と拒絶された彼らはラブリンのように「俺だって傷ついたんだ!!」と叫んでしまいがち自らの加害性に目を向けることができません。

そしてラブリンの5年後に落ちぶれた姿といったら、無精髭にまみれ、身体的にも精神的にも自分のメンテナンスができていないことを示しています。これ、妻に先立たれた夫は短命とかそういう精神的にセルフケアができない男性の話にも繋がってくると思うのです。悲しいことに、他者を踏みつけたり他者に担わせたりしないと自分を保てないということ。

ちゃんと男が個人として生きやすいように、男らしさの固定観念から解放されよう、ホモソーシャルな価値観の土俵から降りよう、という動きはなかなか一般男性には広まりません。

ドラマの中では、ラブリンは残念ながら最後まで呪縛を解くことはできませんでした。しかし、タケが、一方的に押し付けることは愛ではないと悟り、マルを個人として尊重して、良い友情を築きます。不良仲間の前では出せない本当の姿を、弱いところも、マルになら見せられるのです。家父長制の規定する男と女の関係ではなく、人と人としてマルと連帯することで彼は男らしさの呪縛から解放され、確実に生きやすくなったことと思います。


性差別をなくしていくためには、男性の中から男性のメンタルヘルスについての取り組みが生まれていくべきなのではないかと思っていたので、ドラマ版ホームルームがそういう視点を備えていたことにとても感激してしまったのでありました。


ヒーローと王子様の違い


ちなみに女側も、幸子がラブリンに別れを告げたのは、旧弊の価値観に別れを告げたとも解釈できるのかなと。

幸子が求めるのはナポレオン……というのは面白い演出でしたが、まあ世間一般でいう「白馬の王子様」ですよね。これまたなんとも古風な価値観でした。

この概念としての王子様は、ヒーローとは根本的に異なります。ヒーローは英雄的行為によって広く称賛を浴びる存在ですが、白馬の王子様は騎士道精神の象徴として、貴婦人に忠誠と献身を誓う存在です。身分のある気高い女性に傅き、首を垂れる存在。ヒーローは「英雄色を好む」とか言ったりするように女性を獲得可能なアクセサリとして扱うものなので、主体がどちらにあるかという点で全く違います。

女子が欲している「王子様」は、ヒーローのように広く称賛を集めている人である必要はありません。まあそんなスーパースターだったら更に良いのかもれないけど絶対に必要な条件ではない。要点は、貴婦人として扱ってくれること、リスペクトをもって接してくれること、そして自分が愛される価値のある存在だと感じさせてくれることです。自分の価値を見出されたい願望。幸子もラブリンのことを「唯一私を照らしてくれる光」のように表現していました。それは光を当ててもらえないと自力では輝けないという意味にもなります。

ちなみに今時のディズニープリンセスが女性へのエンパワメントを意識して「王子に評定されなくたって女には価値がある」「王子を待つ必要なんてない」というメッセージを発しているのは、旧来の価値観が「男に見出されて初めて女は価値を持つ」「女は無力だ」という前提に基づいているからですね。


幸子は、ラブリンのことを、「それでもやっぱり貴方は私のヒーロー(王子様)だった」と認めることもできたし、現に原作の幸子はそう動いている。けれど、ドラマ版の幸子は、「愛してくれたよな?」と問われ、きっぱりと「さよなら」と告げました。そこに愛があったと肯定はしなかった。彼女が「私も過ちを犯した」と告解したのは、単に自作自演をしただけではない、そうまでして王子様を呼びつけようとして、ラブリンに理想を強要していた自分に気付き、己のそれも愛ではなかったと反省したのかもしれない。ただ可哀想で無力な存在として消費されていたことに気付き、そして自分もまた相手の幸せを願ったわけではなく一方的な理想像を押し付けていただけだったと。

唯一の自分を照らしてくれる光を失った代わりに、幸子は自分の足で立って歩き出そうとします。そしてその傍には、親友としてのマルがいます。「迷惑はかけないから好きでいてもいい?」と幸子の意思を確認してくれるマルが。

性暴力の無罪判決を受けてフラワーデモが起こるような昨今です。言葉で同意を取る、というたったそれだけの行為が、そんなシーンをわざわざ入れてくれたこのドラマが、私の目には本当に眩しく映りました。


ラストシーンについて


最後、愛田のベッドの下に潜む幸子は、現実とも夢ともどちらにも取れるように意図的にしているんだな〜という風に私は受け取ったのですが、どうなんでしょうね。

あのシーン大好きです。ストーカー男×ストーカー女の両片想い、という基本コンセプトをしっかりと回収してくれて原作への敬意も感じられ、物語のオチとしても最高に美しいカタルシスをくれたし、秋田さんの狂った表情も素晴らしかったし、凄く良かった!そのうえ、ラブリンの愛は搾取である(社会的悪であり報われることはない)というメッセージ性を損なうことのないよう、夢だと解釈したければそうすることもできる、という配慮があったように思えました。


ストレートに受け取れば、ラブリンの母親が彼を歪ませたように、ラブリンもまた幸子を歪ませたということになるのでしょうが、個人的には幸子サイドから観ると筋が通らないなーと思うので、夢であって欲しい。


まず、幸子が一度は拒絶したラブリンの愛を5年後には受け入れる気になった、と仮定する場合。ストックホルム症候群などもあるように被害者が加害者に想いを寄せることは有り得ることだとして、そうならば、普通に落ちぶれた愛田の前に現れれば良い。「それでもやっぱり貴方はヒーローです」と肯定するなり、「ヒーローでなくともいい」と言ってあげるなり、「今度は私が救ってあげる」でも何でもいいけど、あのどん底に居る愛田にただ寄り添って生きてあげれば良いのです。ベッドの下に潜む理由がない。


では、愛田の想いなど全く無関係に、幸子が愛田に執着して自分の欲望を貫き始めたと仮定する場合。彼女が望んでいたのは、ラブリンを拒絶した後に屋上で思い描いていたような、自転車に2人乗りして笑い合えるような触れ合いです。だから彼女がやっぱりサイコパスだったとして、ラブリンと同じ手段を取る理由がない。幸子がラブリンに何か望むとしたら「白馬の王子様」の遂行を強要するはず。原作の幸子のように伴侶となることを強制すると思う。あるいは「私がいないと駄目なんですね」って過干渉を始めて母親のように世話を焼くか。いずれにしろ、無精髭にまみれた寝顔を愛でるだけ、という方向には行かないと思うのです。彼女がラブリンに見ていたのは王子様であって、無力なヒロインの価値ではないからです。


1番ありそうなのは、ラブリンを一旦拒絶したものの、その後の5年間で彼を理解しようと行動をトレースしてやがて染まってしまったという解釈。同じ美術教師の道を選び、同じペンケースを身に付け、そして同じようにベッドの下に潜んだ。やはり彼女も異常な執着を抱いており、ラブリンとの同一化を望んだとするケース。

でも、やっぱり執着心のもと(ヒーローになりたがるか王子様を待つか)が異なるので無理がある気がしますもしも自分の受け持つ男子生徒に同じ事をしているならまだわかる気がするんですけど、相手がラブリンになるのは解せない。シリアルキラーのコピーキャットは本家を殺そうとするのではなく、本家と同じ殺し方で新たな被害者を生むものでしょうし。(あの男子生徒は、同じようなことはどこでも起こるという、物語の普遍性を強化する存在かと思いました。視聴者をミスリードする材料をばらまいている、とも。)

それに、ベッドの下に潜む幸子が制服姿(眼鏡も当時の黒縁)であるのも解せない。このルートの幸子は、ラブリンを拒絶した頃から「変化した」自分を自認し肯定していると思われるので、昔の自分に立ち戻るような儀式(制服の着用)が必要だとは思えない。


一方で、過去にしがみついて記憶を反芻しているのは、花の美しさを永遠のものにしようと、絵の中に留めたり、乾燥させて吊るしているのは、愛田のほうです。やはり、あの制服の幸子は、愛田の視る幸せな(あるいは恐ろしい)夢なのではないかと思うわけです。


最後に


私の目にはこんな風な物語として映っていた訳ですが、ラブリンをいかに「ミソジニストだな」とくくっても、搾取者だとレッテルを貼っても、彼の悲しみや畏れや怒りは、私を強く揺さぶりました。苦しんでいることがひしひしと伝わってきたし、その苦しみを取り除いてあげたくて仕方なかった。

彼の苦悩がちゃんと伝わってこなければ、この物語は普遍性を獲得することはできなかっただろうと思う。ラブリンを生きてくれた山田さんに感謝を最大級の感謝を捧げたいそもそも山田裕貴氏主演でなければ観ていなかったでしょうし、間違いなく。

そして秋田さんも素晴らしかった。良い意味での存在のなさ、透明さというか、可塑性というか。台本をそのまま表現できる・凄い女優さんになる、と山田さんが仰っていたのが、素人目にもなんだかすごくよくわかります!とても素敵だった。


制作に携わった全ての皆様、良いドラマを有難う御座いました。